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法話

努力と幸せ 2 努力の方向性

先月は「努力とは何か」というテーマでお話し致しました。
努力することで、私たちは人として無限に伸びていき、
その努力が幸せをもたらしてくれるというお話でした。続きです。

努力は裏切らない

平成12年(2000年)9月に、
オーストラリアのシドニーで行われたオリンピックの女子マラソンで、
金メダルを取った高橋尚子さんの座右の銘は、

何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ、やがて大きな花が咲く

でした。

これは努力の大切さをうたっています。

辛くて大変な時でも、努力を怠らす、
たんたんと日々努力を重ねていけば、必ず幸せを手にするということです。

そんな高橋尚子さんが、
平成20年(2008年)3月に行われた名古屋国際女子マラソンでは、
27位という結果に終わりました。

金メダルばかりでなく、平成13年のベルリンマラソンで、
当時2時間19分46秒のタイムで世界最高記録を達成し、
みんなからすごいと祝福を受けていた選手でした。

この時、高橋選手は「このマラソンを私から消し去りたい」と思ったといいます。
今までにない恥ずかしい記録だったからだと思います。
そんな時、ファンのみなさんが励ましの言葉を贈ったのです。
その言葉に涙を流しながら「努力してよかった」と語りました。

決してよいタイムではなかったのですが、最後まで負けずに、
努力して走り続けて、その姿にファンのみんなが感動したのだと思います。

努力は裏切らない、そんな気がします。
一生懸命という方向で努力を積み重ねている人は美しいのです。

そういえば、アテネオリンピックで金メダルを取った
野口みずき選手の座右の銘は「走った距離は裏切らない」でした。

人生観を誤らない

さて、一生懸命努力して、事を成すことは大切なことですが、
その努力の方向が、人生観を誤った方向での努力であったならば、
その努力は不幸への道を歩ませてしまうことになります。

この話をした平成20年に、岡山駅ホームで少年が、
当時県職員であった假谷さん(28才)という男性を、
電車がホームに入ってきた時に突き落とし、
死なせてしまった事件がありました。

少年は「人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」と言っていたそうです。

人を殺してはいけないというのは、常識です。
人の嫌がることをしない。それがひとつの大切な人生観です。

最近でもこの3月27日に、埼玉県で少女が2年ぶりに保護されました。
2年前の3月10日に、ある男に誘拐され、監禁状態にされていたといいます。

人を誘拐して、自分の思うようにする。
これも人としての人生観を知らない所業です。
少女のこれからの心のケアは大変なことだと思われます。

仏教では善悪を説きます。
善は人を幸せにし、悪は人を不幸にします。

ですから、善悪を学びよく理解して、悪を止め、
善を行っていく努力を説いています。

過去に出た仏陀7人が、共通に説いていたのが、
『七仏通戒偈』(しちぶつつうかいげ)です。

意味を書けば、

もろもろの悪をなさない。
もろもろの善を行って、自分の思いをきれいにする。
これが仏の教えである。

仏教的には、
「善悪をよく判断し、善をつねに行って、心をきれいにし、人を幸せにしていく」
これが人としての正しい人生観になります。

悪人と善人

このお話をした平成20年の2月に、真慶寺というお寺で、
上伊那仏教会主催の各宗派の教えを語る企画があって、
私は臨済宗の代表でお話をしたことがありました。

その時、死について語ることがあって、
どの宗派も死ねば浄土に行って仏様になるという考えを説いていました。

私は次のお釈迦様の言葉を引用したのです。

悪人と善人は、死後異なった世界におもむく。
悪人は地獄におもむき、善人は天上に生まれる。

(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳 岩波文庫)

このような教えを正面から説けるというのは、勇気がいることです。
死んだらみな仏様になる。そう説いていたほうが楽です。
でも、正しい教えを説くことが、僧侶の使命です。

ここでの悪人は悪いことをして人を不幸にする人で、
善人は善いことをして人を幸せにする人です。

日ごろの心構え

そして私が持っていった資料のなかに、
次のようなことを書き、お話ししたのです。
少し長くなりますが、そこを書きだしてみましょう。

「臨終を迎えるまでの日々の暮らしのなかで、
教えをどのように理解し、何を実践していったらよいのでしょう」
という問いに対して、まず言えることは、
「死を甘くみてはいけない」
ということです。

それを前提に、
今ある自分がどのように生きていったらよいかを考えるわけです。

やがて誰しもが手を合わせていただく身になります。

死んでから手を合わせていただくのでなく、
生きているうちに努力して、手を合わせていただけるような生き方をしてこそ
死後、安らぎの世界へ昇っていけるのです。

生きているうちに手を合わせていただくための生き方の基本、心構えは、
「悪を押しとどめ、善を積む」ということです。

悪を押しとどめるには、常に自分を律して生きていかなくてはなりません。
善を積むには、常に相手のことを思いやり生きていくことが必要になります。

そのような暮らしが仏とともに生きていることになり、
また禅ではそのように生きていくことで、心の内にある仏性(ぶっしょう)、
すなわち仏の心が養われていくわけです。

内にある仏の心が養われればそれだけ、人格が高まり、
まわりの人にとって「なくてはならない人」になっていき、
臨終を迎えたときにも悔いがなく、また家族や隣人の人たちから
「善い人であった」と、涙を流して送っていただけるわけです。

