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法話

あなたも私も幸せであれ 2 自分中心に考えやすい私たち

先月は「幸せを見つけ出す」ということで、人に幸せにしてもらうのではなく、
自分が幸せを見つけ出し、作っていくというお話をしました。続きです。

自分のことばかり考えていると、人を不幸にする

先月、最後のほうで、
「1人暮らしの生活は楽(らく)かもしれませんが・・・」
というお話をしました。

でも、1人でいただく食事はつまらないもので、
食事は家族がいれば、みんなで取ったほうが美味しいし、楽しいものです。

なぜ、1人のほうが気楽かと言えば、
1人の生活であったら、相手のことを考えなくてもいいからです。

でも、家族が1人ひとりと増えていくと、
自分の幸せばかりでなく、相手の幸せも考えてあげなくては、
互いが幸せに暮らせません。

ですから、家族が1人多ければ、それだけ大変になってくるのです。

でも、人は1人では生きられません。
できれば他の人と共に住むために、
どのような心の働きをしていけばよいかを、学んでおくことが大切になります。

その学びの1つが、「人は自分中心に考えやすい」ということです。
自分自身のことを考えるあまり、自分の幸せばかりに心が傾いて、
人の幸せを考えることに心がいかなくなるのです。

極端な例かもしれませんが、
最近ニュースなので報道されている、
ある会社の冷凍食品への農薬混入事件がありました。

犯人らしき人が捕まったようですが(平成26年1月27日現在)、
この冷凍食品を食べて、身体に異常をきたした人が数多くでました。

この容疑者と言われる男は「給料が安い」といつも不満をいっていたようです。
その腹いせに、もし農薬を食品に混入させていたならば、
自分のことだけを考えていたといえます。

そのために、多くの人の幸せを奪ってしまったことになります。
自分のことのみの幸せを追い求めていると、このような生き方になってしまうのです。

人のことは分かりにくい

自分のことは考えやすいのですが、人のことはなかなか理解しがたいものです。

たとえば自分の手に怪我をした時と、相手の人が手に怪我をした時と、
どちらが痛みを感じるでしょう。

言うまでもなく自分です。
自分の痛みの方が、よく分かるわけです。

自分が車で事故を起こした場合と、他県で知らない人が事故を起こした場合、
どちらが大変な思いをするでしょう。

自分のほうであることは、誰にでも分かります。

家族であっても、自分のことばかり考えていると、やがていがみ合いになるでしょう。
次の事例はそれほどでもありませんが、あまり幸せでないようです。
なぜでしょう。

30代の女性で、夫の両親との付き合い方で悩んでいます。
この女性はパートの仕事をしていて、子育てもしています。

家の隣に夫の両親が住んでいて、
近所に住む夫の妹も毎日訪ねてくるといいます。
暇な義父母や小じゅうとにいつも監視されていると思っているのです。

仕事を休み、家に車があると「どうしたの」と電話をかけてくる。
買い物袋を見ては、「○○で買い物してきたんだね」という。

彼女が留守の間に、
誰かが訪ねてくると「どなた様、何の用」と聞いたり、
宅配便まで預かってしまう。
家庭菜園をしているしゅうとが、家の庭をうろうろする。

3人とも彼女の家のことを何でも知りたいようで、タチが悪い。
いつも見られているようで、本当に気持ちが悪い。
我慢するしかないのでしょうかと、思っているのです。

(読売新聞 平成26年1月28日付)

