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法話

不幸を幸せに変える考え方 2 不幸を呼び込む考え方

先月は不幸を知るということで、さまざまな不幸についてお話をいたしました。
続きです。

お金と幸福感

先月は、さまざまな不幸についてお話をいたしましたが、
おそらくまだ数えきれないほどの不幸があると思われます。

そんな不幸を、自分自身が気がつかない間に、
呼び込んでいるのではないかと思うときがあります。

お金のことについて考えてみます。

お金は日々働いて得るものです。
賭(か)け事で得る場合もありますが、
正当な働きによって得るお金が尊いと、誰しもが思うことです。

そんなお金で、日々の生活をする。
そこに平凡でも幸せがあるのです。

ある法話会のときに、
自分に貧乏神がついていると思う人という質問をしたときに、
結構たくさんの方が手を挙げたので、驚いたことがありました。

みなさん貧乏していると思っているのかもしれません。
どのくらいのお金があれば安心で、お金がどのくらい少なければ貧乏なのか、
人それぞれでしょう。

この時の法話会で、貧乏神がついていると思っている人の姿を見ても、
幸せそうに暮しているように見えました。

お寺に来て、お話が聞けるというのは、幸せであり、豊かな証拠なのですが。

ある調べでは、年収750万円を超すと、幸福感がなくなるとありました。

人は何にでも適応力があって、
年収700万円までは、幸せを感じられるのですが、
それが日常的になってくると、その年収での暮らしに慣れてしまい、
幸せ感が減ってくるのだそうです。

お金が増えるごとに幸福感が減ってく、
なんとうらやましいと思いがちですが、
お金が有り余っていると、日々の節度がなくなり、
お金があるのが当たり前になってしまうというのです。

そこそこの収入であれば、一日働けてありがたいと思えるし、
汗をかいて働いたお金で、家族団らんの食事ができることが、
とてもありがたく思え幸せ感が増します。

また無駄使いしないことや、物を大切にできる、
そんな節度のある幸福感を得ることができるわけです。

不幸を呼ぶお金の考え方

では、お金について、どう考えている人が不幸を呼び寄せているのでしょう。

1つの考え方は、「私はいつも貧乏で、あの人はお金持ちでいい」と思い、
お金持ちに嫉妬(しっと)したり、お金のある人を批判することです。

自分が裕福になりたいのに、裕福な人を批判していると、
決して自分が裕福になれず、返って貧乏神を呼び寄せ、不幸になっていくのです。

この場合、お金を持っている裕福な人と接するときには、
豊かさを祝福してあげることが大切なのです。

それは自分が豊かさを肯定することであって、貧乏神を追い出す力になっていくのです。

お金というものは不思議なもので、ほんとうはお金が欲しいのに、口で
「お金なんか、いらない。貧乏でいい」と思っている人のところにお金はやってきません。

相手を思い、人の役立つ仕事をし、
お金を大切にする人のところにお金は集まってくるのです。

豊かさを良いことと思い
、豊かになったら、その余分を困っている人に分けてあげる。
そんな考え方がまた、貧乏神を追い出す考え方です。

不幸ばかりを見て、不幸を呼び寄せてしまう

お金のことはこのくらいにして、ある男性の悩みを分析してみましょう。

どうも不幸ばかりを見ていると、いつまでたっても幸せになれないと思われます。
不幸ばかり見ていると、不幸がさらに倍増してくるのです。

これはある新聞の「人生案内」にあった、ある男性の相談です。
見出しに「幸福感のない50代男性」とあります。

幸福感のない50代男性

50代の会社員男性。

20歳半ばで結婚。
しかし、10年後に離婚し、2人の子どもは私が育てました。

さらに40歳代の終わりには、当時勤めていた会社を解雇され、
お金がすっかりなくなりました。

そのころから
「私の人生はなぜこうも不幸なのか」
と考えるようになりました。

寝ても覚めてもその考えが頭から離れません。
今の勤務先の同僚など、他人がみな幸せそうに見えます。

半年前から、もう一つ気になっていることがあります。
高校時代の女友達です。

私が22歳の時、彼女から「会ってください」と電話をもらい
2度ほど会ったことがあります。

今さらですが、
「もう少し彼女と会っていれば一緒になれたのに」
「彼女と一緒になっていれば幸せだったろうに」
などと後悔してしまいます。
そして、彼女が今、幸せなのかどうか確かめたくなります。

