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法話

脚下を知る 4 身近な人との触れ合いの中での学び

先月は平凡の中に宝がいっぱいということと、自分を知るというお話を致しました。
続きです。

教えが足もとを照らす

相手がいるから、自分を知ることができます。

相手の姿や服装を見て、私がどんな格好であるかを知ります。
相手がいて学びがあり、相手がいて幸せになれ、
相手がいて、苦しみや悲しみもあります。

それが深い体験として残り、自分自身を向上させていきます。

先月の「自分を知る」という章に出てきた、仏心(ぶっしん)でいえば、
その心が養われ大きく成長していくということです。

もし、この世に1人で生きていれば、怒ることも、嘘をつくこともありません。
人を殺したり、人から盗んだりと、そんな悪の罪をおかすこともありません。

でも、みな1人で生きているわけではないので、
相手との関わり合いで、さまざまな問題が起きてくるのです。

その問題を解決し、幸せの方向に誘っていくのが教えです。
教えは脚下を照らす明かりです。

暗い夜道、明かりがなければ、
どこに何があるかわからないので、前に進むことができません。
でも明かりがあれば、その明かりがまわりを照らし、行くべき道がわかります。

それと同じで、生きる足もとを照らすのが教えなのです。

迷い多い人生

2009年(平成21年)の5月から裁判員制度が始まり、
その制度に多くの人が関心を寄せていたので、
ある新聞(毎日新聞)に、次のような記事が載っていました。

その記事を読み、あまりにも悲しい事件で、胸がつまりそうな思いがしました。

事件があったのは、2009年の7月25日です。
自殺を図り、意識の戻らない長男を母親が包丁で刺し、
殺してしまったという事件です。

長男は妻と息子2人の4人で暮らしていました。
長男の母親は孫の運動会にも顔を出し、
まわりでは「幸せな家庭」に映っていたようです。

そんな家庭に悲劇が起こったのは、7月15日です。
長男が騙(だま)されて高額な借金を抱え、悩んだ末に、自殺を図ったのです。
一命は取り留めましたが回復の見込みもなく、意識も戻りません。

病院で「月末までに医療費500万円が必要です」と言われ、また7月24日、
家族は病院から、1日の医療費が10万円から35万円ほどかかると説明を受けました。

長男の勤務先からは、自殺未遂で保険も適用されないと告げられました。
それを聴いた長男の奥さんは医師の前で「私が呼吸器を外す」と泣き崩れるのです。

母親は決意します。「産みの親である私が死なせてあげよう」と。

翌日の7月25日の夕刻、母親は40年愛用した包丁を持って病院へ行き、
長男と病室で2人きりになりました。

たくさんの管につながれ、頻繁にけいれんを起こす息子を見ていると、
「母さん頼む」という息子の声が聞こえるような気がしました。

息子の写真を胸に抱きながら、彼の胸に包丁を突き刺しました。
そして廊下にいた看護師に「警察を呼んでください」と告げたのです。

「義母を恨むことはありません。
子供が『バアバがお父さんを天国に連れていってくれたんだね』と言っています」
と、長男の妻は調書を読み上げたそうです。

2010年(平成22年)、裁判員裁判の判決が出ました。
懲役3年、執行猶予5年です。

悪を止め善を積み、心を清める

長男は自殺未遂で、管につながれ意識が戻らず、
どれだけ生きるかわからない。

そして1日の医療費が安くても10万円。保険もおりない。
一般の家庭では払いきれない高額な医療費。

奥さんも「私が呼吸器を外したい」というくらい、悲観的になり悩んでいます。

こんな状況での母親の気持ちをよく配慮したのか、
裁判員のみなさんの判決は、執行猶予つきのものでした。
執行猶予の5年間、罪を犯さず、普通にくらせば、無実になるということです。

裁判員の方々も大変であったでしょう。
息子を殺してしまった、母親の気持ちはどうでしょうか。
私は推し量ることができません。

あえて考えれば、人を殺すことは罪になりますが、
悪を消し去り、心を清める教えは、善を積むことなのです。

できれば信仰を持ち、長男の供養をするとともに、
自分のできることで日々善を積んで生きることです。

そうすることで、罪が少しずつ薄紙をはがすように消えていき、
心が清まっていくのです。

それと共に、心にあった苦が除かれていきます。

悪を止め、善を行い、心を清める。これが仏の教えである。

これは「七仏通戒偈」(ひちぶつつうかいげ)といって、
お釈迦様が現われる前の過去の6人の仏陀と、
お釈迦様である仏陀を合わせて7人の仏陀が、共通に説いた仏の教えです。

この世の罪は5年で消えますが、この世で生きている限り、
善を積んで、こころの闇を払い、心を清めて、幸せを培っていくことです。

1つの教えが脚下を照らし、難問が解決していきます。
このように身近な人との触れ合いの中で、人は多くを学んでくのです。

その意味でも、身近な人との触れ合いの大切さを顕微鏡で見るように、
観察することが大切です。

相手は自分を知る鏡

第一生命保険が行った今年(平成27年)のサラリーマン川柳で、
約4万句の応募の中から選ばれた1つに、
「湧きました 妻よりやさしい 風呂の声」というのがありました。
なるほどという感じがします。

