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法話

あなたも私も幸せであれ 1 幸せを見つけ出す

今月から「あなたも私も幸せであれ」というテーマでお話をいたします。

このお話は各月で行っている92回目の「法泉会」で、お話ししたものです。
平成21年の3月26日の午後7時から、1時間半ほどのお話でした。

少し書きなおしながら、お話を進めていきます。

誰も私を救ってくれない

「あなたも私も幸せであれ」というテーマです。

このテーマは、
あなたの幸せのために、私の幸せが犠牲になってなくなってしまうのでなく、
あなたの幸せが私の幸せにもなっていく。

また私ばかりが幸せになっていくのでなく、
あなたも幸せになっていけるということです。

あなたも私も同じように、一緒に幸せになっていきましょう
ということで考えていきます。

最初にこのテーマを考えて、何からお話しようかと考えていましたら、
ある新聞(中日新聞 平成21年3月21日付)の記事に目が止まりました。

なかなかいい視点を述べているなあ思ったので、
この人の考えをお話ししながら、このテーマに入っていきたいと思います。

愛知専門尼僧堂の堂長をされている青山俊董(あおやましゅんどう)さんのお話です。
確かこの方は、曹洞宗の尼僧さんであったと思います。

新聞では「『法句経』との出会い」という題でお話をされていました。

この文をすべてのせると、
今回の法愛が、青山さんの文章になってしまうほど長いので、
少しまとめながらお話ししていきます。

この『法句経』(ほっくきょう)というお経は「真理の言葉」という意味があり、
仏の教えの根本のところを集めたもので、
仏教では非常に大事な経典になっています。

私は19才のころから11年間も大学に学びましたが、
私の悩みを誰も解決してくれず、悩んでいました。

その答えを性急に求め、
釈尊はこの私の悩みをどう解決せよとおっしゃるのかと叫びたい気持ちでした。

求めては絶望し、釈尊がどんな立派なことを説かれても、
それは釈尊の救いであり、釈尊が見つけ出された道であって、
私の道ではないと思ったのです。

釈尊というのはお釈迦様のことですが、
これは、今現在、お釈迦様の教えもあるし、
お釈迦様を象(かたど)った仏像もあるのだけれど、
このとき青山さんは、ほんとうにお釈迦様と出会っていなかったのです。

幸せの只中(ただなか)にいた

それでは、さらに次を読んでいきます。

誰もこの私を救ってくれない。
誰もこの私の道を具体的に教えてくれやしない。
救いなんてないんだと、夢遊病者のように迷っていたのです。

そんな春の夕暮れ、稲妻のように一つの言葉がひらめきました。
「おのれこそ おのれのよるべ おのれを惜(お)きて 誰によるべぞ」
『法句経』の一節です。「あっ」と、思わず私は声をあげました。

15才で出家したその最初に、この『法句経』の一節はそらんじていました。
でもほんとうに分かっていなかった。

「他に救いを求めては駄目なんだ」と釈尊は説いてくださっていたのだと分かり、
この言葉を通して、釈尊とほんとうに出会うことができたのです。

このことに気づくと、
「他人によって解脱が得られるものではない」(『経集』・きょうしゅう)などの、
さまざまな経典に出てくる教えの意味が理解できていきました。

青山さんは今まで、『法句経』のこの教えをそらんじていても、
自分のものにはなっていなかったのです。

でも、ほんとうにこの教えが分かったときに、
お釈迦様との真なる出会いがあったのです。

そして、「他人によって解脱が得られるものでない」
という突き放された言葉に出会うことで、心の眼が開き、1つの悟りを得たのです。

そのことを次のように言っています。
ここでは正確な文章を載せてみます。

「あっ、私の求めていた教えがここにあった!私の救いがここにあった!
いや初めから只中(ただなか)に包まれていたのに、
私の目が見えず、私の耳が聞こえないばかりに、
何と長い月日を外に向かって探しまわっていたことであろう」
と気づかせていただくことができた。

