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法話

自分の考えをあやつる 2 自分をあやつる第1歩

先月は「あやつる」ということで、さまざまな例を出してお話を致しました。
続きです。

少し自分の考えを抑えてみる

人を自由にあやつることができれば、こんな楽なことはありません。

でも、人は機械と違って、自由に考える力を持っているので、
自分の考え方を相手に押し付けて、相手を自由にあやつることはできないわけです。
ですから、子ども1人でも、思いのままにあやつることは難しいのです。

相手と上手にやっていくために、自分の欲求を10個とすれば、
その10個のうち、2個でも3個でも、我慢するか、あるいは相手の考えに譲歩して、
相手と上手く人間関係を作っていく手法がいるのです。

時には8個まで相手に譲歩しているのに、上手くいかないときもあります。
そんなときに「ああ、思うようにならない」と強く思い、
我慢できずに、相手と諍(いさか)いを起こしてしまうこともあります。

我慢できない思い

今回の「自分の考えをあやつる」というテーマが浮かんだのは、
次の事件を新聞で読んだのがきっかけでした。

平成22年6月15日の昼頃、横浜の高校で国語の授業中、
1年の女生徒が、同級生の女子をナイフで刺したという事件です。
新聞からの判断なので、正確なことはわかりませんが、
記事の範囲内で考えてみます。

この2人は4月に知り合ったばかりで、同級生を刺して逮捕された女生徒は
「相手がうるさくて、授業中先生の声が聞こえない。
憎くてケガをさせようと思っていた」
と、鞄(かばん)に包丁をしのばせ、機会を伺っていたといいます。

刺した女生徒の性格は、おとなしく無口で、
刺された女生徒は明るく活発であったといいます。

刺した女生徒は席替えをしてほしいと訴えていたようですが、
かなわなかったようです。

6月15日のことなので、もう少し我慢すれば夏休みになって、
顔を合わせることもなくなるのですが、その時まで我慢できなかったのです。

相手と上手くやっていくのではなく、
相手を消してしまうという行動にでてしまいました。
自分の思いを正しい方向にあやつることができずに、
相手を傷つけてしまったのです。

この場合、自分の怒りにあやつられてしまったともいえましょう。

自分の考えを見つめ立ち止まる

この時自分の考えが正しいのか間違っているのか、
この考えで行動するとどうなるのかをいったん立ち止まって、
自分の考えを見つめなおすことが、自分の考えをあやつる第1歩になります。

ある川柳(毎日新聞 平成28年1月6日付)に、
「選択の連続ですね生きるって」というのがありました。
Aを選ぶのか、あるいはBかCかと、どちらかを選び取って人生は築かれていきます。

ですからこの場合、私は包丁で相手を刺すことが、本当に正しいことなのか。
今考えていることは、ほんとうに良いことなのか、悪いことなのかを、
立ち止まって見つめてみることなのです。

そして、できれば正しい方向を選択するのです。

3回考えて言う

以前、伊那の仏教会で会長をしていたころ、
ある講演会に常円寺の住職で、角田泰隆師にお願いして
「道元禅師と現代~この時代、道元禅師は何を語られるのか」
という演題で、お話をお聞きしたことがありました。

師は道元禅の大家で、近くにこんな有名な人がいるので、
このような演題をお願いして、講演をしてもらったのです。

その中で、『正法眼蔵隋聞記』という書からの引用がありました。
この書は道元禅師の言われたことを弟子である懐奘(えじょう)という和尚様が
忠実に記録し出来上がったと書と言われています。

おほよそ物を云わんとする時も、事を行はんとする時も、
必ず三覆(さんぶく)して後(のち)に言ひ行うべし

これを、次のように訳しています。

だいたい、ものを言おうとする時も、事を行おうとするときも
必ず三回考えて、その後に言ったり行ったりしなさい。

原文を調べてみると、
「賢人の三たびと云うは『幾度(いくたび)も復(かえ)せよ』となり」
とありますから、ここでの三回というのは、
「何度でも繰り返す」という意味になると思います。