まずは仏教の教えに照らし、悪とは何か、善とはどのようなものか、
どうすれば悪に染まらず、どう生きたら善なる生き方ができるかを、
日々努力して学んでいくことが、暮らしのなかで仏教を活かす方法です。

こんな文章です。

悪と善を見極め、努力して善を積んでいくことが、
尊い人生を送る大切な生き方なわけです。

外に向かっては、善の目標を掲げる

繰り返せば、努力には善悪の意味を知っている必要があり、
このことを踏まえて、善の方向へ向かって努力を重ねていくことが大事になります。

そして外に向かっては、善の目標を掲げ、
内に向かっては多くの人の努力の糧(かて)を得なければ生きられないことを知り、
自分自身もそれらのひとりとして努力していく生き方を持つことです。

ここで詩を紹介します。
「傘」という題で、女性(65才)の詩です。

傘をお貸し
しましょうか
返さなくても
いいですよ
冷たい雨に打たれた
身体
この一言のありがたさ
心の中がポッカポカ

次は私の番ですね
傘をお貸し
しましょうか
返さなくても
いいですよ

(産経新聞 平成20年3月22日付)

傘を貸してくださって、返さなくてもいいですよと言われ、
冷たい雨に打たれていた身体だけれども、
その一言がポッカポカと心を温めてくれたというのです。

私も同じようにそういう人になりたいと言っています。

日ごろ見る平凡な例ですが、
正しい方向性をもった努力の仕方ではないかと思います。

話を大きくすれば、宇宙には宇宙の努力目標があると思います。
太陽には太陽の努力目標があり、地球には地球の、日本には日本の、
我が家には我が家の、私には私の努力目標があると思うのです。

花にも木々にも鳥や動物にも、生きていく目標があると思えます。
その目標には共通点があって、大木の幹のように上に上にと、
伸びているといえるのです。

その目標は、
1、自らの幸せのために生き、その幸せが他の人の幸せに通じていくこと。
2、そう努力し生き、自らが精神的に大きくなっていくこと。
3、さらには、精神的に大きくなっていくその彼方には、
神仏の心を知るという幸せがある。

こんな目標を持って、私もあなたも花も動物も、
そしてこの地球も太陽もあるのではないかと思います。

大木の幹が支えている枝葉は、
それぞれに与えられた課題が違っていることを表し、
互いの課題は違っていても、
前述の3つの目標に向かって助け合いながら努力をしているわけです。

多くの人の努力をいただいている私

内にむかっては、
自分が多くの人の努力の糧を得なければ生きていけない
ということを悟ることです。

これは心の内を見つめ、
生かされている自分を感じていかなくてはできないことです。

今「法愛」を作っていますが、ひとりの力ではありません。

お釈迦様の教えと、多くの人の尊い生き方、
また本や雑誌、新聞などの情報のおかげで、
この「法愛」が作られています。

そしてこの「法愛」を冊子にする人、配る人、遠方へ発送する人、
さらには「法愛」を手に取り読んで学び、それを自分の生き方にしている人。
多くの人の努力のお蔭で、この「法愛」も成り立っています。

庭や野辺に咲く花でさえ、努力して一輪の花を咲かせます。
その努力は私たちには見えませんが、確かに努力して美しい花を咲かせています。
その美しさに、私たちは心を癒され、生きる力をいただいているのです。

人と人との触れ合いの中でも、
自分がどんなに生かされているかを知ることが、とても大切です。

次の投書は、42才の女性の方のものです。
学んでみましょう。

天国からのありがとう

昨年四月、義父が亡くなりました。
ひどい認知症でした。

家にいる時は、やってはいけないことを山ほどして、
しからない日はありませんでした。

トイレも隣町まで行ってきて、
探しに行った私たちに平気で「ただいま」と言って家の中に入ってきました。

亡くなった日は、知らせを受けた私が一番に病院へ入ると、
もう動かないおじいさんが寝ていました。

私は声を出して大泣きしました。
「おじいさん帰ろ、好きなお菓子買ったから」
と泣き叫んでいました。

お葬式からだいぶたった一月のある日、
生前お世話になった老人ホームから一通の手紙が来ました。

「昨年の一月の書き初めを整理しておりましたら、
おじいさんの作品がございましたので送らせていただきます」
と書いてありました。

半紙が入っていて、一言「ありがとう」と書いてありました。

あんなにしかって怖かった鬼嫁だった私に、
天国から「ありがとう」って御礼を言ってくださったんだと思ったら、
泣けて涙があふれて止まりませんでした。

私もあんなにしかってごめんなさいね。
そしてお世話させてくださってありがとう。

(中日新聞 平成20年3月付)

お嫁さんと義父のお父さんとの触れ合いです。

ひどい認知症になって、言うことをきかないので、
何度も叱ったと書いています。

亡くなって、「ありがとう」の言葉をいただき、
涙があふれてきて、お世話させてくださってありがとうと書いています。

このお世話させてくださってありがとうと言う言葉は
「仏様から来た言葉」のように思えます。

互いが努力し支え合って、みな生きているのです。
自らの善を重んじた生き方と、相手が努力して支えてくれている真実を悟り、
自分の幸せと、それが相手の幸せに通じていけるような生き方が
尊い生き方ではないかと思います。

そのための努力を積み重ねていくことです。
正しい方向性を持った努力は決して裏切らないのです。

(つづく)