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法話

幸せと人間関係 4 相手がいて自分を知ることができる

先月は「学ぶために人との出会いがある」というテーマで、
相手がいることで、学びが深まり、幸せをつくっていけるというお話を致しました。
続きです。

相手の姿を見て自分が分かる

人間関係は複雑ですが、
相手がいてこそ、自分がどのような人間であるかが分かります。

ロビンソンクルーソーのように独り小さな島に住むようになれば、
自分がどのような人間かを察する必要もありません。
自分の顔や姿には無関心になるかもしれません。

ごく普通の私たちにとってみれば、
相手がいて、自分の顔が大きいのか小さい顔なのか分かります。
相手の身長を見て、自分の背が高いか低いかが分かります。
相手の体重を察して、自分が太っているかやせているかが分かるわけです。

また老いも若さも相手と比較して、自分の年を察することができます。

女の子ばかりのAKB48など見ていると、
孫が踊っているように私には見えてきますので、
私もそれなりに年を取ってきたことが分かります。

以前、伊那に女優の藤田弓子さんが講演にこられました。
7年ほど前でしたので、当時は62才だったと思います。
でもチケットを見ると、若い時のきれいな顔写真で、
講演されていたお顔とはずいぶん違っていました。

なぜかというと、あるお坊さんに、
「遺影は、その人の亡くなったときの顔でなくてはいけませんか」と聞くと、
「そんなことないですよ」と言われたので、
それ以来、チケットやポスターも若い顔写真にし、
遺影も若いのにすると言っていました。

その話の中で、年を取ってきたら明るいきれいな服をきなさいというのです。
「ああ、年を取っても、明るい色の服を着て、
年を感じさせない生き方がいいんだろうな」と思って聞いていましたら、
「茶色の服をきていて、もし畑で倒れたら、土と同じ色だから分からなくなって、
2〜3年、見つけてもらえないですよ」というのです。
みんなが爆笑していましたが、とても話が上手でしたね。

病気の人を見ても、私は健康だなあと気づかせてもらえるし、
亡くなった人を見て、「自分は生きている」と、そのとき深く感じられるものです。

こう考えてみれば、相手がいるというのは、有難いことだと思います。

相手の心を見て自分を知る

相手の姿を見て自分を知るほかに、
相手の思いや心の癖などを見て、自分を知っていくこともあります。

なかなかこの見方は難しいのですが、たとえば
「あの人は心根のやさしい人だけれど、
私はそれほどのやさしさはないかもしれない」とか、
「あの人は努力家で、私もそうなりたい」と、
相手を見て自分を知る方法です。

ここに1つの悩み相談を載せてみます。
「対処しにくい同僚」という題がつけられています。
女性の方で、D子と自分は名乗っています。

「対処しにくい同僚」

40歳派遣社員。
悩みは同僚3人の対処法。

派遣同士、波風を立てたくないし、
協力しなければならない場面も多いのですが、
これまで付き合ったことのない人たちなのです。

A子さんは少し年下。
仕事をしながら一日中、不平不満を周囲にまき散らしています。
そばにいると本当に不快。

B子さんは若いころは職場のリーダーだったらしく偉そうに話します。
自慢話にはあきれてしまいます。

C子さんは一見穏やかですが、
自分の得になるかどうかをしっかり見定めて人と付き合います。
「陰ひなた」があるのです。

私自身はマイペースな人間。
すきを見せないようにしているので、
3人にしてみれば、付き合いにくいかもしれませんが…。

こんな人間関係で眠れなくなるときがあり辞めたくなることも。
相手は変わらないと知っていますので、
私の対応の仕方、また心の持ちようについて、助言をお願いします。

(読売新聞 平成21年9月7日付)

ここでの悩みは、服とか顔とか見えるものでなく、
相手の考え方や性格、そこか出てくる行動を問題にしています。

ですから、A子さんもB子さんもC子さんも、
女性だとは分かりますが、まったく顔も姿も分かりません。

簡単に言えば、
A子さんは不平不満の人。
B子さんは偉そうな人。
C子さんは陰ひなたのある人。
本人であるD子さんは、隙をみせない付き合いにくい人。
こうなります。