よくよく考えてから言葉にしたり、行動に移すということです。
ですから、自分の考えをそのまま、安易に出してしまわないように注意しなさい
と、言っているのです。

言葉1つで喧嘩をしたり、仲たがいになったりする場合がたくさんあります。
それは安易な思いで、言葉を発し、お互いが傷つけあってしまうのです。

夫婦間でも、言葉で互いが傷つき喧嘩になる場合が結構あります。
私の家内が時々お皿やコップを床に落として割ってしまうことがありました。
その時私は、いつも家内に、「あ~~~あ‼」と言っていたのです。

その言葉を聞いた家内が、お皿を落として割った心苦しさに加え、
私のよく考えないで発した言葉にさらに傷ついて
「お願いだから、『怪我、しなかったか』と言ってください」
と言うのです。

こんな何気ない言葉で、人は傷つくものです。
それ以来、何度も練習して、少し立ち止まってから、
「怪我はなかったか」と、言えるようになりました。

少し立ち止まって、自分の言葉(考え)は、
相手にどんな思いを与えるのかをよく考えてみる。
それが自分の考えをあやつる第1歩になるのです。

自分の考えをあやつる 3 自分をあやつる第2歩

相手のことを考えてみる

自分の考えは正しいのか正しくないのかと、
少し立ち止まって、自分を省みることが、自分をあやつる第1歩とお話ししました。

次に、相手のことを考え見つめることが、自分をあやつる第2歩になります。

相手のことが見えてくると、不思議と自分のことも見えてくるのです。
見えてくると、自分がどうすればよいのかがわかってきます。

こんな投書がありました。43才の女性の投書です。

折り紙に感謝の言葉

テーブルの上に、かわいいチューリップの折り紙が置いてあった。

しばらくすると、小学校2年生の次男がやって来て、
「お母さん、後で折り紙開いてみて」と言う。

「せっかく上手に折れているのにいいのかな」
と思いながら開けてみた。

折り紙の裏には、
「1がっきの間、おべんとう、つくってくれて、ありがとう。
2がっきもおねがいします」
と鉛筆で書いてあった。

毎朝5時半に起きて、夫と小学5年生の長男、次男の3人のお弁当を作ってきた。
誰も何も言ってくれないし、正直いって面倒だと思うこともあった。

特別なお弁当でも何でもないが、
認めてもらえたのがうれしくて、思わず涙がこぼれた。

(読売新聞 平成22年7月17日)

折り紙の中に、お手紙を書いたというのが、とても素敵です。
「思わず涙がこぼれた」と書いているところは、
この方の気持ちがとても伝わってくるところです。

投書の女性が、家族のみんなに一生懸命お弁当を作っているのですが、
誰も何も言ってくれなくて、作るのが面倒と思うことがあると書いています。

そんな時、次男から手紙をもらって、そこに「ありがとう」と書いてありました。
みんなは普段、感謝の思いを言葉にはしないのだけれど、
本当は心の中で「ありがたいなあ」と思っていたことがわかったのです。

そして、みんなの気持ちがわかって、嬉しく思い涙がこぼれてきたわけです。
相手の気持ちがわかって、また頑張ってお弁当を作ろうと思うようになるわけです。

誰も何もいってくれないという、相手の気持ちがわからない時には、
お弁当を作ることへの迷いのようなものがあって、
しっかり自分をあやつることができませんでした。

でも相手の気持ちがわかったので、これからも一生懸命お弁当を作ろうと、
自分の考えを正しくあやつることができるようになったわけです。

相手の気持ちがわかると、自分はどうすればよいかが見えてきます。

目が見えなくて良かった

以前どこかで、目の不自由な視覚障害の人(Aさん)の話をしたことがありました。

Aさんが、電車の駅で待っていると、
「○○駅に行くのにはどの電車に乗ったらいいのですか」と、
まわりの人達に聞いている人がいます。

どうも男の人の声らしい。
でも、みんながそっぽを向いて、
その男の人の質問に誰も耳を傾けないのがわかります。

すると、Aさんに、その男の人が来て、同じ質問をしたのです。すると、Aさんは、
「ちょうど私、その駅に行きますから、
私も目が不自由ですので、そこまでご一緒しましょう」
と答えました。

