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法話

あなたも私も幸せであれ 3 幸せの量を決めるもの

先月は「自分中心に考えやすい私たち」ということで、
自分のことばかり考えていると、人を不幸にし、自分も幸せになれない。
そこで少し自分の気持ちに、相手の気持ちを重ねてみる。
そうすると、自分も相手も幸せになっていける。そんなお話をしました。
続きです。

幸せを倍加させる

人は自分のことを中心に考えやすいのですが、
そこに思いやりや慈しみの思いが出てくると、
相手の立場に立って、物事を考えられるようになります。
それがまた、自分の幸せを倍加させる力になっていきます。

幸せとは不思議なものです。

たとえば、1000円のお金を2人で分けると、500円になります。

500円ということは、半分になってしまうわけです。
半分になって、1人500円しか使えません。
1000円で買えると思っていた品物も買えないので、不満も言いたくなります。

でも、幸せは違うのです。

たとえば、おばあちゃんが、孫がお手伝いをしてくれたからと、
1000円の内、500円をお小遣いとしてあげます。
すると、孫が「ありがとう」と笑顔をくれます。

自分のお財布から500円が減ったのに、
孫の笑顔が見られて幸せな思いになります。
孫も500円もらって幸せな思いになります。

孫がお手伝いするのも思いやりですし、お小遣いをあげるのも思いやりです。
お互いに思いやりを持って接し、そこから得た幸せは、
1人のときの幸せよりも、大きいことが分かります。

席を譲(ゆず)るのもそうです。

電車のなかで、本当は自分が座っていたいのに、
杖をついたおばあちゃんが乗ってくれば、おばあちゃんを心配して、席を譲ります。
おばあちゃんは、「ありがとうね。助かるわ」といって席に座ります。
譲ったほうも、譲られたほうも幸せを感じます。

席を譲った本人は、座っていたほうが楽なのに、なぜか嬉しいのです。
思いやりで、人と人とが触れ合うと、そこにつながりができて、
幸せが倍加していくことが分かります。

真理は簡単なのですが、
それが分からなくて、人はいがみ合い、幸せになれないでいます。

相手の立場にたつ

思いやりの心は、相手の立場にたって初めてでてくるものです。

そして、相手の立場にたてば、
自分中心で考えていたときよりも、幸せになれる。幸せの量が増える。
そしてそんな考えを自分のものにできれば、私も相手も幸せになれる。

そうであるならば、そうできるように努力しても、損はしません。

ある新聞に「相手の立場」という題で、70才の男性の方の投書がありました。
この方は、どうも相手の立場に立って思いやることができずに、後悔をしています。

1月13日は40回目の結婚記念日だった。

私は覚えていて、「今日は何の日だか知っているか?」と妻に尋ねた。
妻は「知らない」と答えた。

「40年前の今日、式を挙げたんだ」と言うと、
「そんな事どうでもいい」と妻が言葉を返した。

想定内の反応だったから驚きはしなかったが、失望した。
せめて「何の日だっけ?」ぐらいは言ってほしかった。

人間の知・情・意のうち、
情の部分を重んじる私と、知に偏る妻との間の溝を埋めようがない。
それでも互いに何とか折り合いをつけながら一緒に暮らしてきた。

ギャンブル好きで浪費家の夫と締まり屋の妻。
アリとキリギリスにたとえれば、私はキリギリスだ。
散々放蕩(ほうとう)無頼(ぶらい)な暮らしを続けてきた。
堅実で働き者の妻はアリに違いない。

相手の立場を思いやることができたなら、なごやかで楽しい家庭を築けたはずだ
と今になって思う。残念だ。

結婚当初はそう思っていたのに。
子供たちに仲の悪い夫婦の姿を見せつけてきた。申し訳ない。

同居の三男があきれ顔で「二人はどうして結婚したの?」
と率直な問いを投げかけてきた。

「縁があったから」と私は答え、妻はしばらく考えた後、
「好きだから。・・・・だいぶ、迷ったんだけどね」と言った。

互いに自分の我を通し、ぶつけ合うだけでなく、
相手の言い分に耳を傾け、思いやる必要があると反省した。

毎日新聞 平成21年2月2日付(下線は筆者)

