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法話

心の認知症 2 心が認知症になっていく原因

先月は簡単な認知症のことと、心の本当の形についてお話しをいたしました。
まるい柔らかな心がトゲトゲして、心の認知症になっていく原因を考えていきます。

心を認知症にする煩悩

先月、心の形は
「まあるくて、真綿のように柔らかく白く、きれいな虹のような光がでている」
と表現しました。

そんな心が
「トゲトゲ、カドカドして堅く、黒っぽくなり、光もでない」。
そんな、心の病、ここでは心の認知症と言っていますが、
どうして本来の心が、堅く黒ずんでしまうのでしょう。

その原因はさまざまでしょうが、煩悩をコントロールできないで、
その煩悩に負けてしまうところからきているのです。

この煩悩ですが、その数は百八つあるとよく言われています。
煩悩で、8割をしめているのが、次の3です。

まず、貪欲(どんよく)です。
欲深いということです。
次に怒りで、3つ目が愚痴(ぐち)です。

愚痴は知恵が足りないので、愚かなことをしたり、
それゆえに、さまざまなことに不平不満を思ってしまうのです。

貪欲な心の現れ

初めの貪欲ですが、この貪欲な思いに心が染まると、心が黒ずんできます。
心が黒ずんでくると正しい判断ができなくなります。

今年の7月、通信教育大手の「ベネッセコーポレーション」の顧客情報が盗みとられ、
それを他の会社に転売し、お金に換えていた39才の男がつかまりました。

男は今年6月までに、
約1000万件の顧客情報を15回程に分け、約250万円で売っていたのです。

1件あたり、0.25円という値段だったそうです。
相場でいえば、1件あたり35円ほどだそうですから、
格安で売っていたことになります。

男は、どうしてそんな顧客情報を手に入れたか、です。
新聞の記事によれば、偶然の発見だったそうです。

ノートパソコンからスマートフォンを差した瞬間、
ノートパソコンに、ベネッセコーポレーションの顧客情報データベースが接続され、
そこから顧客情報を持ち出せたのです。

問題は偶然に得た顧客情報です。
その情報を得た瞬間、男は「名簿は金になる」と思ったのです。
ここが貪欲な心の現れなのです。

普通であれば、
「こんな情報を手にいれてはいけない」と思うのが、正しい人の考え方です。
でも、貪欲な思いが先行して、お金になると思ってしまったのです。

さらに原因を探していくと、パチンコが好きで休日よく通っていたといいます。
そんなギャンブルで、お金を使っていたのです。

妻と長女(3)、そして次女(1)の4人暮らしで、
近所では円満な家庭に見えたそうです。

男がつかまったときの様子を近くの女性が
「目つき鋭く険しい顔つきで別人のようだった」と、
驚いて感想を述べていました。

貪欲さは、心を病にするばかりか、その人の顔の表情まで変えてしまうのです。
そして家族の和をこわし、みんなを不幸にしていくのです。

大金に目がくらむ

大金が目の前にあったとき、
正しい判断ができず、お金欲しさに悪を悪とも思わないで、
誤(あやま)った行動に出てしまうことがあります。

お金は大切で必要なものです。
よく働き給料を得て、生活ができるわけですから。

でも、心の貪欲さをコントロールできないと、
人はみなお金に目がくらみ、間違った方向にいきやすいのです。

『遺言川柳』(幻冬舎)という本の中に、

お菓子なら 仲良く分けた 幼き日

という川柳があります。

私の家でも、4人兄弟でしたから、
学校から帰ると、おやつが4つに分けてあって、それを楽しみにいただくのです。

そんな子供時代にも欲があって、
お菓子食べたさに、ときには1番早く帰ってきて、
4人に分けてあるおやつのお皿から1つずつ、お菓子をつまんで食べ、
それから自分のお皿を選んでおやつをいただいたことがありました。
平等にお菓子を1つずついただくのですから、量は変わらず、誰にもばれないのです。