こんな悩みです。

干渉されたくない思いは分かりますが、
義父母や夫の妹さんの思いを充分にくみ取っていない、そんな感じがします。

おそらく、女性であるこのお嫁さんを義父母はとても愛していて、
悪意があってしているのではないと思います。

いいお嫁さんだと思っているから、何か手助けをしたいと思っているとも思えます。

「暇な義父母」とか「タチが悪い」、「本当に気持ちが悪い」という思いは、
自己中心的で、相手の気持ちが分からないところからきていると思えます。

それほど、相手を理解し分かってあげるのは難しいことかもしれません。

自分の気持ちに相手の気持ちを重ねてみる

そこで、自分の気持ちに、相手の気持ちを重ねてみる努力をするのです。

この『法愛』でも東日本大震災のことは、何度も書きましたが、
最近次のような記事に出会いました。
日本人の礼節の深さを思う出来事です。

これらのことも、自分の気持ちに、相手の気持ちを重ね合わせ、
その結果、相手の幸せを考えられて、できた行動ではないかと思います。

救援物資をヘリコプターで被災地に届けた米軍の女性パイロットは、
着地が非常に恐ろしかったといいます。

なぜなら、どこの国でもヘリコプターに人がワーっと殺到し大混乱がおき、
奪い合いになって身の危険を感じることがよくあったからです。

日本の被災地でもそうなると覚悟して着地したのですが、
近づいてきたのは代表者である初老の紳士1人。

そして丁寧に謝意を述べ、
バケツリレーのように搬入していいでしょうか、と許可を取って、
みんながそこに整列し、搬入が始まったようです。

すると途中で「もうけっこうです」と、その紳士は言ったそうです。

パイロットは驚いて「なぜですか?」と尋ねると、
「私たちはもう充分です。
同じように被災されている方々が待つ他の避難所に届けてあげてください」
と言ったのです。

そのパイロットは、礼儀を重んじ、利他の精神で行動する日本人の姿に感動し、
生涯このことは忘れないと知人に語ったそうです。

こんな日本人の心の在り方を、いつまでも忘れないでいてほしい出来事です。

これも、自分の事ばかりでなく、相手のことを考えなければできない行動です。
日々の生活でも、相手の気持ちをくみ取っていける、
そんな心の訓練をしていくことが大事でしょう。

そんな生き方の中から、
相手の思いを分かってあげる、そんな心の力が出てくるのです。

相手の心に入っていける心の力

人のことは分かりにくいのですが、
相手を思う気持ちを高めていくと、相手の苦しみや悲しみが分かり、
自分がどうすればいいのか、判断できるようになります。

それは「あなたも私も幸せになっていける」、1つの方法でもあります。

数年前34才で亡くなられた女性がおられました。

その葬儀の折に、彼女の生前のことを思い返し、
葬儀の時、つい涙をこぼしてしまいました。

私が実際に体験したことではありませんが、
相手の気持ちを自分の心に重ね合わせると、
相手の気持ちが分かって、悲しみを共にすることができるのです。
人には、そんな心の力があるのだなあと思います。

今から28年ほど前に、40才で亡くなられたある女性の葬儀を致しました。
当時私が32才の時です。

その女性には2人の娘さんがいて、
当時はまだ2人とも保育園に通っていたと思います。

お母さんを亡くされた子どもさんの気持ちはどうだったのでしょう。

そんな2人の子どもさんもお父さんに守られ、大きくなり社会人になりました。
姉妹2人は友達のように仲良く、そして助け合いながら、頑張って生きてきました。

そんなある日、お姉さんが不治の病にかかってしまったのです。
32才のときです。

その病名を知らされても、何とか立ち直ろうと明るく、病に負けずに生きてきましたが、
暑い夏のある日、帰らぬ人となりました。享年34才でした。

葬儀の時、彼女のために一生懸命、引導を作りました。
一部を紹介しましょう。

人間に生まれること難(かた)し
これ釈尊の教えなれど 濁世(じょくせ)の世の命
その定め知る人ぞなし
ゆえに 諸行無常の理(ことわり)ありて
心に別れの 鐘の音(ね) 響く
天より降り来たりて 幼き頃 母との別れあり
ほほえみし母のみ前に 花を手向けては
最愛の妹と共に この世の荒野に
白き花一輪 一輪植えつつ 幸せ園 作る
夏の光きらきらと 笑顔明るく
前向きに生きては 弱音をはかず 34年 生きて美し

ありがとう 共に暮らししほほえみの
日々は楽し 遥かなる君

引導なので文が漢文調になっていて読みにくいと思いますが、
何を言わんとしているかは理解できると思います。

長い間住職をしていますが、
母とその娘さんの葬儀を私一代でするというのはまれで、
しかもその娘さんがお母さんを亡くしたときの、
幼少の頃の姿が忘れられないでいたので、私にとっても悲しい葬儀になったのです。