最後のほうに出てくる、
「互いに自分の我を通し」は、自分中心に考えてしまうということです。

それを反省し、相手の言い分に耳を傾けられず、
相手の立場を思いやれなかったことを後悔しながら、
また自らを戒めています。

このことを結婚当初は思っていたのに、
40年経ってみれば、三男に「どうして二人は結婚したの」と言われるほど、
夫婦仲がよろしくなかったのでしょう。

今からでも、相手の立場にたって思いやれば、
きっと幸せが倍加し、お互いに結婚して幸せだったと思える、
そんな生涯を送られると思います。

相手の立場に立って、相手を思いやる。
それは「あなたも私も幸せになれる」唯一の方法であり、
幸せの量を倍加させる方法
でもあるのです。

みな1つの命でつながっている

相手を思いやるための、1つの真理があります。
それは「1つの命でみんながつながっている」ということです。

その命の源は神であり仏です。
そんな命につながっているから、相手を思いやることで、みんなが1つになれ、
幸せを共有でき、さらには相手の悲しみを知り、苦しみを理解できるのです。

自分1人だけの幸せを求めるのは、
1つの命からつながっているパイプを自らが、塞(ふさ)いでしまう行為になります。

それは返って幸せから遠ざかることになるのです。
やがて誰からも助けてもらえない、そんな境遇が待っています。

「神など信じない」という人もおられますが、
いつも見守ってくださっている神仏(かみほとけ)の思いを、
自らが踏みにじっている行為になります。

神仏から大いなる力をいただき続けている私たちであるのに、
それを悟れず、我(が)の強い生き方になってしまっているのです。

2つの頭を持った鳥の話

仏典のなかに「2つの頭を持った鳥」の話がでてきます。

たとえを元にして、深い真理を語っていると感じたお話です。
それを少し難しいとは思ったのですが、幼稚園の園児にお話ししたことがありました。

4月8日は「花まつり」といって、お釈迦様の生まれた日ですが、伊那の仏教会で、
そのお釈迦様の誕生をお祝いし、小さなお釈迦様の像に甘茶をかける集いを、
伊那にある幼稚園に出掛けて行ってさせてもらっています。

そこで以前、この「2つの頭を持った鳥」の話をしたのです。
園児ですから、少しアレンジして、ペープサートにしてお見せしました。

簡単なあらすじをお話しします。

昔ヒマラヤの山に2つの頭を持った鳥が住んでいました。

2つの頭は交代で寝ます。

あるとき、1つの頭が美味しいものを見つけ食べました。
寝ていたもう1つの頭が、それに気がついて目を覚まし言いました。

「お前ばかり、うまいものをいつも食べて、ずるいぞ!」
そう怒って、いつか仕返しをしてやろうと考えました。

怒った頭は、考えたすえに、毒の実を食べて、
もう1つの頭を困らせてやろうと思ったのです。

怒った頭は、もう1つの頭が寝ているうちに、毒の実を食べました。
すると、寝ていた頭が急に苦しい声をあげ、
やがてあまりの苦しさに死んでしまいました。

それを見て「ざまあみろ」と思っていたもう1つの頭も、
やがて苦しくなって、死んでしまったのです。

こんなお話です。

2つの頭を持っているのですが、お腹は1つでつながっているのです。
それを知らない、怒ったほうの頭は、自分も死んでしまうとも分からないで、
毒の実を食べたのです。

これは譬(たと)えですが、
私たちの生活のなかでも、こんな愚かなことをしている時があるのです。
先の投書の方もそうかもしれません。

通じ合っている心

このお話でまず教えてもらうことは、人はみなつながっているということです。

相手を怨み、意地悪をすると、相手が苦しい思いをするばかりでなく、
意地悪をした本人も、心を痛めるのです。
それは心の底でみなつながっているからです。

和やかな家族であれば、
夫や妻、子どもや祖父母など、みんな違った考えを持っていても、
もし家族の誰かが病気になれば、家族みんなが心配をして、
自分も苦しい思いになります。

