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法話

心の認知症 1 心の病

今月から「心の認知症」というテーマでお話しをしたいと思います。

このテーマでお話ししたのは、花園女性部の法話会(平成19年6月9日)でした。
ずいぶん時が過ぎているので、少し書きなおしながらお話ししていきたいと思います。

認知症とは

私はお医者様ではないので、認知症の詳しい説明はできませんが、
素人でも分かる範囲でお話しますと、この認知症は以前、
痴呆症(ちほうしょう)と呼ばれていました。

2004年の12月から、痴呆症でなくて、認知症と呼ばれるようになったのです。

言葉の表現と言うのはとても難しいのですが、この痴呆症という言葉が、差別的で、
偏見を思わせる表現に聞こえるので、痴呆から認知と名前を変え、
今では認知症というのです。

このお話をしたときは平成19年でしたので、
平成17年の厚生労働白書を調べたのです。
その白書では平成27年に認知症の人が250万人と推計されていました。

今現在、平成22年の白書で調べてみると、
平成27年には345万人の人が認知症になると推計していますので、
明らかに増えています。

この認知症というのは病気の名でなく、脳が委縮したり、血管がつまったり、
破れたりする原因によって起こる症状をいうのだそうです。

たとえば、風邪という病名があります。風邪の症状は、
鼻水がでたり、鼻づまり、セキや頭痛、熱がでたり食欲がなくなったり、です。

この認知症には段階があって、大きくは3段階に分かれているようです。
1つ目が健忘期、2つ目が混乱期、3つ目が終末期だそうです。

今回のテーマである「心の認知症」も、
このように3つに分かれているような気がします。

健忘期は忘れるとか感情的になることで、混乱期になると判断が出来なくなってきて、
自分の家にいるのに、「自分の家に帰る」と言うようになるようです。
認知症になったかたで、このような話を私もよく聞きます。

終末期になると、身近な人が分からなくなるようです。
自分の息子が分からなくなるとか、娘が分からなくなるとかの症状がでてくるのです。

不思議なのが、いつも優しく介護しているお嫁さんは分かるという話は、
よく聞きますね。

忘れやすい事ごと

健忘期に似た症状は誰しもあると思います。

このお話を作るために、認知症に関する本を数冊読んだのですが、
その中に『知っておきたい認知症の基本』という本があって、
それをいつも親切に届けてくださる小林書店様に注文したのです。

その後、ある本屋さんに行って読みたい本を探していると、
『知っておきたい認知症の基本』という本が目にとまって、早速買って読んでいると、
小林書店様が注文した本ですといって、この本を届けてくださったのです。

注文したことを忘れ、別の書店で同じ本を買ってしまう。
こんなことがよくあるのです。

また最近は、俳優や歌手の名前が出て来ないのです。
顔は分かるのですが、名前がでてきません。
「あれよ。あの人よ」と「あれ」という言葉がでてきます。

これではいけないと思って、
最近は人の名前を忘れないように心がけているのですが、
効果があるかどうか定かではありません。

あるいは、これは大事な書類だから、忘れないで仕舞っておこうと思う。
一週間もすると、どこに仕舞ったのか忘れてしまう。

大切な物だからと思って仕舞ったのに、仕舞った場所を忘れてしまうのです。

夏ものを仕舞って翌年、その夏ものをどこに仕舞ったのか忘れてしまう。
今、冷蔵庫を開けたのに、何を取ろうと思ったのか忘れてしまう。
携帯電話をどこに置いたのか忘れてしまう。
自動車のカギは・・・。

結構、こんなことがあるかもしれません。

よくお話の中で質問することがあるのですが、
一昨日(おととい)の夕飯は何を食べましたか、という質問です。

覚えていないのです。
一生懸命思い出せば、「ああそうか、一昨日は煮魚をたべたなあ」と思いだす。

今までお話したことは、認知症ではないようですが、
健忘期の人は、食べたことさえ忘れてしまうわけです。
これは脳の病からくる症状です。

心の形について思うこと

ここで考えるのは、心にも病があって、
それが何らかの形で認知症と似たような症状としてでているのではないか。
その症状が、心の病からきているというのを知らないで生活しているのではないか。