自分のことのなかに、他の人のことを自分のこととして考えられるから、
悲しみを共に分かつことができるのだと思います。

同じように幸せもそうだと思います。

自分のことのなかに、他の人のことを自分のこととして考えられる力があるからこそ、
相手の幸せを考えてあげられることができるのです。

自分中心になると、相手を自分の思うようにしたくなる

人は自分中心に考えやすいのですが、そう強く思っていると、
相手を自分の思うようにして、幸せを得ようとします。

でも、できないとなれば、それが不幸の原因になって不満になるのです。

アメリカの大統領はオバマさんですが、
そのオバマさんを自分の思うようにしたい人はいないでしょう。

でももっと近しい人で、自分の幸せと身近につながっている家族、
たとえば夫や妻、子どもやおじいちゃんおばあちゃんを、
自分の思うようにしたいのは分かると思います。

夫であれば、妻が自分の願うように動いてくれればいいという思いはあるでしょう。
仕事から帰ってくれば、「お疲れさま」とか「ご苦労さま」と言ってほしい。
定年退職して家に帰れば、「長年ご苦労さまでした」と言って、
労(ねぎら)ってほしいというのもあります。

ある奥さんが定年退職で会社から帰ってきた旦那さんに、
ご馳走を作って長年の苦労を労ってあげたといいます。

でも夫は妻の私には何も言ってくれない。

私だってずっと留守を守り、子を育て苦労してきた。
「お前こそ、私を支えてくれてありがとう」。そう言って欲しかった。

でも言ってくれない。
それが辛くて涙を流して泣いたという奥さんもおられました。

夫が妻の思いを理解しないところからくる不幸です。
これも自分中心からくる、家庭不和といえるかもしれません。

相手からしてもらうことを、当然と思ってしまう

もう1つ知っておかなくてはならないのは、
「自分のことばかり考えていると、相手からしてもらうことを当然と思ってしまうこと」
です。

当然と思わなくても、気がつかない場合もあります。

日々の生活に忙しければ食事をいただくとき、
食事がでてくるのが当然と思ってしまいます。
そして作った人のことを忘れ、野菜やお魚さんの命のことも忘れています。

顔を洗うにも、その水が水道から出てくるのを当然であると思い、
感謝の心も忘れています。
外に出かけるときは服も靴も、当然のように着て履(は)いて出かけます。

親子であっても、
子どものころに親がどれだけ苦労して自分を育ててくれたかを忘れています。
覚えていないかもしれません。

中には親が子を育てるのは当然と思う子や、
勝手に生んだんだから当然と思う子もいるかもしれません。

自分が親になってみて、子育ての苦労を知り、初めて親の大変さに気づいたとき、
育ててもらったことが当然でないことが分かります。

そして感謝の心を持つものです。
そこには相手を思う気持ちがありますね。

また親であっても、子を苦労して育てたのだから、
老いの面倒をみるのは当然と思ってしまうことがあります。
でも、小さい頃、我が子が笑顔で「おかあさん」あるいは「おとうさん」と呼んでくれた。
抱きついてくれた。それだけで、恩を返していると思うことです。

だから、老いて子に面倒を見てもらえるのは当然ではなく、
「ありがたい」と思って、感謝の言葉を投げかけるのです。

こんな短歌がありました。

親なのにわが子とうまくつきあえず湯船のなかで涙を洗う

(読売新聞 平成25年12月30日付)

女性の方の歌です。
親と子の意見があわず、すれ違いを悲しむ歌です。

親から見れば、我が子は可愛いはずです。
子どもも親とは仲たがいしたくないでしょう。
でも意見が合わない。考え方も違う。だからすれ違ってしまうのです。

人は自分中心に考えやすく、そればかりだと、
どこからか不幸の風が吹いてきて、相手に不満や不平を思うようになります。

ですから自分のことは少しおさえ、
自分の気持ちに相手の気持ちを重ね合わせみましょう。
そんな心の持ち方が、必ず幸せを築いていく力になります。

(つづく)