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法話

心の栄養学 2 心の食事

先月は聞きなれない言葉ではありますが、
「心の三大疾患(しっかん)」ということをお話し致しました。
続きです。

心の空腹感について

身体を健康に維持していくためには、食べ物が必要です。

栄養を考えながら、ちょうどよい量の食べ物をいただき、
健康な身体を保っていきます。

身体はお腹が空(す)いたり、食べ物をいただかないと力が出なかったり、
食べたいという気持ちが出てくるので、何か食べられるものを口に運びます。

喉が渇けば水を飲み、
甘いものが食べたければ、甘味のあるお菓子や果物をいただきます。
塩気の物が食べたいときもあります。

それを判断しながら、身体に食べ物を取り込むわけです。

また単に、食べ物を身体に取り込むという機械的なことばかりではなく、
楽しみのためにも食事をします。それは精神的にも、
心の癒しをいただける時間です。

ですから多くの食文化ができ、特に日本料理は世界的にも高い評価を得ています。

一方、今回のテーマである「心の食事」は、よく分からないかもしれません。
心にも食事がいるのかと思ってしまいます。

心が空いたという表現はあまり聞いたことがありません。
身体のように、食べたいというはっきりした思いがないので、
どんなときに心が空いたのかということは分からいわけです。

あえて言えば、
「どう生きたらよいのか」
「どうしてこんなに苦しいのか」
と迷う時、心が空いたと表現できます。

あるいは
「何か生きているのが空(むな)しい」
「何かしなくてはと思うけれど分からない」
「尊いものを求めたい」
「大切なものに巡り会いたい」
「私の人生、何かが足りないのでは・・・」
などと思う時に、心が空いたといえます。

色心不二(しきしんふに)の考え方

仏教には色心不二の考え方があります。

色(しき)は物質で、ここでは身体や肉体を表します。
心は精神です。身体と心は密接な関係にあるということです。

病気をすると、身体が痛く辛い思いをしますが、
心も身体の痛みに合わせて辛くなります。

反対に人間関係や仕事の失敗などで心が病んでくると、身体まで影響してきて、
胃が痛くなったり、頭痛がしたり、吐き気がしたりと、身体にも悪い症状がでてきます。

温泉につかって身体を癒すと、心まで癒され幸せな思いになります。

ちょうど温泉に入っているときに、
となりのおじさんがタオルをお湯の中に入れて身体を洗っています。
それから、そのタオルを湯の中で絞るのです。
それを見ると嫌な気持ちになります。

身体は温泉につかって癒されているのに、心はいい気持ではありません。
そうして心が乱れてくると、せっかく入っていた温泉にも癒されなくなります。

心と身体は、通じ合っているのです。

人の生き方から心の栄養を取る

心と身体はひとつものであるのですが、
身体を健康に保ちながら、心も健康に保っていくと、幸せ感が倍増します。

ですから、心にも何か美味しい食べ物を取り込み、
食べさせてあげることが大事になるのです。

そのひとつに、相手の生き方を学び、その生き方を心に取り込んで、
心に正しく生きるための栄養を与えてあげます。

温泉に入らなくても、
人の優れた生き方を学ぶと心が強くなって、生きる力がついてきます。

詩を紹介します。
ある新聞の「朝の詩」に掲載されていたものです。
52才の女性の詩です。

この命

おかあさんは
たいへんな思いをして
おとうさまは
やきもきして
二人のおじいさまは
うろうろして
二人のおばあさまは
心配で
ハンカチを握りしめ
ひいおばあさまは
待ちに待って
そして私が生まれた
この命
粗末にできようか

(産経新聞 平成24年5月28日付)

この世に子が生まれ、命を宿すときの家族の思いや、
心の動きがよく表されています。

ほんとうにみんなに守られ生まれてきたのです。
そう気づくと、この命を粗末にできなくなります。
そして心配をしていただいた分、お返しの人生を生きなくてはと思います。

この詩を読んで、心打たれるものがあります。

家族の和と温かさ、命の尊さと、その命を粗末に扱えない心根、
優しさや支え合う思い。みんな心の栄養です。

この詩を読み、心が豊かになり、
私もできればそうありたいと思うようになります。
これが相手の生き方から学び取った心の栄養です。

言い換えれば、相手の尊い思いを心に取り込んだことが
心の食事をしたことになるわけです。

心の食事のありがたさを感じる

心の食事は、普段はあまり気づきません。

悩みがあったり、苦労があったり、悲しみがあったときに、
これを解決できるよい考え方はないだろうかと思った時、
取ることのできる食事です。

この食事を取って、心に豊かな栄養を取り込むのです。

毎日の食事は、普段あたりまえにいただいてしまいがちです。
中には手を合わせ感謝していただく人もいますが、何も言わないで食べる人もいます。

以前病気で18日ほど入院したことがありました。
その時、1週間くらい点滴だけで食事を取れないでいました。

いつ食事ができるのだろうと待ちに待って、
やっと少し味のある氷をいただけるようになりました。

以前、食べられることは当り前のように思っていましたが、
口から物が食べられるというのは、有難いことだと知りました。

お粥が始まり、
主治医の先生は「あまり美味しくはないですよ」と言われましたが、
舌で味わうそのお米の味は、何ともいえないほど美味しく、
舌から伝わる甘い味は忘れられないほどでした。
それ以来、食感が変わったように思えます。