どうしたら私は幸せになれるのでしょう。
自分の性格や生き方を、どう変えればいいのか教えてください。

(読売新聞 平成20年11月14日付)

こんな悩みの相談です。

この男性の幸福感のない理由を、7つほどあげられると思います。

私がこの文章から感じ取った、
不幸を呼び込んでいると思われる考え方を書き添えてみます。

1. 30代半ばで離婚した。だから辛いという思い。
2. 2人の子どもを育てた。苦労したという思い。
3. 会社を解雇された。「どうして私が、解雇されなくては」という不満の思い。
4. お金がすっかりなくなった。これからの生活の不安を感じている。
5. なぜ私の人生はこうも不幸なのか。不幸ばかりを思ってしまう。
6. 人がみな幸せそうに見える。他の人の幸せを見て嫉妬してしまう。
7. 高校時代の女友達と、一緒になっていれば・・・。
お金がなく、生活が成り立ないのに、
昔の甘い夢を見て、今この厳しい状態から逃げようとしている。

不幸感を見直す

今度は、不幸を呼び込む考え方ではなく、
不幸を幸せのほうへ転換していく考え方で、
この人の幸福感のない人生を見直していきます。

1. 離婚してしまったが、結婚できて、10年も夫婦の語らいができた。
2. 子ども2人を授かり、子育ても経験できて幸せだ。
3. 私を解雇する会社も大変だったんだろう。今までありがとう。
4. 今はお金がないけれど、働けばまた、なんとかなっていく。
5. 不幸な人はたくさんいて、私などまだまだ幸せのほうだ。
6. 人がみんな幸せに見えるけれど、私も努力してみんなのように幸せになろう。
7. 高校時代の女友達も、きっと幸せに暮らしているだろう。
またいつか会って、苦労話でもしてみよう。

人は自分が考えるような人になれる、というのが真実です。

そして考えていることが引き寄せられてくるのです。

不幸をずっと思っていれば不幸なことが寄ってきます。
幸せをずっと考えていると、幸せの考え方ができ、
やがて、幸せな事ごとが引き寄せられてくるのです。

これを生きる法則として、よく知っておくことです。

欲望を少し抑えてみる

また違った見方をすると、この男性は欲望が少し強い感じがします。

過度の欲望は、人を不幸にします。

仏教的にいえば、煩悩である、
主役ともいえる貪欲(どんよく、とんよくともいう)が強すぎるのです。

幸福感はそれぞれ違います。
また環境や置かれた立場でも違ってくるものです。

離婚した夫のほうが子ども達を育て、
その男性が亡くなると、子ども達が育ててくれた恩を忘れず、
涙を流して葬儀をし、ねんごろに供養をしている。そんな家庭もあります。

実際に、そんな場面を目にすると、
「この子ども達のお父さんは、しっかり生きたんだなあ」
と感じ、頭が下がる思いをしたことがありました。

子どもを育て、子どもとの楽しい語らいが嬉しかった、
その1つのことに幸福感を思えば、幸せになれるのです。

ささやかな幸せではありますが、
欲望を抑えた、すがすがしい生き方が感じられます。

幸せなのに不幸を思う

また、こんな場合もあります。

それはまわりの人が見れば、幸せに見えるのに、
自分はいつも不幸だと思ってしまうことです。

その原因を調べることは難しいことですが、言えることは、
「幸せはこういうものだ」と自分で決めてつけてしまい、
それに当てはまらなければ不幸と思うのです。

自分の幸せへの固定観念が強くあるわけです。

子どもは親のいうことを聞くべきだとか、
妻は3度の食事を作るべきだとか、
夫は仕事ばかりでなく、家事を共にするべきだとなど、
たくさんあると思います。

そんな思いがかなっていなければ、不幸を感じてしまうわけです。

たとえば、
幸せになるためには「愛されること」だと思う考えを強く持っているとします。

愛されることで、いろいろなことをしてもらうと思う。
食事を作ってもらう。
お茶を入れてもらう。
洗濯をしてもらう。
プレゼントをもらう。
やさしい言葉をかけてもらう。
感謝の言葉を言ってもらう。
ときには感謝の言葉を欲しいときもありますが、それが当然と思ってしまう考えです。