面白おかしく言っているのでしょうが、
この句からもっと妻にやさしい言葉をかけてほしいという、
夫の願望が見えてきます。

サラリーマンですから、一日中外で働いて、
疲れて家に帰ってくるのですから、妻のやさしさが欲しいのはよく分かります。

ここでもう少し脚下を見るように考えを深めていくと、
妻も夫にやさしくして欲しいと思っているはずです。

妻がやさしくないのは、夫が妻にやさしくしていないからです。
夫の心の姿が、妻の心に映っているのです。

もし夫が妻にやさしければ、おそらく妻も夫にやさしくなるはずです。
夫のやさしさが妻の心に映るのです。

介護でも、いやいやお年寄りを介護していれば、
その思いがお年寄りに映っていって、きっと荒い言葉が返ってくるでしょう。

心と心は通じ合っていて、合わせ鏡のようになっているのです。
ですから、こちらから相手にやさしさを投げかけていくと、
相手もやさしくなって、いい関係を築いていくことができます。

特に身近な人との触れ合いで、相手が自分に不満な言葉を口にしていれば、
私にも何か原因があるのではないかと自分を振り返ってみる習慣をつけることです。
おそらく、自分にも相手に不満を抱いていることがあるはずです。

人生で最高の宝物

相手を慈しみ思えば、必ず相手がそれに答えて、笑顔を示してくれるのが、
心の法則といえます。

次の投書は介護に関するものです。
これを読んで、とても学ぶことがありました。

親子の関係ですが、ともに相手をいたわり、幸せを培っています。
75才の女性の投書です。

母を介護する日々 人生の最高の宝物

母が介護を受けるようになって今年で10年。

食事の時間に私がスプーンで口元に運ぶと、
母はツバメのひなのように口をあけて待っている。

私が幼かったころ、まるで大きな壁のように見えた母の背中。
その母は今103歳だ。

もしかしたら、お別れが近づいているのかもしれない。
そんなふうに感じる時もある。

でも、「来世もきっと私を産んでね」とそっとささやくと、
「うん」と言って静かにうなずく母。

9日は「母の日」だ。
母の枕元に置いた深紅のカーネーションが「よく生きたね」と、
ほほ笑みかけているようだ。

大切な母の介護を続ける日々。
それは、私の人生の中で、最高の宝物だ。

(読売新聞 平成22年5月8日付)

こんな投書です。

介護を10年もしていて、それが人生の宝物だといえるこの女性には頭が下がります。
私たちの知らないところで、介護をしながら幸せに暮らしている人もいるのですね。

このお話の1回目にクマムシの話をして、
身近なところに、こんな最強の生き物がいることを知らないと書きましたが、
私たちの知らないところで、こんな明るい心根を持って暮らしている人がいるのを
ほほえましく思えます。

きっと来世でも、親しい仲で生まれ、
ともに学び合いながら、幸せを築いていくことでしょう。

私たちにはまだまだ知らないことがたくさんあります。
人と人との触れ合い、特に家族の近しい人間関係から、
学ばなくてはならない多くのことがあるはずです。

家族と暮らす日々の中から、人として大切なことを学び取っていくことが大切です。

脚下を知る 5 脚下を知ることが世界を広める

心にも面積がある

今までお話してきましたように、
自分の身近なところに大切なものを発見していくと、
自分の心の世界が広くなっていきます。

この世の世界の面積は決まっています。
でも、心の面積は決まっていないようで、
その人の大切なものを発見する量によって、
心の面積も無限に広がっていくように思えます。

ですから、Aさんの心の面積と、Bさんの心の面積は同じではないのです。
心の面積を広く持っている人が、相手の心の世界を寛容な心をもって見ることができます。

そしてその心の面積を広げる1つの方法が、
脚下を見て、多くを学びとっていくことなのです。

自分を見つめる

脚下にある自分をもう一度見つめてみましょう。
自分はどのような人間なのか、何を思って暮らしているのかを自らに問い尋ねてみるのです。

@私は感謝を大切にして生きているだろうか。
A自分の思いやりはどれくらいなのか。
B自分は信頼にあたいする生き方をしているのか。
C自分はどれだけ努力をしているのか。
D自分は1日、どれほど笑顔を作っているだろうか。
E自分は怒りを抑えているだろうか。
F自分は不満を言っていないだろうか。
G自分の欲望はどうだろうか。行き過ぎていないだろうか。
H自分は傲慢になっていないだろうか。
I自分は相手をつねに理解しようとしているだろうか。

自分の脚下にはたくさんの問いがあります。
それらをひとつひとつ見つめていくことで、心の世界が広くなり、
相手の心の世界も見えるようになっています。

自分の心に相手の心を入れる

自分の心を広くしていくのに合わせて、
相手の心、相手の気持ちを見つめることも大切です。

@の「私は感謝を大切にして生きているだろうか」という問いには、
必ず相手の存在が浮き出てきます。

相手を見つめなければ、感謝の思いはでてきません。

長く病院生活をしている人は、家族の笑顔や支えがどんなに有難いことなのか、
自分の家の布団で寝られることがどんなに有難いことなのかを知るでしょう。

それは健康を害し、入院して家を離れることで、
相手の気持ちの温かさを知るからです。
自分の心の中に、相手の気持ちが重なったともいえます。

そのように、相手のことも、自分の心の世界に入れ、
相手の気持ちを考えてあげられることが、自分の世界を広げることでもあるのです。

「私の幸せ」という37才の女性の詩です。

「私の幸せ」

当り前のことが
どれだけ幸せなことか 
やっと分かった
話すことの幸せ
食べられることの幸せ
歩けることの幸せ
だけど一番は
それに気付かせてくれた今と 
支えてくれた夫がいる
その存在が私の幸せ

(産経新聞 平成27年1月29日付)

自分の幸せを、支えてくれた夫の存在に気づいています。

相手の気持ちを自分の心の部屋にそっと入れて、大切にする。
そんな生き方が自分の心を広くし、そんな心の広い人が、
また相手の存在に気づき、自分ばかりでなく、
相手をも大切にできて共に幸せな日々を築いていけると思います。

幸せは脚下、自分の足元に、たくさんあります。