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法話

幸せと人間関係 2 支え合う幸せ

今回から「幸せと人間関係」というテーマでお話をします。

先月は「複雑な人間関係」という章で、
相手がいることで不満に思ったり、嫉妬したりして、
不幸を思うというお話を致しました。
続きです。

相手がある幸せ

複雑な人間関係の中で、不満を思い不幸を嘆くばかりでなく、
人と人との出会い中で、喜びもあります。

相手がいるから幸せになれるという場合もたくさんあります。

1つの詩を紹介します。
ある新聞の「朝の詩(うた)」に出て来たものです。
37才の女性の方の詩です。

私の幸せ

当たり前のことが
どれだけ幸せなことか
やっと分かった

話すことの幸せ
食べられることの幸せ
歩けることの幸せ

だけど一番は
それに気付かせて
くれたことの今
支えてくれた夫がいる
その存在が幸せ

(産経新聞 平成27年1月29日付)

当たり前のことが、どれだけ幸せなことか分かったと書いています。

今回のテーマが人間関係なので、その視点で考えてみると、
話すことの幸せとは、相手がいるからできることです。

また支えてくれる夫がいる。その存在が幸せとも言っています。
夫婦でも、共に助け合い、理解し合う夫婦仲であれば、幸せになれます。
独りで食事をするよりも、夫婦仲良く食事をしたほうが、幸せは倍増します。

相手がいるから、幸せになれるのです。

家族のいる幸せ

東日本大震災で家族を失った高校生が、
ごく普通に暮らしていた家族であっても、いざその家族が震災でいなくなってしまうと、
「なんと淋しいことか」と涙を流している映像を、テレビで見たことがありました。

普段なにげなく暮らしている家族であっても、
その家族がいつもそばにいてくれるというのは、
この詩のように当たり前のことですが、とても幸せなことなのです。

私がまだ若かったころ、
京都にある本山の妙心寺で布教師の研修があって、その研修に参加したとき、
時々、小学生と保育園の子ども達に本のお土産を買って帰ることがありました。

その本のお土産を見て、子どもたちが目を輝かせている様子を見て、
幸せに思ったことがあります。
相手がいて、幸せがあるのです。

そんな子どもも大きくなって長女と次女が結婚し、私にも孫が4人ほどできました。

最近法事に行って、孫の話になると、
私が「孫がいてにぎやかで、時々孫に叱られるんですよ」というと、
同じくらいの年代の男性が、「和尚さん、私も孫に叱られてみたい!」というのです。
その男性には、まだお孫さんがないのです。

そのとき、「ああ、孫がいるというのは、幸せなことなんだ」と気づかされたのです。

あるいは、私には母がいて93才になります。
私は4人兄弟ですが、いつも思うのです。私が4人の中で一番幸せだと。
それは4人の中で一番母と一緒にいられる時間が多いからです。

相手がいて、共に支え合い理解しあって暮らしていく。
ときどきは不満の思いもでてきますが、家族がいて、幸せになれるのです。
これも尊い真理です。

幸せと人間関係 3 学ぶために人との出会いがある

偶然でない出会い

なぜ相手がいるのかを、次に考えていきます。

初めに考えなくてはならないのが、
相手がいるというのは、偶然にここにいるのでしょうか。
それとも必要があって、必然的にここにいるのでしょうか。

結婚されている方で、相手を偶然に選んだのか必然で選んだのか。
どちらでしょう。

多くの人が自分で決めて、夫婦になったと思われます。
たまたま一緒になったという人もいるかもしれませんが、
この人と一緒になって生活しようと決めたのは、本人同士です。

話は大きくなりますが、ID(アイディー)学説という説があります。
「知性ある何かによって、この生命や宇宙の精妙なシステムが設計されている」
という学説です。

この世は偶然にできたのではなく、知性ある何かによってつくられたというのです。
知性ある何かとは、神仏(かみほとけ)と表現してもいいでしょうし、
大いなる存在などと表現してもいいでしょう。

この学説に賛成の人もいれば、否定する人もおられます。

日本でいえば、この世の生き物はアメーバーから進化してきたと
理科の時間に教えてもらいます。

アメーバ―のような小さな生き物が、偶然によって陸にあがり、
あるものは蝶になり、あるものは鳥になり、あるものは動物になり、
そしてあるものは人間にまで進化してきたというのです。

進化の過程で、その途中にあるものは、いまだ発見されていません。
この考えは偶然が偶然を重ねて出来上がった考え方です。
みなそのように習ったので、信じています。

このID学説は、偶然ではなく、
知性ある何かによって、この世がつくられた、人間がつくられたと考えるわけです。
「I」とはインテリジェントで知性、「D」はデザインで計画を意味します。

日本の古事記を見ても、神様がこの日本をおつくりになったように書かれています。

もし、この世をおつくりになった知性的存在がいるならば、
私たち人間関係も必要があって出会いや別れがあるのではないかと思うのです。

あるいは、この人間関係から何かを発見しなさい、学びなさい
という目的があるのだとも思えます。

そう考えていくと、相手がいるというのは、何か大切なことを教えてもらうため、
あるいは相手からさまざまなことを学ぶために、
この人間関係があるのだと分かってきます。

他生(たしょう)の縁

よく言われることわざに
「袖振(そでふ)り合うも他生の縁」というものがあります。
「袖すり合うも」ともいいます。

これは
「人とのちょっとした関わり合いも、生まれてくる前からの巡り合わせによる」
ということです。

この世でのちょっとした関係も、生まれる前からの縁というのですから、
近しい人との人間関係には、深い意味があって、
互いに学び解決していかなくてはならない、人生の問題があると考えられるのです。