こんな固定観念を持っていると、
幸せなときもあるとは思いますが、長くは続かず、
いつかは、まわりの人に疎(うと)まれて不幸になっていきます。

こんな投書があります。
「愛されることより、愛することのほうが大切なのだ」
と、気づいた87才の男性です。

「叱るまい、愛する人を」という題です。

「叱るまい、愛する人を」

数年間、妻の介護を自宅でやってきた。

妻は体が不自由になり、寝たきりの状態になっている。
昼間はデイサービスに行くが、それ以外の時間は私が介護している。

この頃、時に妻の下の不始末について、
大声で叱ることが多くなってしまっている。
今日もつい大声を出してしまった。

寝床に入るとき、秋の夜長の虫の声が聞こえる中、隣で寝ている妻に
「さっきはなぜ、大声でどなりつけたんだろう。ごめんね。ごめんね」
と語りかけた。

妻の寝顔をのぞき込みつつ、
自分の目から流れてしまう涙をそっと拭う。

「明日も頑張ろうね」
最後にそう妻に対して呼びかけた。

愛されるよりも、愛するほうが大切なのだ。
残る人生を精いっぱい最後まで生きようね。おやすみ。

叱るまい 妻の看病 夜涙

(読売新聞 平成26年10月13日付)

介護の辛さが伝わってきます。

でも、妻を怒鳴りつけてしまう、そんな自分を反省し、
愛することのほうが大事だと悟られた、この男性は立派だと思います。

愛されるという考え方を変えて、愛するほうに考えを向けたとき、
「最後まで生きようね」という慈しみの言葉がでてきたのです。

瓢鮎図(ひょうねんず)に見る悟り観

少し難しくなりますが、
禅の公安で難問とされている瓢鮎図というものがあります。(下図は部分)

何か怪しい男がヒョウタンを持って池のナマズを取ろうとしている図です。
小さなヒョウタンでナマズなど取れる、あるいは押さえることはできません。

この図は1415年、如拙(じょせつ)が描いたもので、
室町時代の4代将軍足利義持の命で作られたものと聞いています。

京都の妙心寺の中にある退蔵院というお寺に納められ、国宝になっています。

この図を現代的に説明すると、
1つはこの世の流れゆく無常をつかみとることはできない、ということです。

無常はぬめぬめしたナマズや流れる川などの風景が表していて、
悟れない男が、この世は常であって、いつまでも変わらないというヒョウタンを持っているのです。

諸行無常を悟れない男を表しているといえます。

もう1つの考えは、
男が持っているヒョウタンが、この男の固定観念で、ナマズが真理です。
今回の「法愛」のテーマでいえば「本当の幸せ」とも受け止めることもできます。

たとえば、先にお金のことをお話ししましたが、
お金があることが幸せだと強く思っているヒョウタンを持っている人は、
「お金がなくても幸せになれる」というナマズを取ることは決してできません。

あるいは
「こんなに尽くしているのに、分かってもらえない。不幸な私」
と思うヒョウタンを持っている人は、本当は、
「まわりのみんながあなたに、感謝の思いを持っている」
というナマズを取ることができません。

「もうこれ以上、この苦しみを乗り越えられない」
というヒョウタンを持っている人は、
「背負えない苦しみはない」
というナマズの真理を押さえることができないわけです。

自分の狭い固定した幸せ感を持っていると、
幸せなのに不幸を感じてしまうことがあるのです。

(つづく)

一年間、法愛をお読みいただき、ありがとうございました。
メイン法話が途中になってしまい、失礼致します。