D子さんは自分も相手もよく分析して、しっかり人を見ています。
相手がいるから、こうして自分の性格や考え方が分かるといえます。

対処法を考える

D子さんの相談者の答えをまとめると、

相手は変わらないだろうから自分を変えようという、
あなたの心の持ち方に感服しました。

ですので、私ならどうするという視点でいえば、
結局マイペースを貫くというあなたの対処法に勝るものはないように思います。

もっと長いのですが、まとめればこうなると思います。

対処法になるかどうかわかりませんが、
1つは気にしないことだと思います。気にしない人間関係です。
2番目は、心で距離をおいて、仕事だからと割りきるということです。
3番目に、相手の良いところも探し、あったらその良い所を認めて、
心の内でほめてあげる、です。

D子さんは、相手を見る力があるので、
さらに相手のことを見つめていけば、
きっと良い所も探し出すことができると思うのです。

ここではD子さんは3人の悪い所ばかりを見て、悩んでいます。
これはどういうことかというと、自分の悪い心が相手を見ているから、
悪いところばかりしか見えないのです。

不満に思えば、相手の不満なところばかりが見えます。
自分に偉そうな思いがあれば、相手の偉そうなところが見えます。
自分の心に陰にひなたの部分があれば、相手にもそんなところが見えるということです。

自分に圧倒的やさしさがあれば、
相手の心にも、やさしさを発見できるということです。

心の花を見る

鎌倉末期から室町初期に活躍した、
臨済宗の禅僧である夢窓国師というお坊さんがこんな歌をつくっています。

誰もみな 春は群れつつ遊べども 心の花を見る人ぞなき

春になると、代表的な花である桜の花に人が集まって、
その花を見て楽しみ、余暇を過ごすものです。

それもまた良いことですが、
一方で、心に咲く桜の花を見る人は少ないものだ、
という意味だと思われます。

桜の花を見てきれいですねと、誰しもが素直に思うことです。
でも、D子さんに、「A子さんの心の中に咲く桜の花を見てください」といえば、
今のD子さんにはできないかもしれません。

相手の心の中に咲く桜の花を見る方法は、
自分の心の中に桜の花を咲かせることです。

自分の心の中に桜の花が咲いていると、
相手の心の中にも、桜の花を見ることができるのです。

相手が悪く見えてしょうがいない時には、
私の心の中に、悪い部分があるのだなあと思い、
その悪い部分に気づいて取り除いていき、
桜の花としてのやさしさや思いやりの花を咲かせていくことなのです。

そこに幸せの花が咲いてきます。

神仏の思いを見て自分を知る

見えない神仏の存在を信じるか否かで、自分を知ることもできます。
これは幸せになる大切な方法です。

神様や仏様の心を知って、自分の心を知るというのは王道です。
王道とは最も正当な方法という意味です。

神仏を信じない人は、これができません。
神仏なんかいないと思っているからです。

神仏の心とはどのような心なのかということを学びながら、
「ああ、こういう思いが神仏の心なんだなあ。
あの人のように生きることが、神仏の心なのかもしれない。
私はどのような心を持っているのだろう。
ああ、なかなか近づけないけれど、少しは分かるような気もする」
そう思いながら学んでいくと、神仏の心に近づいていけるのです。

テレビ東京系で「開運!何でも鑑定団」という番組があります。

私も時々見るのですが、
鑑定士の中に中島誠之助という髭の似合う先生がおられます。
焼き物や茶道具の鑑定をする先生です。

その先生が、壺などの鑑定で大切なのは、本物を見なくていけないというのです。
本物を見て、それを手に取って、触って、何焼きかを調べる。
国立博物館などに行って、本物を見る勉強をする。
本物をみなければ、偽物が分からないというのです。