そういう問いかけが、今回のテーマになっているのです。

脳が委縮した様子は、今の時代ですから、
何らかの情報で知っている人は多いと思います。
本や雑誌で見たり、テレビで見たり、実際に脳の検査で見たりします。
それを見て、脳が小さくなっているなあと分かります。

では、心のほうはどうでしょう。
心はどのような形をしているのでしょう。

心はだいたい心臓のあたり、胸のあたりにあると一般的には言われていることです。
その形は、なかなか推測ができませんが、あえて私の思う心の形を言えば、
「まわるくて、真綿のように柔らかくて白く、きれいな虹のような光がでている」
そんなイメージになります。

そんな心が認知症のように委縮していくと、
「トゲトゲ、カドカドしていて堅く、黒っぽくなり、光もでていない」
そんな状態を推測するのです。

健康な心の形は前者になり、
心が病気になっている人は、後者のような心の形になっているといえます。

「まわるく」という丸い形は、和を思わせるものがあります。
手をつないで輪になる。そうするとみんなが一つになれる。
そんな感じが丸い心から察することができます。

禅では悟りを一つの形で表すと、円相といって、丸い円で表します。
あるいは満月瞑想といって、丸い満月を心の中に思い浮かべ、
心を丸くして、心を調和させるのです。
そんな調和した思いから、心の安らぎと平安を得られるのです。

丸いボールを両手に持てば、とても持ちやすいのですが、
トゲトゲしたボールを持つと、持ちにくく、持っている手も痛くなります。

丸いボールのような心は、人と人との触れ合いで、互いが気持よく接することができ、
トゲトゲした心は、互いが接しにくくなり、仲たがいしやすいのです。

病に侵されると、丸い心が堅くトゲトゲしてくるのです。

真綿のような白い心とは

心は真綿のように丸いという表現をしましたが、
実際に真綿を触っても、柔らかくて気持ちがいいものです。

そんな真綿を人の心に当てはめてみれば、
優しい思いとか、思いやりがあったり、ほほえみをたたえている様子。
明るくて朗らかである。そんな思いを表現できると思います。

白いというのは、清らかさとか素直さを現わしています。

日本の国旗は、真中に太陽を表わしていますが、
その太陽の赤い部分は、生きる力とか広い愛を表しているのだそうです。
まわりの白は、汚れがない清らかさを表しているようです。

他国の国旗でも、白を使っているのは、
同じように清らかさを表していると言われています。

心を白で表すのは、
本来の心は清らかで汚れがないというのを表しているわけです。
これが健康な心なのです。

相手を気づかう真綿色の思い

優しいとか思いやりとか、抽象的でとらえにくいので、少し例話を挙げてみたいと思います。

これはある新聞に掲載されていたものです。
66才の女性の方で「母からの電話」という題です。

「母からの電話」

認知症で特別老人ホームにお世話になっている93歳の母からの電話である。

「どこにいるのかしら、一生懸命捜しているのだけれど、いないのよ」

と自分の伴侶であった夫を捜している。

「死んだのよ」

「やっぱり、そうなの。
いないから、まだ満州で私たちを必死で捜しているんじゃないか、と思ってね」

母の心は何十年もの昔をさまよっている。
戦後、父と母はお互いの消息が分からないままに満州から引き揚げて来た。
そのときの心細さが今も母の心に強く残っているのだろう。

「お父さんは、戦争が終わって、無事日本に帰って来たじゃないの。
それからお母さんと一緒に、一生懸命働いて、
子どもたちを皆大きくして、結婚させて・・・・」

と続けると、

「そうだったわねえ」

とだんだん思いだしてきた様子だ。

「10年余り前にお母さんにしっかり看病してもらって、大往生したじゃない。
お父さん、最後までお母さんによく面倒見てもらえて幸せ者だったわよ」

と言うと、

「あなたに電話してよかった。これではっきりした。
あなたもおいしいものを食べて、少し散歩などもして、体を早く治してね」

と体調を崩してへたばっている私に母親らしい気遣いを見せ、
安心したように電話を切った。

このような電話は毎週1、2度は掛かってくる。

(毎日新聞 平成19年4月27日付)

