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法話

心の調和を求めて 3 調和した生活をするために

先月は「調和の姿は美しい」ということで、さまざまな調和した姿を考えました。
さらには、尊い思いが形に現れて、調和の美しさを見せている、というお話でした。
続きです。

調和を乱す苦しみ

誰しもが調和した生活をし、幸せに暮らせたらと思います。
でも、簡単にはいかず、日々の生活の中で、
調和を乱す事ごとがたくさん起こってきます。

調和した心を形で言い表せば、
まるくて真綿みたいに白く、それでいて強くしっかりしたものといえます。

そんな心が乱れてくると、
そのまるい白い心に棘(とげ)がささったように萎縮(いしゅく)し
黒くなっていきます。それが苦しみを呼び込むのです。

あるいは山の奥にある静かな湖の湖面が波立たず平らかで、
空やまわりの木々を美しく映している状態が、調和した心の姿といえます。

その湖に小さな小石を投げ入れただけで、湖面に波紋(はもん)が広がり、
まわりの景色を美しく映し出すことができなくなります。

調和しない心というのは、このように、いつも波立っていて、
まわりの景色を正しく映すことができず、
正しい判断ができなくて苦しい思いになるのです。

小石の波紋(はもん)

調和した心に石を投げ入れられると、
心が乱れて「むらっ」とする時があります。

小石の波紋が心に広がって、物事を正しく判断できず、
不満な思いがわいてくるのです。

たとえば、時々私は近くの温泉にいって心を癒してきます。
湯船につかって秋の紅葉を穏やかな思いで見ていると、
湯に入ってきた初老の男性がタオルを湯船の中にいれ、
しかもそのタオルで顔を拭き、そのタオルを湯船の中で絞(しぼ)るのです。

小石が私の心の中に投げいれられ、
波紋が広がって、思わず不満の思いになります。

せっかく心を癒しにきたのに、
「ああ、やめてくれよ。自宅の風呂じゃあないんだから・・・」と思い、
せっかくの安らぎの場が台無しになることがあります。

心を乱すのは簡単なことです。

「はい」と言わない。
「ありがとう」と言わない。
「すみません」と言わない。
手伝ってくれない。
約束を守らない。
いうことを聞かない。
食べ方が汚い。
掃除をしない。

そんな些細なことで、心が乱され、いらいら、むらむらするのです。

お釈迦様はこう教えています。

心がむらむらするのを、まもり落ちつけよ

「心がむらむらしたら、そうならないよう心を守れ」というのですが、
言葉では理解できても、実際に実行するのは難しいことです。

守り落ちつけよというのは、
心の波立ちを早く平らかにしなさいということですね。
調和した心を取り戻せということです。

不信心という小石

直葬(ちょくそう)という言葉があります。

『法愛』の中で、今は「しきたり雑考」になっているのですが、
以前は「仏事の心構え」でした。
そこで何度かこの直葬についてお話しをしたことがあります。

病院で亡くなって、そのまま火葬場に行き、
お墓に埋葬するというものです。

「あの世がない」という前提がなくてはできないことです。

最近でも葬儀はして四十九日はしないという家族がありました。
不信心の石を投げ込まれるのです。

「ああ、これでは成仏できない」と、
和尚の立場としては心に波が立ち、苦しくなります。

成仏できないというのを、この家族の方々はわかりません。
やがて障(さわ)りがでて、家に不幸が続くと
「おかしい」と思って供養をする場合もあります。

これは煩悩でいえば愚かさからくる不調和な思いです。

何度もある年忌の法要をしないでいるのは、とても楽です。
楽な分、同じ重さの責任を違った形で、人生のどこかで背負わなくてはなりません。

よく言われることですが、
今、解決しない苦しみから逃げて楽をしても、
またいつかその同じ苦しみをどこかで受け、解決しなくてはならないのです。

そうであるならば、 今直面している苦や責任を乗り越えていったほうが賢いのです。

欲望という不調和な思い

不調和な生活を作り出すのは、煩悩です。
その中でも心を乱す一番の原因は欲望です。

あるお経(中陰和讃)に、こんな一節がでてきます。

ほしやおしやで日を送り それが未来で罪(つみ)となる

ほしやおしやとは、
「あれが欲しい、これが欲しいということ」で、
惜(お)しやとは、
「あなたに私が持っている貴重なものを、分けてあげるのは惜しくてできない。
布施など惜しくてできない」ということです。

ですから、この欲望には二つの方向性があるということです。

一つは「欲しくてたまらない」という思いと、
もう一つは「惜しくてあげられない」という思いです。

そんな思いで暮らしていると、仏様の心から見たら罪となって幸せになれないし、
亡くなってからもあの世で苦しまなくてはならないと、このお経は教えているのです。

欲しくてたまらないという欲望について、お釈迦様はこう教えています。

たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない

欲望というのはきりがない、ということです。

貨幣が雨のように降って豊かであるというのは、
決していけないことではありません。

豊かであれば、お寺でいえば本堂も立て直せるし、三重塔や五重塔も建てられます。

でも、その貨幣の雨なる豊かさを自分の幸せのみに使って、
世間に役立つ使い方をしないのが、人として罪ある生き方だというのです。

自分が集めたものを自分のためにだけのものにしておく、
お経でいう「おしや」という思いです。
この思いがやがて罪を作っていくわけです。

先月(10月23日)、ある同級会の方々の物故者の法要を行いました。
その時「よい人生だったと思える生き方」というお話を20分くらしたのですが、
そのお話の中で次のような言葉を、ともに学びました。

