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法話

脚下を知る 2 平凡の中に宝がいっぱい

先月は「知らないことばかり」ということで、
私たちの身近なところにも、私たち自身にも、知らないことがたくさんある
というお話を致しました。

続きのお話です。

仏様から来た言葉

先月、このお話の最後のほうで
「すべての出来事が自分を育てる出来事と知る」
と書きました。

言葉を換えて言えば、
「日々が宝でいっぱい」と言い表すこともできます。
その宝を探し、その宝に気づき、心の貯金通帳に記入していくのです。

いつだったか、朝、庭を掃除していると、
ある檀家さんが、早くからお墓を掃除してから帰っていかれるとき、
「和尚さん、裏も掃除したら」と言われたことがありました。

当時、前庭だけで本堂の裏までは掃除をしていなくて、
特に秋には紅葉の葉がたくさん落ち、散らかっていたのです。
それをお寺の役員の方が春と秋に掃除にきて片づけてくれていました。

私はそれでいいと思っていたのですが、
この言葉をよく噛みしめて、考えたのです。

ずいぶん失礼な言い方だけれども、
もしかしたら「仏様から来た言葉かもしれない」と思ったのです。

それ以来、裏も掃除をするようになって、
今では本堂の裏もきれいになっています。

そこを掃除するたびに、
あの人に言われた言葉に気づいてよかったと思っています。
この体験も私の1つの宝です。

何か言われたとき、あるいは何か起こったとき、
もしかしたら仏様から来た言葉、仏様からきた出来事。
そう思うと、何かそこに尊い宝を発見できるのです。

4つの言葉

ある投書を読んでいて、
「ああ、こんなこともあるのだ」という思いになったことがあります。

これもどう生くべきかの宝ではないかと思うのです。
14才の女の子です。

「仲直りできた4つの言葉」という題です。

「仲直りできた4つの言葉」

私はよく姉とケンカしていました。

姉は私が勉強しないことに。
私は、姉が毎日、パソコンなど好きなことをしていることに対して
イライラしていたのです。

私は言葉で怒りをぶつけますが、姉はすぐ暴力です。
そんな姉に対して、ついに反抗し、たたき返したことがありました。

お互い興奮したままそれぞれの部屋に戻り、
私は怒りを静めるため、日ごろ、母から聞かされていた
「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」の
4つの言葉をつぶやきながら、何度もノートに書き続けました。

するとやがて怒りが収まり、しかも姉のほうから謝ってきたのです。

不思議でしたが、4つの言葉が、
私だけではなく、姉の心まで静めてくれたような気がしました。

(産経新聞 平成22年5月10日)

4つの言葉をつぶやきながらノートに書き続けていると怒りが収まり、
その言葉がお姉さんにまで通じいって、お姉さんの怒りまで静めてくれたのでは…
と書いています。

人は心で通じ合っているといいますが、ほんとうにそうなのかもしれません。

「ありがとう」を思えば、自分の心をも落ち着き、
相手にもその思いが通じて、心をあたたかくさせる。
そんな気がします。

怒りの中で、この4つの言葉を思い出し、
何度も書いたというのは、優れていますね。

「ありがとう」は、みなあたりまえのように知っている言葉ですが、
この言葉を繰り返すことで、怒りを静めることができるというのは、
大切な教えの宝です。

自分本位にならない

ケンカをするというのは、互いに自分本位に物事を考えるからです。
自分本位とは、自分のことを中心に考え、相手のことは二の次にすることです。

ですから、自分本位に考えていると、先ほどの4つの言葉はでてきません。

この4つの言葉を意識して使うことで、
自分のことを後回しにして、相手を思う気持ちがでてくるわけです。

こんな身近なところに、大切な生きる指針があるのです。

もう亡くなってしまいましたが俳優の渥美清さんが、こんな言葉を残しています。

「ボクサーはいいよな。
タオルを投げてくれる人がいるからね。
俳優は自分で投げなきゃあならないから」

この言葉は、人生の引き際のタイミングを言っています。
渥美さんでいえば、俳優の引き際です。

引き際のタイミングでいえば、どこかの新聞で読んだことがありますが、
阪神の金本知憲選手が1492試合連続フル出場の記録をホゴにして、
自分から先発を外してほしいと言ったそうです。