家族が事故になれば、みんなが不安な思いになります。
子どもが受験に合格すれば、家族みんなが笑顔になります。

世界の発展途上国では、
5才未満で亡くなる子どもが、年間1010万人もいるといいます。
1日で約2700人の子が死んでいくわけです。

それを聞けば、誰でも心が痛みます。
それは2つの頭を持った鳥がお互いにお腹で1つになっているように、
私たちも心の奥底で、みんなが1つで、つながっているから感じられる思いなのです。

そう悟り、私と相手は通じ合っているのだという真理に目覚めることが、
幸せの量を増やしていく方法です。

自分にあるものを数える

そこで自分の幸せの量を増やすためには、どうすればよいでしょう。

それは自分に今あるものを数えることです。
足りないものを数えるのでなく、自分にあるものを数えるのです。

数えれば数えるほど、自分の幸せの量が増えるとともに、
相手に支えられる自分に気づき、それが力となって、
相手を思う気持ちも高くなってきます。

ここで幸せと感じられるものを、20個以上あげてみてください。
静かに自分に与えられているものを数えてみます。

・・・・・・・・・。

たとえば、私が挙げたものをここに書いてみます。
この「法愛」をお読みのみなさんも、
自分に今あるもの、与えられているものを比較しながら、お読みください。

空気が吸える・見える・聞こえる・痛みが分かる・風の心地よさが分かる
妻がいて・母がいる・子どもがいて・孫もいる
朝起きられて・朝のお勤めができる・食事をいただけ・顔を洗い、歩くこともできる
元気でいられ・ウンチがでて、おしっこもでる
パソコンをうて・こうして「法愛」を作り・お話ができて
毎日ブログを書け・テレホン法話もできる
書に親しみ・詩が書け、静かに考えられる
美味しいものを食べ、温泉に入り・笑顔をつくれ・不満もいえる
ああ幸せだと思えるし・人を思い・支えられて・生かされて
神仏に守られ、神仏の思いを察することもできる。

35くらい挙げてみました。

まだまだたくさん出てきて、止(とど)めることができないほどです。

自分に与えられているもの、今あるものを数えていくと、
支えられている自分に気づき、相手がいることに感謝の思いが出てきます。

それがまた相手の立場に立って、物事を考えられるようになる方法でもあると思うのです。

神や仏のことを考える

最後にもう1つ大切なことは、自分にあるものを数えるとともに、
神や仏のことを考える量を増やしていくことです。

それがまた、自分の幸せの量を増やすとともに、
相手を思い気づかう力にもなっていくのです。

人生のなかで神や仏のことを考えていくと、それだけ自分の人格が養われ、
自らが幸せを作り出していける力を持つようになります。

聖人や偉人と言われる人で、神仏のことを否定する人は誰もいません。
みな神仏の前に謙虚です。

禅語に、こんな言葉があります。

水 有り みな 月を含む(有水皆含月)
水 急(きゅう)にして 月を流さず(水急不流月)

ここでの月は仏の心、仏心(ぶっしん)を意味します。

最初の句は、
「池の水でも田の水でも水たまりの水でも、みな月を宿す」というところから、
誰でも仏の心を持っているという意味になります。

2つ目の句は
「急な水の流れの中でも、そこに映った月は流れない」ところから、
私たちの心は急流のように、怒りに流され、欲に流され、不満に流されるが、
仏心は決して流れず心の内にちゃんとある、という意味になります。

2月の「法愛」でお話した青山さんが
『法句経』にある「おのれこそおのれのよるべ」という言葉で悟られたように、
おのれの中にある仏の心こそがよるべであり、その仏の心を育ていくことです。

しかも相手も持っている仏の心をも探し出し認め、互いの幸せを大事にしていく。
ここに相手の幸せと私の幸せが築かれていきます。

どうぞ、幸せの奥にある神や仏の心を、日々探究していってください。
互いの心にある仏の心こそ、幸せを作りだす基(もとい)なのです。