その男の人と道すがら話していると、その人の事情がよくわかったのです。
「私は田舎から出てきて、今まで一生懸命に働いてきました。
田舎の母や家族には、毎月仕送りをしています。
どうも私の身なりが良くないようで、
みんな疑いの眼で私を見て、避けて通るのです。
でも、あなたはちゃんと私のことに答えてくれて、本当に有難く思います」
そう感謝していただき、別れたといいます。

そのときに、Aさんが思ったのです。
「私は目が見えなくてよかった。
もし目が見えていたなら、その人の姿を見て、
私も○○駅まで、案内したかどうかわからない。
案内しなかったかもしれない。
たまたま目が見えなかったから、その人に親切ができたのではないか、と思う」

この話からも、相手を正しく見ることができなければ、
自分の考えを正しくあやつることができなくて、
困っているこの男の人を、助けてあげることができないかもしれません。

自分の考えが正しいかを立ち止まって思い返し、
次に相手の気持ちを察してあげることが、
自分の考えをあやつる第2歩になるのです。

悪い心で見るフィルターを取り除く

相手の気持ちが見えない場合どうしたらよいのでしょう。
そのとき、相手の悪い所ばかりを見ていると、
決して相手の気持ちを理解することはできないでしょう。

まず、悪い思いで相手を見ているのではないかと自問自答し、
そうであるならば「悪意のフィルター」を外すことです。
そしてできるならば、相手の良い所を見つめてみるのがよいでしょう。

ある新聞の『人生案内』に、
「育児・転居 姑が協力しない」という問題で相談をしているのが載っていました。
概略を書きます。

30才の女性で主婦。
妊娠がわかって母と姉が献身的に世話をしてくれた。
しかし、義母は何もしないで旅行ばかり行っている。出産間近には海外へも。
転居の時も、母と姉は手伝ってくれたが、義母は何もしてくれない。

子が生まれ、孫を見て義母は「この子はうちの子」という。
夫が小さいころ遊んだおもちゃを持ってくるというが、
汚い納屋に何十年も入れてあったものはいらない。「いい加減にしてほしい」。

「自分が良いと思うことは人様にも良い」という勝手な義母。
どう付き合っていけばよいか。

これに答えているのが、作家の久田恵さんです。

あなたは義母を「悪意のフィルター」で見ている気がする。
嫁の妊娠中、旅行ばかりしている。海外旅行もやめるべき。
孫の世話をしなくて身勝手。息子のおもちゃを使って欲しいのは非常識など。

義母は実母や姉が妊娠中のあなたに献身するので、遠慮したかも。
子どもを産み育てるのは当事者と夫。
親が面倒をみてくれるのは当然というのは甘えでは。

陰でいろいろいうのでなく、手伝ってほしいときには、
「手伝ってください」と言葉に出してお願いすべき。
外から見ているよりも、人はみな繊細。

そもそも遊び好きの自分勝手な義母のほうが、
献身的で自己犠牲の義母よりも、ずっとつき合うのがラクだと、私は思う。

(読売新聞 平成21年10月3日)

久田さんの言うように、相談者は義母の悪い所ばかりを見ている気がします。

義母は遊んでいないで、
私のことを手伝ってくれるのが当然という固定観念も少し見えます。

相手を見つめる時には、相手の良い面を見るといいましたが、
誰も何も言ってくれないのにお弁当を作り続けたお母さんの例のように、
きっと陰では相談者のことを気遣っているかもしれません。

今度は「感謝というフィルター」を付けて、相手を見てみることだと思います。

(つづく)