このように、1度食べられない時を経験すると、
食べられることは当たり前でなく、極めて有難いことなのだと分かります。

同じように、心に食事を取ることができるというのは、
言葉に言えないほど有難いものだと思うのです。

心の食事の主食は何か

日本人の食事の主食はご飯です。
パン食の人もおられるとは思いますが、やはりご飯が1番です。

心の食事の主食は何でしょう。
それは「感謝」です。

感謝を心の中にいただきます。
するとどうでしょう。

支えられている喜びを知ります。
支えられているからお返しをしようとする、与える喜びを知ります。
相手を思い、自分勝手な思いが消えていく自分を発見できます。
さらには見えない世界のことを大切にできるようになっていきます。

この見えない世界のことは、
先月お話しした心の三大疾患(しっかん)の1つ目の、
「不信心という心の病」を、解決する力を持っています。
さらには、2つ目の疾患、「我欲という心の病」をも克服していきます。

感謝の思いを心の食事として、毎日いただくことで、
大切な事ごとが分かってくるのです。

平成24年の7月の山青月(やまあおきづき)の言葉が、
感謝の心を大切にしていると
ありがとうの世界が見えてくる

でした。

感謝の心を大切にしていると、さまざまな尊い事ごとが見えてきます。

いつも朝お寺の境内を掃除するのですが、本堂の裏に回ると、
本堂の屋根から落ちる雨だれをうける側溝(そっこう)などがあって、
平らではありません。そこになんなく歩み進んで掃除をします。

そのときいつも思い返すのが、車椅子です。
車椅子では、ここは通れません。

私には足があってちゃんと歩け、こうして掃除ができる。
何と有難いことかと思うのです。

もし感謝の思いがなければ、気づかないことです。
感謝を心の主食とする。そうすると、そこからさらに発展して、
与える世界が広がってきます。

教えという食事をいただく

感謝が主食といいましたが、ほかに何を心の食事とするのでしょう。

先に人の尊い生き方を学び取って、心の食事とするというお話しを致しましたが、
良い話に出会うのは、なかなか難しいものです。

ですから抽象的ではありますが、正しく生きるための教えを心の食事とするのです。
日々食事を取るように、心の教えを学んでいくことです。

この姿勢は心の三大疾患の3つ目にあげた、
「不勉強の病」を治し、心を活性化していきます。

平成24年の3月の山花月(やまはなづき)の言葉は、
小さな事ごとに幸せを探してみよう
たくさんの幸せに包まれていることを知るでしょう

でした。

この言葉、教えをよく噛みしめ、心の栄養にしていくのです。

幸せは大きなものばかりではありません。
小さな幸せを見つけ、その幸せを積み重ねていくと大きな幸せになっていきます。
そんな小さな幸せを見つけ、それが生きる力になっている投書を学んでみましょう。

ある新聞の「女の気持ち」に掲載されたものです。
47才の女性の方です。

娘のプレゼント

「パパ、早く来て」と高校3年の娘の弾む声が玄関に響いた。

何事かと主人に尋ねると「知らない」と素っ気ない返事。
2人の秘密かい、と少々むかついた気分になった。

すると間もなく、娘が「母の日ありがとう」と紙袋を差し出した。
開けてみると、センスのいい柄物(がらもの)の洋服が目に飛び込んできた。

「ママはいつも同じ格好しかしないから、店員さんに相談して選んだよ」と言う。
その時、娘が制服に着るカーディガンの袖は破れていた。

新しいカーディガンを買ってあげると言っても「いらない」と言い、
アルバイトのお金で母の洋服を選んでくれた娘。

何年間ぐらいだったろうか。
反抗期のトンネルが長く、
娘自身が目に見えないものと葛藤しながら、心ない言葉をぶつけてきた。

家族に背を向け、親子げんかはエスカレートするばかりで、
高校受験の時には、娘の携帯電話を折ったことすらあった。

友人には「女の子はいつか母親の元へ帰ってくるから」と励まされても、
もう一生仲良くすることがないと思っていたのに。

そんな娘が時間をかけて成長し、満面の笑みで目の前にいる。
もうそれだけでいい。

プレゼントの洋服は、おばあちゃんになっても、ずっと大切に取っておこうと思う。
きっと着るたび見るたびに、その洋服は娘の弾んだ声を私に運んでくれるだろう。

(傍線は話者)

(毎日新聞 平成24年5月27日付)

こんなお話です。

娘の長い反抗期が終わって、母の日に洋服のプレゼントをしてくれた娘さん。
それも満面の笑みをたたえて感謝の思いを捧げています。
そうしてお母さんは「もうそれだけでいい」と、そう書いています。

娘や息子が笑顔で母親と会話するのは当たり前でしょう。
でも、その出来事は小さなことですが、
ここでは「もうそれだけでいい、幸せだ」と言っているのです。

娘さんの弾んだ声と、満面の笑みが、お母さんを幸せな思いに包んでいます。
小さな事だけれども、お母さんにとっては、忘れられない大切な幸せです。

小さな幸せを大切にする。
そんな教えを心に噛みしめると、幸せは次々に見つかっていくものです。
これが心の栄養なのです。

今まで心の栄養学と題してお話をしてきました。
日々心にも栄養を取っていくことの大切さを知りましょう。

ただ単に日々の生活に翻弄され、いかに生くべきかの問いを失って、
あのキリギリスのように冬(苦難)になって困らないように、
日々こつこつと心の食事である教えという栄養を取っていくことです。

また心の毒となる貪欲、怒り、愚痴不満などの食べ物はなるべく食べないようにし、
もし食べてしまったら、いったん箸(はし)を置いて、
知足、穏やかさ、知恵の薬をいただいき、心を少し休め健康に戻して、
幸せの日々を培っていくことです。

心にも栄養が必要であるという真理を大切にしてください。
今年1年「法愛」読んでいただき、ありがとうございました。
感謝いたします。