自分の記録よりもチームが勝つことを優先したのです。
自分からタオルを投げたわけです。

なかなかできるものではありません。
自分本位の考え方を捨て、相手を重んじて考える。
そこに人としての徳が現われでてくるような気がします。

自分本位の考えを捨てることで、相手の世界を見る目を持つことができるのです。
これも大切な人生を生き抜くための方法です。

自分の足元(脚下)を見つめて、自分本位に気づき、改めていく。
尊い真理の宝です。

幸せが見える心の在り方

先にあげた投書を書いた14才の女の子も、
家族の中で、さまざまな大切な発見をしていました。

顕微鏡で見るようにさまざまな出来事を見ると、
家族の縁で結ばれた人たちの中に、大切な生き方が見えてきます。

その見方は素直な思いで見るということです。
「素直な世界に住むと、幸せがたくさん見えてくる」のです。

この5月に3才になろうとする孫が山形に帰っていきました。

その孫を以前、買い物に連れていったときです。
雑誌のおいてあるところで、孫が動かなくなりました。

少し待っていたのですが、なかなか動かないので、
「もう行くよ」と言うのですが、言うことを聞きません。

それで、仕方なく孫を残して次の場所に行くと、
私を探すように、お店中に聞こえそうな大きな声で
「じーじ! じーじ!」と叫ぶのです。

お客さんが振り返ります。
慌てて孫の所に走って行って、「しー! しー!」と黙らせます。

以前、ここで書いたことがありました。
「孫に叱られるんですよ」と同じ年くらいの檀家さんに言うと、
「和尚さん、私も叱られてみたい」と言われたことです。

おそらくその人は、
「私もじーじ!って、叫んでもらいたい」と言うでしょう。

その人の言葉がなければ、
「この出来事は、ほんとうは幸せなことなのだ」
ということは分からないかもしれません。

健康でいると、健康のありがたさが分からなくなります。
豊かであると、その豊かさをあたりまえのように思います。
幸せの中にいると、その幸せが見えなくなるのです。

そんなときに、素直な心でまわりを見渡すと、幸せの世界が見えてくるのです。
素直な思いでいると、さまざまな体験が大切な宝のように見えてくるのです。

素直に物事を見るというのは難しいことですが、
自分のプライドや頑(かたく)なな考え、あたりまえと思う見方を捨て、
素直な心でまわりを見てみます。

すると今まで気づかなかった世界が、きっと目の前に広がってきます。

我欲の心に見える世界

いつだったか『婦人公論』という雑誌を読んでいると、
ある女性の辛い体験が書いてありました。

こんな人もいるのだなあと思ながら、
我欲の心だと、我欲の世界しか見えず、
相手のあたたかな気持ちも見えないのだなあと思ったのです。

こんな話でした。

小さい頃、母が離婚をし、母を助けて妹と弟を大学まで出しました。
母が亡くなって、44才。独りきりになり空しい生活です。

そんなとき、あるサークルで60才の男性と知り合いました。
その人は奥さんを亡くされて、とても淋しそうにしていました。

相性があって、結婚しました。
それも父に甘えるような結婚でした。

幸せは3年ほど。
くも膜下で、旦那さんが倒れ、介護の生活が始まりました。
7年間介護をし、旦那さんは70才で他界してしまったのです。

その旦那さんには、二人の息子がいました。

介護もしなかった息子たちは
「お前は財産目当てだろう」と罵り、
「49日の法要が終わったら出てってくれ」といいます。

生命保険の受取人が彼女名義であったのに、それも変えられ、
出ていくときには50万円を投げ捨てるように渡されました。

彼女はそれを突き返して、その家を出たのです。

今はアパート暮らしですが、
彼との結婚は財産目当てでなく、本当に愛していたと思っています。

今も亡くなった旦那さんの写真にご飯をあげ、供養していると語っていました。

淋しい話です。

この息子さんたちは我欲が強く、この女性の気持ちを察することができません。
なぜなら、我欲の思いは、我欲の世界しか見えないからです。

あたたかな世界をみるためには、あたたかな気持ちにならなくてはならないのです。

心に色メガネをかけるという言い方をどこかで聞いたことがありますが、
我欲のメガネをかけていると、欲望の世界が見え、
ありがとうという感謝のメガネをかけていると、生かされている安らぎの世界が見えるのです。

