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法話

脚下を知る 1 知らないことばかり

今月から「脚下を知る」というテーマでお話を致します。

このお話は平成22年5月20日に、法泉会というお話の会で話したものです。
5年ほど前になりますので、適宜に変えながら進めていきます。

未知の世界

私たちのまわりには、知らないことがたくさんあります。

宇宙の彼方(かなた)のことは、もちろんわかりせんが、
私たちが普段、生活している中に、たくさんの知らないことがあるのです。

私が毎月取っている雑誌の中に、
科学雑誌で『ニュートン』という雑誌があります。

難しい科学の理論はわかりませんが、
私のまったく知らないことが写真を載せて編集しているので、
その写真を見るだけでもいいと、取っているのです。

その中に
「自然がつくりだしたミクロの造形 写っているのは何の生物?」(2010年5月号)
という企画があって、ヒマワリの葉やナスの葉、イネやアサガオの葉などを
何十倍にも拡大した写真が載っていました。

たとえばヒマワリの葉は60倍に拡大しています。
まったくヒマワリとは分かりません。

その写真をお見せできないのが残念ですが、こう説明しています。

ヒマワリの葉の表面(60倍に拡大)。
角のような突きでた構造や、イモムシのような構造は、すべて毛である。
ヒマワリの葉をさわると、ざらざらとした感触があるが、
それはこの毛があるためだ。

この写真を見て、驚きとともに、自分のすぐそばに(脚下に)、
知らないことがたくさんあるのだなあとしみじみ思い、
このテーマでお話をしてみたいと、この話を作ったのです。

クマムシの正体

このお話は5月20日にしているのですが、その月の5月17日に、
ある新聞(産経)に、クマムシのことが載っていました。

写真と図入りでていねいにクマムシのことを書いていました。
私の知らない世界です。

クマムシは市街地の乾燥したコケの中によくいるそうです。
名前の通り、姿は熊に少し似ていてたくましい姿をしています。

大きさが0.1mm〜1mmですから、
とても小さいので、私たちには見つけられないと思います。

クマムシの名のように「ムシ」がついているので、昆虫と思ってしまいますが、
「ゆっくりである」ことを意味する緩歩動物(かんぽどうぶつ)だそうです。

陸や海などに1000種類いるそうで、この動物がすごい力を持っているのです。

151度の高温に耐え、低温では-273度でも生きていられるようです。
高圧は7500気圧に耐えることができ、
これは地球にない水深750kmの水圧に相当するようです。
低圧はほぼ真空の30マイルパスカル。

難しいですよね。
宇宙空間に10日さらしても生きていられると書かれています。
放射線はX線で6200グレイに耐え、これは人の致死量の約1000倍だそうです。

生きているのでも死んでいるのでもない
乾眠状態という第3の姿があるようですが、
飲まず食わずの乾眠(かんみん)に耐えた最長期間は9年で、
凍結保存の場合は20年後に復活したという事例があるといいます。

こんな動物が身近にいるとは、まったく知らず、
知らないことばかりだなあという思いになったものです。

命の存在

とても身近な私たちの命について考えてみます。

この命のことを、本当に私たちは知っているでしょうか。
あまりにも身近なことなので、クマムシのように、知らないでいるかもしれません。

この命の在り方については、
平成20年に伊那市の春富中学校の生徒さんに
「大切な二つの命」という演題でお話ししたことがあります。

この『法愛』では平成25年の4月と5月に、その話を文章にしています。

そこでお話ししたのは、心臓が動いているこの「肉体の命」と、考えたり
思ったりすることのできる「心の命」の2つの命があるという話でした。

13才の女の子が自転車に乗っていて転び、あごを骨折してしまいました。
命の別状はなかったのですが、歯が固定するまでの2週間、
点滴のみで、一切食事ができなかったのです。

おなかが空いて、イライラすることがあったようです。
そのとき、学校で習った、食事のできない貧しい国の子ども達のことを思い、
食べられることがどれだけありがたいことかを知ったようです。