そんな子供のころの想い出もあります。
でも、この川柳はほほえましいようで、少し寂しさを感じますね。

親の財産を分けるときには、
子供のころ分けたお菓子とは、ずいぶん違っているというのです。
ここにも、欲の姿が見え隠れしています。

もう1つの川柳です。

財産は 取り合い位牌は ゆずり合い

こんなこともよくあります。

財産は欲しいのですが、
先祖様のお位牌はお守りするのが大変なのでいらないのです。

住職になって40年近くになりますが、よく観察していると、
どうも貪欲な人はお金は欲しいのですが、位牌はいらないようです。
心が黒ずんで何が正しいのか分からないからです。

トゲトゲした怒りの心

貪欲の次は怒りです。

仏教的に表現すれば瞋恚(しんに)になります。
瞋(しん)も恚(に)も怒るという意味です。

怒ると、まるい柔らかな心が破れるのです。
破れてトゲトゲになり、そのままにしておくと、
そのトゲトゲが固まって堅くなっていきます。

怒りが出てくるのは、
相手が思うように動かなかったり、言うことを聞かなかったり、
自分だけが苦労して相手から感謝の言葉もなかったり、さまざまです。

怒りは思いから発して、言葉に出て、態度や行動にでてきます。
怒りの言葉はトゲトゲしていますね。

顔も柔らかくなくて、こちこちに固まっています。
もちろん笑顔もでません。

7月の「月の言葉」は、

いらいらしてかっとなると 幸せが逃げる

でした。

ついかっとなって怒ると、きつい言葉が出て、心の中はトゲだらけです。

この月の言葉を読み、怒っている自分を省みて、
「怒ってはいけない。幸せが逃げてしまう」

そう思って、怒りを抑えた人がいらっしゃいましたが、
怒りの思いを出し続けないことです。

幸せにも住む場所があって、幸せはそんな貪欲や怒りの場には住みたくないのです。
幸せが住みたい場所は、ほほえみや、やさしさ、感謝の中に住むのです。

愚痴の心

心が認知症になる3番目の原因は愚痴です。

知恵が病に侵されて、
貪欲と同じように、正しい判断ができない状態をいいます。
愚かということです。

具体的には、
赤信号で渡る。
ゴミを平気で捨てる。
吸ってはいけないところで、たばこを吸う。
「いただきます」を言わずに、しかもテレビを見ながら食事する。
支えていただいているのに、感謝ができない。
我(が)をとおして、耳をかさない。
嘘をつく。
素直になれない。
信仰心を持たない。

さまざまですね。
みな知恵がないからです。

何が正しく、何がいけないことなのか。
あるいは善と悪を正しく判断できないともいえます。

それは心にくもりがでて、何が正しいことなのかが分からない状態といえます。
でも、そんな状態であっても、心の奥に、光が差しているのです。
そんな柔らかな心の思いを大切にすることです。

心にある尊い思い

たとえば、こんな悩みを持つ女性の方がおられました。

50歳代の女性です。

自宅で4年半介護した父が亡くなりました。
母は高齢のため、私一人での介護でした。

父は寝たきりとなり、確かに大変でしたが、
まるで私の赤ちゃんのようにかわいく、
世話を嫌だと思ったことは一度もありません。

法事も終わり、遺産の処理も争いなく無事済んだのですが、
私は毎日沈んだ気持ちでいます。

父がいなくなった寂しさのためなのはもちろんです。
でも実は父が存命中、承諾なしに父の預金の中から、いくらかもらっていたのです。
その後悔がずっと心から離れられないのです。

今さらだれにも言えません。
あの世で、父が怒っているかもしれないと思うと、たまらない気持ちです。

これから先、どのように生きていけばよいのでしょうか。
ぜひご助言をお願い申し上げます。

(読売新聞 平成19年5月30日付)

こんな悩みを持たれた女性です。

父の介護を一生懸命したのですが、父がまだ生きているときに、
父の預金から承諾なしに、お金をもらっていたことを悔いています。

この思いはどこからくるのでしょう。

この女性の心は、まだ心の認知症にはなっていないのです。

お金を黙って使った。
それが悪いことであり、人としてしてはいけないことであるという知恵があります。
その知恵の光が心の中から差し込んできて、心を浄化しようとしています。
不思議な心の力です。

