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法話

幸せを左右する言葉の力 1 言葉の力

今月から「幸せを左右する言葉の力」というテーマで、数回にわたりお話を致します。
このお話は、平成21年7月に行った94回目の「法泉会」でのお話です。

忘れない言葉

言葉には力があって、
1つの言葉で喧嘩をしたり、1つの言葉で仲直りすることもできます。

1つの言葉に感動して幸せを思ったり、1つの言葉で悲しくなって不幸を思ったりで、
私たちは、自分が知らず使っている言葉で、ずいぶん心を動かされています。

今まで生きてきて、忘れられない言葉や、
その言葉があって、人生を変えることができたという、
そんな言葉を多くの人が持っていると思います。

私自身のことを思い出せば、こんなことがありました。

私の父が亡くなるとき、お寺の跡継ぎの問題がでてきて、
まだ21才の私には、坊さんになる決意ができずに迷っていました。

そんなときに、総代の役員のみなさんが集まってきて、
その中の1人が、真剣な眼で、
「あなたが和尚になれば、私はひと肌脱ぐ」
と言ってくれました。

ひと肌脱ぐというのは、力を尽くして協力するという意味ですが、
その真剣な眼差しは、今でも忘れないでいます。

その方はすでに亡くなってしまいましたが、
坊さんになるための修行を終えて、この護国寺に入ると、その言葉通り協力してくれ、
20年以上もの間、総代を勤め、お陰で庫裏や本堂が建ちました。

この人のことは、平成13年6月の『法愛』78号に詳しく書きましたので、
この『法愛』を取ってあるかたは、読み返してください。

昔のことを思い返し、
「あのとき、こんな言葉を言ってくれたから、今の私があるのだなあ」
と、そんな言葉を思い出してほしいのです。

きっと誰もがいただいていると思うのです。

偉人の言葉

『アインシュタインの言葉』という本がでていて、
この本を読んで、アインシュタインの言葉に、
ほんとうにそうだなあと思ったことがありました。

アインシュタインはドイツ生まれのアメリカの物理学者です。
どなたも名前は知っていると思います。

わたしはあまり人づきあいをしませんし、家庭的でもありません。
わたしは平穏に暮らしたい。

わたしが知りたいのは、神がどうやってこの世界を創造したかということです。

(中略)

わたしが知りたいのは、神の思考であって、
その他のことは瑣末(さまつ)なことなのです。

この瑣末というのは、取るにたりないこと、些細なことという意味です。

歴史に残る相対性理論を述べた人でしたが、それさえも瑣末のことで、
ほんとうは、神がどうやってこの世界を創造したかを知りたいのだと言っています。

私もいつも、自然の中や、さまざまな出来事の中に、
神仏(かみほとけ)の思いを想像するのです。

想像しながら、どのように神仏はこの世を創られたのかを思うのです。
そして私たちに何かを教えてくれているのだと考えるのです。

花の言葉を聞く

これから夏になると、お寺にもひまわりの花が咲きます。
ひまわりも語っていると思います。

「太陽に向かって明るく生きるんだよ」と。
またそんな思いを込めて、
神仏がこのひまわりの花を創ってくださったのかなあと思うのです。

桜の花はどうでしょう。
どのような言葉を聞けと神仏は思っているのでしょう。
桜の花は咲いている時もきれいですが、散っていくときもきれいです。

ですから、
「この世を散っていくときには、
さまざまなことにとらわれず、きれいに散っていきなさい」
と語っているのかもしれません。

6月になると本堂の前の沙羅双樹の花が咲きます。
白い花で、数日で散っていきます。

朝、本堂の前を掃き掃除すると、
沙羅の木から散った白い花がたくさん落ちています。
その花を少し可哀そうな気持ちで掃くのです。

その花から聞こえてくる言葉は、
「私たちは儚(はかな)い命だけれど、一生懸命清らかに咲いています。
みなさんも、命を粗末にしないで、命ある限りしっかり、
心を汚さないように、自分の花を咲かせてくださいね」
と言っているように聞こえます。