一生の終わりに残るものは、
自分が集めたものでなく、自分が与えたものである。

ここには惜しくてあげられない。与えられない。
そんな思いと正反対の生き方がでてきます。
よくかみしめてみなくてはならい言葉だと思います。

人が困っているときに、自分の時間をさいて、
その人のために何かをしてあげる。

それも自分が与えたものになって、
やがてその行動が心の豊かさを作っていきますし、
人から信用を得ていく基(もとい)となっていきます。

この行いが、やがて罪ではなく幸せを作っていくのです。

自分が変わっていく賢明さ

このお話しの1回目に、アマガエルやカメレオンのお話しをしました。

相手に合わせ、自分が変わるということでした。
それが結局自分を守り、そこに調和を生み出していくということでした。

調和した生活を送るためには、
この考え方、あるいは生き方を大切にしていくことだと思います。

お釈迦様の教えには、こう出てきます。

まず自らを正しく整えて、次いで他の人を教えよ。
そうすれば賢明な人は、惑わされて悩むことがないであろう。

自分が正しく変わっていく。
そして相手をその生き方で感化していけば、悩むことがないというのです。

多くの人は相手を自分の思うように変えたいと思い、
変えられないので悩み苦しむのです。

自分が正しく変わっていくと、
やがて相手もしだいに変わっていきます。
そんな生き方が、調和した暮らしをもたらすのです。

ある本に、こんな話が出ていました。

一人の女性が結婚をし、夫の両親と一緒に暮らしたのです。

でも、お姑さんとことごとく意見が合わず、
いつもさまざまなことで衝突していました。

家庭にはそれぞれの文化や暮らし方があるので、当然だと思います。
でも、実家に戻るたびに娘さんは自分の両親に愚痴をこぼすのです。

しばらく黙って聞いていた父親が、障子のところまで進んで、
2~3回ほど障子の開け閉めをし、こういったというのです。

「あの障子は今でこそすべらかに動くけれど、
家を建てたばかりのときには、こうはいかなかったのだよ。
鴨居(かもい)を削(けず)ればいいという人もいたが、
障子のほうを少しけずったんだ。
そうしたら、今は素直にすべらかに動くようになったんだ」

「お父さんわかりました。
お姑(鴨居)さんが悪いといつも思って、不平ばかり言っていました。
今度は私自身(障子)を鴨居に合わせて頑張ってみます」

そう言うと笑顔で夫の家に帰っていきました。
その後、娘さんの努力と姑さんの理解で、
調和した円満な家庭に変わっていったといいます。

(『愛をこめて生きる』 渡辺和子 PHP文庫)

自分が変わるというのは、努力がいります。
障子でいえば、自分が削られるのですから痛い思いをします。

でも、幸せを得られるのなら、
自分が変わるという賢明な人になるべきだと思います。

感謝の思いが調和の世界を作る

調和した生活をするためには、調和した心が求められます。
そのために、煩悩を抑え、心を律して、相手の思いを大切にしながら、
自分が変わっていくということです。

禅では一色(いっしき)とか、一香(いっこう)といって、
ひと色に心を染める、ひとつの香りに心を染めることを教えています。
迷いのない心を表しているのです。

煩悩を捨て、ひと色に染まる。

どんな色でしょう。
さまざまな色があると思いますが、
その一つは、感謝の色に染まるということです。

感謝の思いに染まると、心が平らかになり、
とても安らかな調和した思いになります。

私はとても幸せです、ありがとう。
生まれてきてよかった、ありがとう。
私は私であってよかった。
私はあなたの子でよかった。
あなたたちが生まれてきてよかった。
今日も大切な時間を持て、感謝の思いで満ちています。
山々の紅葉がきれいで、空も澄んで、うれしい。
こうして感謝の思いを抱け、ほほえみを抱くことができる。
支えてくれる家族のみなさんありがとう。
いつも見守っている仏様ありがとう。神様ありがとう。

こんな思いで心を満たすと、
心が調和してきて、幸せな思いに包まれていきます。
この思いがひと色としての一色(いっしき)の姿です。

「亡き母にカーネーション」という投書がある新聞にでていました。
80才になられる女性の方のものです。

「亡き母にカーネーション」

この年になって、初めて母の日にカーネーションを贈ることができた。

18年前に亡くなった夫の母と、
私が2歳10か月の時に亡くなった実の母に感謝を伝えたくて、
二つの花瓶にカーネーションを挿し、供えたのだ。

一つの花瓶は夫の母の位牌(いはい)の前に置き、
「お母さん、いつも守ってくださってありがとうございます」
と、声に出して感謝した。

もう一つの花瓶は、私の枕元にある実母の写真の前に置き、
「産んでくださってありがとう。幸せになりましたよ。心配しないでください」
と話しかけた。

これまで毎年、
母の日には娘や嫁からプレゼントをもらって喜びを感じてきたが、
私も生きている限り、
2人の母にカーネーションと感謝の言葉を贈り続けたいと思っている。

(読売新聞 平成27年5月23日付)

この女性の母に対する感謝の思いが綴(つづ)られていて、
幸せな時を過ごしていることがわかります。

感謝の思いで心を一つに染めると、こんな気持ちになるのです。

私はよく「幸せ色に染まる」という言い方をします。
この言葉を使って詩も書いています。
今回の調和の話では、心を「感謝色に染める」という表現を使いました。

怒りや欲望、愚痴の色は暗く、
その色に染まると心も黒く染まっていき、
正しい判断ができなくなってきます。

ですから、アマガエルではありませんが、
いつも感謝色に心を染めていると、調和した生活が得られ、
自分も守られながら、幸せの日々を送ることができるのです。