この女性がすることは、仏壇の前にいって、手を合わせ、
このことをお父さんに知らせ、素直に謝ることです。

一生懸命介護をしたのですから、お父さんも
「ありがとう。謝ってくれたのだから、もう気にすることはないよ。
できるならば、おかあさんのことも頼むね」
そう答えてくれると思います。

できることならば、さらに善を積んで、心をまるくきれいにしていくことです。

ゼロになって死にたいという愚かさ

最近ある週刊誌(週刊現代)に
「無(ゼロ)死のすすめ」という記事が載っていました。

先ほどの女性の悩みに、仏壇で手を合わせ、素直に謝れば、
亡くなったお父さんに、その気持ちは通じていくというお話をしました。

それはあの世があって、
お父さんが別次元の世界で、新たな生活を送っていることを前提にしています。

この「無(ゼロ)死のすすめ」はあの世や魂を否定したところから始まっています。
あの世を否定するのは、愚かなことで、心のくもりと傲慢さを感じます。
心の認知症になる愚痴の心といえましょう。

あの世がある。
これが正しい考え方で、愚痴を離れた知恵者の心の在り方です。

少し、この週刊誌の内容をみてみましょう。

まず、自分が死んだら、「葬式はいらない」「墓はいらない」
という人が急増しているとあります。

「現代人にとって、霊魂は『思い出』と変わらないレベルのものになっています。
親が亡くなると、子はともかく孫の代には、
霊魂つまり思い出はすでにかなり希薄になっている」
と書いています。

東京都の73才の男性は
「数年前、『千の風になって』という歌が流行りましたよね。
その歌詞に、死んだ人はお墓にはいない、
風になって大空を巡っているんだよ、という部分があった。
あれに非常に感動しましてねえ」
と言って、死んでも故郷のお墓に入るというのはピンとこないと語っています。

実際、お墓の価格高騰や核家族化、少子高齢化などで、
遺骨を引き取っても、家に置いたままになっている例が増えていて、
こうした遺骨が現在、約100万柱もあるといわれています。

68才の男性は、
「先祖といっても顔も知らない。
心の中で感謝し敬う気持ちはあるが、墓参りでその気持ちが表現できる気もしない。
まして若い世代には墓参りなど面倒なだけだろう」

こうした意見の共通するところは、都市化によって故郷を離れ、
寺社との精神的つながりが希薄になっていると指摘しています。

まださまざまにわたって、
「何も残さないで逝けばいい」とか
『思い出も捨ててしまう』とかそんな記事を載せています。

このような記事から判断するのは、
都会での人間関係の希薄と、信仰心の薄れ、家族間の和のほころび、
それによる年寄りの落ち着く場所がないこと。

葬儀にお金がかかることや、さらには精神的な学びがなく、
死んだら、それでお終いという考えが広がっていることです。

ですから直葬(ちょくそう)といって、
火葬するだけで、お経もあげず、葬式もしない。
そんな送り方をする方法が都市部を中心に急増しているのです。

伊那市の地方では、まだそのような方は少ないのですが、
中には葬儀をしてもお経は簡単でいいという人もいます。

この唯一の原因は、あの世の否定にあります。
亡くなったら灰になってお終い。残るのは思い出だけ。
そんな考えが心をくもらせ、愚かな行動になっていると思われます。

人は死んでも、霊魂として生きていて、私たちの生活を見守ることもできる。
死後、別次元の世界で、この世の体験を生かしながら、新たな生活をする。

だから、亡くなった人を粗末に扱わず、
仏の力を借り、儀式を重んじて、あの世に送ってあげる。

それが、正しい人としての在り方で、
愚痴の心を脱した、健康な心をもった人の姿です。

「無死のすすめ」は、どうも心の認知症にかかっているように思えます。      

(つづく)