こんな投書です。

このような電話が毎週に1、2度掛かってくると書いています。
いつも同じような応対をしているのでしょう。

認知症になりながらも、夫のことを思いだし、思いだすと次に、娘のことを思いやる。
この何気ない母と娘の会話の中に、柔らかな思いが感じられるのです。

そこに見えるものは、真綿色の丸い心のような気がします。

認知症で脳のほうは委縮が始まっているのですが、
心のほうは健康でまわるい心を持っているのでないかと思います。

虹のような光とは

健康な心からは虹のような光が出ているといいましたが、
この虹の漢字に、なぜ「虫」という字がついているのか不思議で、調べてみました。
虹という字は左に虫で、右にカタカナのような字のエを書きますね。

この虫のもともとの意味は竜の意味だったそうです。
隣のエのような字は空の意味があるようです。
空の中にエという文字があります。

ですから虹の意味は、空に竜が飛んでいる、そんなイメージがあるようです。
虹が出ると、そこに虹色の竜が飛んでいる様を表しているのだそうです。
古代の人たちは、虹を竜が現れたと思っていたようです。

仏典でも、お釈迦様を別な表現では竜で表しているのもあります。
虹が仏そのものを表していることにもなります。

ですから虹は尊い者、別な言い方をすれば仏や神を表しているともいえます。

健康な心には虹のような光が出ているというのは、
仏や神と似たような光を、私たちの心も持っているということです。

それが心の病になってしまうと、
虹の光がでなくなってしまい、心がくもってくるのです。

そして心の病気がさらに進むと、
委縮という形で、心が堅く、トゲトゲ、カドカドしてくるのです。

母親が小学校4年生の息子の胸を刃物で刺して怪我をさせたという、
事件がありました。

この息子さんは前の旦那さんとの子で、再婚して女の子もできたので、
いったん施設に預けてあったその子を家に迎えいれて、一緒に暮らしていたのです。
でも、うまくいかなかった。

心の病に侵され、虹の光がでなくなって、
人としての道に外れた生き方をしてしまったといえます。

終末的な心の認知症です。

相手の心に虹を見つめて

『まど・みちお全詩集』の中に、いくつかの「虹」という詩を見つけました。

まど・みちおさんは、今年(平成26年)の2月に104才で亡くなられました。
誰もが知っている「ぞうさん」など、たくさんの詩を残しました。

ここに挙げた「虹」の詩は白秋先生を想うと書かれています。
北原白秋に才能を認められ、お世話になったから出来た詩だと思います。

虹―白秋先生を想う

お目を 病まれて
おひとり、
お目を つむって
いなさる

心の とおくに
虹など、
いちんち 眺めて
いなさる

虹が 出てます
先生、
障子の むこうで
呼ぶ子に

見ているのだよ と
おひとり
やさしく 笑って
いなさる

『まど・みちお全詩集』から引用

白秋先生が目を患(わずら)っていても、それに文句一つ言わずに、
一日ほほえんで、心のとおくに虹を見つめている。

目が見えずとも障子の向こうに、虹を見ることができる、先生。
そんな先生のやさしさを虹を使って詩で表現しています。

凡人には分からない、まど・みちおさんの深い思いが、このなかにあるのでしょう。

目が見えなくても心の目で虹を見ることができる。
それは自分の心の内にも、虹色の光が輝いているからです。
健康な心だからこそ、相手の尊さが見えるのです。

私たちも心にある虹の光を大切にし、
相手にもある虹の光を見てさしあげて、やさしく笑っていられる。
そんな心を大事にして生きていくことが大切です。

虹の光は仏や神の光。
その光を大切に生きていれば、心は認知症にならず、いつも健康な心でいられます。

心の認知症になるまえの健康な心をお話し致しました。
次回は心を委縮させてしまう原因をお話し致します。

(つづく)