そんな思いを感じとってもらうために、神仏はこの沙羅の花を創ったかもしれません。

誰が作ったのでしょう。花言葉があります。
タンポポは「真心の愛」だそうです。

私は、タンポポの花からは、生きる強さを感じます。
「どんなことにも負けないで、強く生きなさい。
そのために根を張る努力を怠らないことです。
そうすれば、どんな苦難でも乗り越え、花を咲かせることができますよ」
と、そんな思いが伝わってきます。

これも神仏の心の現れではないでしょうか。

オオバコとユキノシタ

小さい頃から図鑑が好きだった私は、
今でも図鑑があると欲しくてたまらなくなります。

その中のひとつに、『身近な雑草のふしぎ』という図鑑があります。
そこには、たくさんの珍しい野に咲く花が出ていて、その解説をしています。

その1つに、オオバコという花があります。

文章で説明するのは難しいのですが、公園や空き地に生息して、
槍(やり)のような花の穂をつんと立てているのが特徴です。
花はとても小さいので、よく見ないと分からないかもしれません。

この花は非常に堅い土をこのんで生えるといいます。

私のお寺に、野の花観音様があります。
35体ほどありますが、その観音様は山道にそって建てられています。

その山道は踏み固められた道で、
その堅い道の真ん中にオオバコが生えているのです。

こんな話もあります。
ある人が山で遭難しました。その人は、道端にオオバコが生えているのを見つけ、
そのオオバコにそって歩いていって、人里につき、助かったといいます。

この人はオオバコが生える場所や、その理由を知っていて助かったのです。

こんなオオバコの生きる姿を見て、
「困難を困難とせず、そこでもしっかり生きていける」
そんな声が聞こえてきそうです。

こんな堅い土壌に生えるオオバコも、
発芽期に薄い緑色のセロハンをかぶせて光を少なくすると、
発芽できなくなるといいます。

強そうでいて、繊細な部分もあるのです。
なんだか人の性格に似ています。

ユキノシタという花を知っているでしょうか。
お寺の本堂の裏の日陰に咲きます。

白い可憐な花で、薬用にも使われます。
春先の若芽はてんぷらにして食べられるといいますが、
私はまだ食べたことはありません。

この花を日陰で可哀そうだからといって、日向に出せば、育たないようです。
日陰がよいのです。

私たち人間も、表にでずに、人の眼に触れないで働かれている人もいます。
演劇でいえば、役者でなくて、舞台装置を準備する人や照明係など、
人の目には付きませんが、大切な役割です。

そんな人たちの美しさを、このユキノシタは語っているのかもしれません。

そんなユキノシタからも、神仏の思いや、
その思いから感じられる言葉があるはずです。

言葉が通じない

言葉で思い出すのは『聖書』に出てくるバベルの塔の話です。

バベルの塔を建てた時代は、52種類ほどの種族がいたようですが、
みな同じ言葉を語っていました。

同じ言葉を持っているために、
お互いの理解もあり、文化も発展していきました。

それに慢心したのか、自分たちの力を誇示しようと、
天までとどく塔を造ろうとするのです。

これを天から眺めていた神が思いました。
「人々は、自分たちほど天地に強く美しいものはないと、おごり始めた。
神を敬うことを忘れている。この人々を乱そう」
と。

そこである日、神は人々が異なる言語を話すようにさせたのです。

言葉が通じないので、心を通わせることができません。
ですからいたるところで争いが起き、
このバベルの塔を造ることができなくなりました。

この塔の建設は中止され、
言葉の通じ合う者たちが、思い思いの土地に散っていったのです。

この物語は、神に挑戦することを戒めるとともに、
世界各地で話される言語の発生を意味しているとされています。

ここでは言葉が通じなくなって、争いが起こったと記されています。

ですから、言葉が通じないから、相手の心をよく見て、
互いが努力して、理解し合えるように勤めなさいと、
神は言っているのかもしれません。

日本で考えるならば、言葉はみな通じています。
田舎にいくと、分からなくて通じない言葉もありますが、
だいたいは標準語で言葉は通じます。

言葉が通じ合っているのですが、争いや喧嘩はなくなりません。
どうしてでしょう。

それは言葉を上手に使えていないか、あるいは相手の心をよく見て、
相手にふさわしい言葉を使っていないからかもしれません。

間違った言葉

ずいぶん前(平成18年12月)になりますが、
渋谷で32才の女性が自分の夫を殺害して、
身体をばらばらにして捨てるという事件がありました。
この女性の顔には、夫からたたかれたアザがたくさんあったといいます。