ですから、心の世界でも本物を見ないと偽物の自分になってしまうのです。
本物の世界というのは神仏の世界なのです。

神仏の世界が本物なのです。
本物を見て知れば知るほど、
「本物とはこういう生き方をすればいいんだな」と分かって、
自分が偽物から本物へとすこしずつ変わっていけるのです。

偽物の考え方ばかり見ていたら、本物の生き方はできないのです。

三千院の阿弥陀三尊

パンフレットなどに載っている仏様の姿も、
実際にお参りして見るとまったく違います。

昨年、京都の本山に檀家さんと一緒にお参りにいきました。
そのとき、京都の大原にある三千院をお参りしたのです。

三千院の本堂である往生極楽院に阿弥陀三尊が祭られています。
写真では見ていたのですが、実際にお参りすると、迫力がまったく違います。

ここの阿弥陀三尊の特徴は、阿弥陀様を中央に、
向かって左に合掌している姿の勢至菩薩様、
右に亡くなった方の魂や霊を載せる蓮華台を持っている観音様がおられます。

少し変わっているのは、脇侍のお二人の菩薩様が、
今にも立ちそうに、少し前かがみになっていることです。

その姿を実際に拝すると、
写真ではとうてい味わえない、尊さがありました。
やはり本物を見ないと、ここの阿弥陀三尊の良さは分からないと思います。

ですから、本物を見て、自分を正しく判断することができるということです。
繰り返しますが、本物の心とは神仏の心、生き方、教えです。
その本物を見て、自分がどのような生き方をしているのかを見ます。

それを積み重ねていって、自分が偽物から本物になっていけるわけです。

これが神仏との人間関係ならぬ信仰関係とでもいいましょうか。
私をいつも見守ってくれている尊い存在への信仰関係から、
幸せをつく出すことができるのです。

幸せと人間関係 5 人間関係の基本

財においても精神においても独立している

今まで「幸せと人間関係」をお話ししてきましたが、
人間関係の基本は、自分自身が財においても精神(心)においても
独立していることだと思います。

真面目に働いて財を持ち、人に頼ることなく普通に生活できることと、
精神的にも強く正しく生きていけること。
これがよい人間関係をつくっていく基本だと思います。

人に頼ろうとして、
「あれもしてくれ。これもしてくれ」ということばかり言っている人は、
その人からいつか友が離れていきます。

助け合っていくのは大切ですが、
いつも助けられる方にばかり身をおいて、それが当り前になってしまうと、
決して幸せにはなれません。

さらに独立している人が、余った財を他の人のために使ったり、
精神的余裕がある人が、他の人のために、自分のできることを成していくと、
より幸せが広がっていきます。

誠実さを持つ

人間関係の基本で、もう1つ大切なことを言えば、
相手に常に誠実に接することではないかと思います。

『孟子』のなかに、こんな言葉がでてきます。

至誠(しせい)にして動かざる者は、未(いま)だこれあらざるなり。
誠ならずして未だ能(よ)く動かす者あらざるなり。

人間関係を重点に訳すと、
「誠意を尽くして人に接すれば、どのような人でも必ず動かすことができるし、
不誠実であれば、どんな人も動かすことができない」
という意味になると思います。

孟子はこの「誠」を「天の道であり、万事の根本である」と言っています。
仏教的にいえば、「仏の道」であるとも解釈できます。

私が書いた本で『自助努力の精神』の中の第3章に
「誠実に生きる」という1章を入れて、誠実とは何かを書いたことがありました。

その中で、人前で話をするときに、
どのような心構えで話したらよいか分からず、迷っていたときに、
「人の前で話をするときには、誠実であること」という言葉に出会って、
悩みが解消したことを書いています。

今でも人の前でお話をするときに、
「誠実であれ、誠実であれ」と唱えるときがあります。
そうすると、お話が劣っていても、必ず誰かその話を聞こうとしてくれます。
「動かざる者、未だこれあらざるなり」です。

誠実に人に接していけば、そこにあたたかな人間関係が築かれ、
必ず幸せになっていけます。