夫婦の関係、子どもとの関係、お年寄りとの関係、仕事の関係、友人との関係など、
何かもめ事があったり、いざこざがあった場合、
そこに人生の深い問題が潜んでいると考えられるのです。

そのとき、ただ相手を批判して避けるのではなくて、
自分自身が何かを学び気づかせていただくために相手がいる、
と考えていったほうがよいのです。

他生の縁といいますから、仏教的には前世からの縁によります。

前世からの縁というと、
今この時代に肉体を持つ自分ではなく、前世のどこかの時代、どこかの国で、
別の肉体を持って生きていた自分がいたということになります。

その前世の生きた縁を、今の世に引きついているのは、何でしょうか。
それが心とも、本当の自分ともいっていいかもしれません。

少し難しくなりましたが、そんな人間関係が、
この世ばかりでなく、前世からの縁でつながっている。
そんな深い世界があることを知っているのも、楽しいことです。

論語に、
学びてこれを習う。亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや
というのがあります。

「学んでおさらいをし、さらに知識を深める。楽しいことだね」ということです。

これは私が信じていることですが、人はとかく血筋を大事にします。

夫婦のことでいえば、
夫婦は他人で、子どものほうが血が濃いから大事だといいます。

これも大切なことですが、私自身、この「他生の縁」から察することは、
この世の血筋より、共に生きて来た幾転生(いくてんしょう)の縁で、
助け合い、学び合ってきた夫婦の縁のほうが濃いと思われるのです。

心と心の絆といってもいいでしょうか。
そんな気持ちで、日々暮らしています。

互いが学び合う

この世には、徳ある人や徳のない人、良い人や悪い人、
自分にとって親しい人や嫌な人、助けてもらった人や助けてあげた人、
さまざまです。

そんな人たちとの人間関係から多くを学んでいきます。

さらには、本や新聞を読んで、自分と違った生き方をしている人の考えを学んだり、
講演会などに出て、講師の先生のお話を聞き、
自分の体験できない人の生き方を知ったりして、学んでいきます。

いつだったか
伊那市に家田荘子(いえだしょうこ)さんが講演にきたことがありました。
さっそく拝聴にいったのです。

家田さんは「極道の妻たち」などを書いた作家であり、
高野山真言宗の僧侶でもあるようです。

この講演の時には青少年の関係であったので、
青少年の覚醒剤についての話をされました。

作家といってもノンフィクション作家で、
創作でなくて事実を伝えることを主眼にしているので、
実際に少年院に出向いて少女たちの実生活を取材し、
そのことをお話ししてくれました。

このお話の中で42才の女性の方の話がでてきました。

その人は中学生からずっと覚醒剤をやっていて、
6回刑務所に入ったようです。

覚醒剤をすると脳の発育が止まるのだそうです。
ですから42才の女性は中学生のようだと言っていました。
お医者さんは、この女性は廃人になるとも言われたそうです。

子ども達が覚醒剤に走るのは、家庭の問題で、
家庭に居場所がないというのです。

自分が親から愛されているかどうか分からない。家にいたくない。
そんな理由で、覚醒剤を始めてしまうことが多いといいます。

ですから、親は「あなたのことを、とても愛していますよ」
「あなたはとっても大切で、必要な子なのよ」と言って、
家に居場所を作ってあげる。対話をしてあげる。
そうすると、女の子の場合、90%は更生していくそうです。

子どもばかりでなく、
家族の人間関係の中で「あなたなんか必要ない」と言われれば、
誰でも悲しく辛くなるものです。

そんな家族の人間関係の中で、互いに学び合っていると思い、
相手の気持ちを察していくことが大事になります。

相手に教えられ助けられる

先ほどID学説のお話をしましたが、
相手というのは「神様のお使い」で、私自身を人として育ててくれるために、
神様が、相手と出会わせてくれているのかもしれません。

そんな投書が、ある新聞にありました。載せてみます。
54才の女性の方です。「神さまの使い?」という題です。

神さまの使い?

その日は、とにかく楽しくなかった。

日課のウオーキング。
前日の職場での出来事が無性に腹立たしく、
ついでに日ごろの愚痴や不満がボールのように膨らんで、
それをつま先でけ飛ばすように歩いていた。

ふと顔を見上げると、男の子が自転車の前でしゃがみ込んでいる。

「チェーンが外れたの?」
男の子は困った顔で
「うん」
手は油で真っ黒。

「どれどれ。ああ、これ僕じゃ無理だよ」
「おうちに連絡する?」
何を言っても小さな手はあきらめない。

「よし」
思い切ってチェーンに触れてみた。

悪戦苦闘の二人。
そして「やったあ、直ったあ」「ありがとう」
輝く瞳。

手を振って別れた後、私は少し落ち込んだ。

手が汚れるのが嫌で、なかなかチェーンに触れようとしなかった自分。
「僕じゃ無理だよ」と言ってしまった自分。

< <まだまだ未熟だってことか> >

小さなため息をつき、再び歩きだすと、足元が軽い。
愚痴や不満で膨らんだボールは、どこかへ飛んでいったようだ。

<<お礼を言わなければならないのは、おばちゃんの方だね。
僕ありがとう!! あきらめないで一歩踏み込む!! 仕事頑張るよ!!>>

(中日新聞 平成21年8月4日付)

突然、目の前に現れた子ども。
一生懸命、自転車の外れたチェーンを直している。
手を油で真っ黒にして。

そのあきらめない姿から、前へ向いて歩く勇気をいただいたのです。
その勇気が、愚痴と不満の思いを追い出し、女性もあきらめないで歩き出しました。

この女性は、この子どもを「神様の使いかも」と書いています。
触れ合う相手はみな、神様のお使いかもしれません。
そう考えると、相手から多くを学べるのです。

(つづく)