そんな記事を読んで、この肉体を維持するためには、
食べ物をいただかないと生きていけないことが、よくわかります。

健康でいると忘れていることが、
いったん怪我や病気をして食べられなくなると、
食べることのありがたさを知るのです。

私自身も少し病んで、10日ほど点滴をしたことがありました。

お医者さんが
「今日から重湯(おもゆ)から始めましょう。でも美味しくないですよ」
と、食事を取ることを許可してくれました。

でも、その重湯は舌にじっくりしみてきてとても美味しく感じられたのです。
そして3度の食事が、待ち遠しくてたまらなくなりました。

食べられるというのは、ありがたいことなのです。

身体の命という乗り船

少し難しくなりますが、
仏教ではこの世は仮の世であると教えています。

仮の世といっても、物や形があってしっかり見えるので、仮のものとは思えません。
でも無常という視点から見ると、やはりこの世には常なるものが無いのです。

そんな世に、みな心の学びをする修行のために生まれてきます。
心の命が多くの学びをするために生まれてくるのです。

その時、心の命だけでは、この世を生きていくことができません。
そのために心の命を守り支える肉体がいるのです。

この世を大海原と表現するならば、
その海原を渡る船が、この身体の命といえるのです。

この船を使って、苦楽の波を乗り越え、心の命がさまざまな学びをします。
そんな関係が、この身体の命と心の命にはあるのです。

心という命の食事

心の命にも食事がいります。
心が食事をとり健康で、さらに成長させていきます。

でも心の命に食事が必要などとは、あまり考えないかもしれません。
これもあまりにも心が身近にありすぎて
見過ごしてしまっているような気がするのです。

心の命が安らぐのは「やさしい思い」の食べ物です。
心がいら立つ食べ物は、「不満や怒りの思い」です。

勇ましく生きていくためには、
「人の信頼と励まし」の食べ物が心の命にはいります。
正しく生きていくためには、心の命に「教え」の食べ物が必要になるのです。

次の投書は、小学校の担任の先生からいただいた手紙で立ち直り、
人生を生き抜いてきた人のものです。
心の命に、勇気という食べ物をいただいたのです。

「先生からの手紙は一生の宝」という題です。
73才の男性です。

「先生からの手紙は一生の宝」

私は小学校4年生から柔道を始め、
高校に入った頃には名門大学からの誘いもありました。
まさに柔道が自分の生きがいでした。

しかし高校の試合で
肘(ひじ)関節骨折と靭帯(じんたい)断裂の重傷を負ってしまいました。

その日から絶望の日々が始まったのです。

そんな時に
「博ちゃん、さぞかしお力落としのことでしょう。具合はどうですか?」
との書き出しで始まる美しい字で書かれた1通の封書が届きました。

小学校の担任だった女性の先生からの手紙でした。

「人間の一生はどんなに努力しても
1度や2度、とてつもない不幸に見舞われるものです。
これからの人生を大切にして勇ましく立ち上がる男らしさを見せてください。
先生は博ちゃんの本当の実力を信じています」

柔道は現役を退いたものの、
この手紙がなかったなら今の私の人生はなかったと思います。

先生からの手紙は私の一生の宝ものになりました。

(産経新聞 平成27年3月)

こんな文章です。

柔道をしていて、高校に入ったら名門大学からの誘いがあったと書いています。
かなりの腕前であったのでしょう。

それが怪我をして柔道ができなくなって、それから絶望の日が続いたといいます。
そんなとき小学校の先生から美しい字で書かれた手紙が届きました。

この先生の、
一生には努力しても、とてつもない不幸が1度や2度は来るということ。
男らしく勇ましく生きてくださいという励まし。
そしてその力を信じていますという博ちゃんへの信頼。

この先生の思いが心の命に染みわたっていって、絶望から立ち上がったのです。

これがまさに心の命の食事です。
この食事を取り、新しい人生を歩むことができました。
その命の食事は、肉体を維持する食事と違って、
ずっと心に生きる力を与え続けているという特徴があるようです。