身近なことでも、その見方によって、まったく違った世界が見えてきます。

玄関の靴が乱れていないかを見るように、
私の心に色メガネがかかっていないかを、よく見つめ、
素直な思いで、まわりを見つめてみると、たくさんの宝が見えてくるものです。

脚下を知る 3 自分を知る

大きな疑問

「脚下を知る」というテーマですが、この脚下は足もとの意味ですから、
自分自身を知ると言い換えていでしょう。

この自分を知るというのは、とても難しいことです。
昔から大きな疑問として考えられてきました。

自分を考えるとき、
名前が自分であるのか。肩書きなのか。鏡を見たその姿なのか。

どうもしっくりいきません。

名前は、女性の方であれば結婚するとき、姓を換える人が多いと思います。
ペンネームを持っている人もいますし、書家や華道家、
あるいは茶人で雅号を持っている人もいます。
坊さんになれば、坊さんの名に変えます。

変化する名前では自分だとは判断できません。
肩書きも、仕事を終えて定年になれば、その肩書きも消えてしまいます。

顔や姿も、この顔が私だと思っても、
赤ちゃんの顔と、80才の顔では、まったく違った人に見えます。

名前や肩書き姿形で、ある程度の人柄を判断することができますが、
私自身を見定めるのは、まだ物足りないものがあります。

仏心を見定める

仏教的には、自分は「仏心(ぶっしん)」であるといえます。
自分を知ろうと思うなら、仏心を知ればいいわけです。

この仏心に気づき、その仏心を育て、成長させいくと徳が培われ、
自らを高めると共に、人の幸せのために働けるようになるのです。

もともとこの仏心は、仏が私たちにくださった宝なのです。
仏とはこの世を智慧と慈悲でお創りになった方です。

『法愛』の3月号で、ID学説という話をしました。
この世は知性ある何かによって創られているという考え方でした。

仏教では、仏が智慧でこの世を創り、
慈悲によって創られたものを抱いていると考えます。

その仏を大日如来といいますが、私たちを創られたときに、
仏と同じ力を持った仏心をすべての物に宿したのです。

そのいただいた仏心に目覚め、気づき、その仏心を育てていくのが、
私自身を育てると同じなのです。

親子はよく似ています。
似ていない子もたまにはいますが、父母のどちらかに似ているものです。
顔が似ていなくても、性格が似ているという場合もあります。

私の子ども達はみな小さい頃は母親似で、よくまわりの人の言われたものです。
子どもも30を過ぎてくると、あれほど母親似と言われたのが、
次第に私にも似てくるのです。

年を取るに従い、親に似てくるとよくいうことですが、
この顔形は努力しなくても、親に似てきます。

でも仏心は違います。親なる仏からいただいたのですが、
育てようと努力しないと、仏に似てこないのです。

仏教に「種智(しゅち)を円(まどか)にしよう」という教えがあります。
種智とは智慧の種です。

先ほど大日如来が智慧でこの世を創られたと書きました。
大日如来と同じ智慧をいただいて私たちが生まれました。
でも、その智慧はまだ種なのです。

その種を育て大きくし、
やがては大木になるまでに育てあげるのが、私たちの使命なのです。

大木でなければ、花でもいいでしょう。
1つの小さな種を育て花を咲かせる。
その花は無心に咲いて、多くの人の心に安らぎを与えます。

大木になること、あるいは花を咲かせることを言い換えれば、
私たち自身が智慧の種を育てることで、仏に近づいていくと言ってもいいでしょう。

何事も育てるには苦労が伴いますが、そこに幸せの果実も稔るのです。

(つづく)