この女性が夫を殺害する前に、
実家に帰って「離婚したい」と両親に助けを求めています。
そのときの両親の言葉に問題があったと思われます。

その女性の父は、娘を叱りつけて「帰りなさい」と怒鳴りました。
母は「ひどい目にあった分、慰謝料を取りなさい」と言って、
娘を追い出したそうです。

私はとても間違った言葉を、娘に使ったのではないかと思うのです。

このとき両親が、この娘さんの苦しみを受けとめて、やさしい言葉をかけてあげ、
娘さんの辛さを理解してあげれば、こんな事件には至らなかったと思います。

普段から親と子の心が通じ合っていなかったため、
適切な言葉をかけてあげられなかったのかもしれません。

言葉というのは少し間違えると、娘を犯罪にまで追い込んでしまう、
そんな力があるのです。

言葉の難しさ

相手を傷つけさせないようにするための、言葉の工夫もあります。

通知表の書き方も、その1つです。

通知表を書く時の先生たちのご苦労もあると思いますが、
保護者にどう子どもの状況を知らせるかで、先生と保護者の関係が難しくなることもあるようです。

教心ネットというのがあって、そこのホームページを開けると、
『通知表所見文例集』や『小学校通知表文例事典』などの本が出ています。

坊さんの『戒名事典』や『引導集』に似たものがあるのだなあと、
それぞれの職業に必要な本があることを知りました。

この教心ネットでは、たとえば子どもの様子が「騒がしい」のであれば、
通知表の表現は「明るい、活発な」という表現にするというのです。

あるいは「頑固な」は「意志が強い」。
「威張っている」は「自信に満ちている」と表現するようです。

これらの言い回しを見ていると、何か共通するものが思い浮かんだのです。
それは引導です。

引導も亡き人の生前の生き方や性格などを、家族のみなさんにお聞きして作ります。
中には「頑固な母親だった」という家族もいますが、
そのまま引導に「頑固な」とは使えません。
そんなときには「意志堅固に」と変えます。

なぜか通知表にそっくりなのです。

引導は私が家族を代表して閻魔様に、
「この方は生前、素晴らしい生き方をしたから、
地獄の扉でなくて、天の扉を開き、あたたかな世界へ行かせてあげてください」
と、お願いするのが、引導の1つの意味になります。

そう考えると、この世の通知表のようなものです。

「この坊さんが言うなら、本当だろう。
じゃあ、天へ昇って行く扉を開いてあげましょう」
と閻魔様がお許しなるわけです。

学校の通知表でいえば、先生も子どもの本音が書けず、
保護者も学校での我が子の本当の姿を知るためには、
通知表の「裏読みが術」が必要なようです。

禅の一転語(いってんご)

禅にも一転語といって、
1つの短い言葉で、相手の心の眼を開かせる、そんな言葉もあります。
これも言葉の力です。

『維摩経』(ゆいまきょう)というお経の中に、こんな話がでてきます。

光厳(こんごう)童子が、修行に適した場所を求めて歩いていると、
維摩居士に出会いました。

光厳童子が「どこからきたのですか」と尋ねると、
維摩は「道場から」と。

道場など近くにないと知っていた光厳童子は驚いて
「いったいその道場は、どこにあるのですか!」と問いました。

維摩はそのとき
「直心是れ道場」(じきしんこれどうじょう)と、
光厳童子に一転語を与えたのです。

この言葉、一転語を得て、光厳童子は「ハッ」と悟るものがあったといいます。

光厳童子は、道場のある場所は静かで山里離れた所にあると思っていたのですが、
直心(じきしん)すなわち、素直でとらわれのない正しい心でいるならば、
至る所みな道場であって、修行の場であることを知ったのです。

このように、言葉にはさまざまな言葉あり、その言葉には力があって、
この言葉を上手に使っていけば、幸せを作りだしていくことができます。

(つづく)