互いが助け合って生きている

互いが助け合って生きているということも、当然知っているようで、
知らないで過ごしている場合が多いのではないでしょうか。

今日一日を振り返ってみます。

朝、目が覚めます。
目覚まし時計に起こされます。
目覚まし時計にありがとうと言ったことはありません。
寝床には、布団に枕、布団にはシーツがあり、枕にもカバーがあります。
パジャマを着ています。
みんな支えられて一夜を過ごしました。
でも、あまり深く考えたことはありません。

起きてから、顔を洗い、着替えをして、お茶をいただき、食事をとります。
水に助けられ、着替える服に守られ、美味しいお茶に心を癒され、
食事に出されたたくさんの命に生かされます。
「いただきます」と言って手を合わせいただくのですが、
箸(はし)やごはんを盛ったお茶碗に、ありがとうと言ったことはありません。

時間があれば新聞を読み、テレビを見て、仕事に出かけます。
新聞を配達してくれた人の苦労は忘れています。
テレビをつけるリモコンに、あなたのお蔭でテレビも楽に見えると思っても、
リモコンにありがとうは言いません。

朝の数時間の間に、家族の人以外の物に、どれほど助けられて過ごしたか、
気づかずに過ごしてしまう日々が多々あるのです。

ヒマワリの葉を顕微鏡で見て、まったく違った世界を見るように、
朝の過ごし方を顕微鏡で覗(のぞ)くように見ると、
助けられている世界が、ありありと見えるわけです。

ですから、このことを知れば、
私も人さまにお返しする生き方をしなくてはと
思わなくてはいけないわけなのですが、そのことに気づかないのが私たちです。

すべての出来事が、自分を育てる出来事と知る

よく考えられることは、特別な出来事があって、
そのために私は学んだ、僕は勉強になったと思うものです。
それは確かなことです。

でも、小さな出来事やささいな出来事も、
自分を育ててくれる大切な出来事なのです。

このことを理解するのは難しいことです。
これも顕微鏡で見るように、身近な足元である日々の暮らしを見てみるのです。

護国寺では『法愛』を毎月出しているのですが、
その表紙に小さな色のついた紙に、「月のことば」を載せています。

『法愛』の文章が長くて読めない人は、
この「月のことば」だけでも読んでもらえばよいと始めたのです。

始めは「1月のことば」、「2月のことば」と始め、
そのうち「睦月のことば」、「如月のことば」と変わっていきました。

続けるうちに物足りなくなって、
月にもいろいろな呼び方があるのではないかと調べてみると、
『こよみ読み解き事典』という410ページほどの事典があることを知って買い求めました。

すると1月にも50個あまりの言い方があるようで、
そこから気に入ったものを選んで載せていました。

さらに続けているうちに、良いものが見つからなくなって、
「ええい、自分で作ってしまえ」と、自分が考えて月の名前を書くようになったのです。

今年は「香」を入れて、先月は「香花月(かおりはなづき)のことば」でした。
身近なところから、その月に合うことば探すのです。
5月は「香爽月(かおりさわやかづき)のことば」です。

ときどき、「いろいろな月の言い方がありますが、出典はどこですか」
と聞かれるときがあります。

そのとき、「私が自由につけているのです」と答えてはいますが、
考え出すのにとても苦労しています。

でも身近なところから、新しい言葉を発見するのは、とても楽しいことです。

そして、そこに1つの短いことばを考え載せています。
先月は「素直にすみませんとあやまる 心やわらかにほほえんで許してあげる」でした。
日常の身近なところから探し出して書いています。

この言葉は、家族の間で起こった出来事で、
「ああ、素直にすみませんと謝ったほうが、事は平穏に終わっていくし、
謝ってくれたら、いいよとほほえんで言ってあげるのが、いいことだなあ」
という体験からきています。

それが文章になって、多くの人の目に触れるのです。

自分のまわりにある小さな出来事でも、
自分を育てる材料としてあるのだと思えば、
尊い出来事に、みな変わっていきます。

(つづく)