ふかぶかとしたぬくもりを全身に感じながら合掌して立ちつくしている私を、
おぼろ月がやわらかい光で包んでくれていた。探し求めていた光の只中に。

上手な文章だと思います。

この文章の中に、「合掌して立ちつくしている」というといころがでてきます。
これは悟り得た喜びを表しているのだと思います。

多くの禅の祖師方も、悟った時に、同じような喜びを感じていたようです。

幸せを内に探し求める

ここで初めに救いを外に求めていたと言っています。
この救いを、今回のテーマでは幸せと置き換えてもいいと思います。

救いすなわち幸せを外に探し求めていた。
そのときには、幸せはどうしても見つからなかった。

でも「おのれこそ おのれのよるべ」という言葉から、
誰も助けてはくれない、他に救い(幸せ)を求めてはいけないのだ。
救い(幸せ)を自分の心の内に求めていったときに、
「ああ、私は幸せの只中にいたのだ。包まれていたのだ」と分かったのです。

私の心の目が見えず、心の耳が聞こえないばかりに、幸せに気づかなかった。

たくさんの幸せの中に、
私たちは生かされているのだけれど、それに気がつかないだけである。
なぜならば、幸せを外に追い求めているからだ、ということなのです。

その一つの具体的な思いを次の教えで語っています。

他人によって解脱が得られるのではない

という教えです。

この解脱とは「悟り得て自由になる」という意味がありますが、
今回のテーマでいえば、この解脱も幸せと置き換えていいと思います。

幸せに置き換えていえば、「他人によって幸せが得られるのではない」となります。
外に幸せを求め、この人にあの人に幸せにしてもらいたい。
そう思っているうちは、ほんとうの幸せは手にすることができないのです。

幸せは自らが作りだすもの。
そして生かされている自分を感じ取っていくものなのです。

自分が見つけだす幸せ

私たちはみな老いていきます。

この肉体がはつらつしていて、しかもきれいでいる年代は
10代あるいは、20代くらいでしょうか。
スポーツ選手は、この年代が一番活躍するときです。

そんな丈夫で美しい身体をもっていることが幸せなのだと、
幸せを外に思い求めると、50も60も過ぎれば、当然、身体も老いてきて、
顔にはシワが増え、足腰も弱ってきますから不幸に思えてきます。

目に見える外のものは、常に流れ変化していくので、幸せを見つけにくいわけです。

でも考え方によっては、肉体が老いても、幸せを感じることができます。

年を重ねるごとに、経験が増し、人生の機微も分かってきます。
学びも深まり、人生の意味も達観できるようになります。

その意味で、不幸ばかりではありません。
どう自分が、幸せを見つけだすかにかかっているのです。

「おのれこそ おのれのよるべ」のように、
自分が主体となって、幸せを探し求めていくわけです。

お釈迦様が、私は月を指さし示すが、その月を見るのはあなた方である。

悟りという月を見るための方法として教えを説くが、
その教えにしたがって悟りという月を見るのは、あなた方なのだ。
こう説いています。

この月を幸せに置き換えれば、
幸せを手に入れる方法を教えるけれど、その教えに従って、
実際に幸せを手に入れるのは、あなた方であって、他の人からもらうものではない。
こんな意味にもとれます。

幸せは自分が主体になって、探し求めていくもの、
自分が見つけだし、作りだしていくものだということを、まず心に置いて、
話を進めていきます。

相手があると幸せが変わる

自分が主体になって幸せを見つけ出していくといいましたが、
人は1人では生きていけないので、必ず他の人との関わり合いがでてきます。

山の奥で1人で修行をしていれば、1人の世界ですから、
何ものにも邪魔をされずに、幸せを求めていけます。

でも、それは尊い修行をされている一部の人に許されることで、
私たちは普段、人と人との関わりのなかで生活していかなくてはなりません。

私はお寺の住職ですから、
土曜日や日曜日は大概、法事などの仕事が入っていて、その曜日は休めません。

普段でもお寺の掃除や事務仕事、この「法愛」作りや、法話の作成、
それに伴う読書や調べ物など、たくさんの時間が入ります。

ですから、休みの日というのは、なかなか取れないのです。

そんな中でも、何にも束縛されない自由な日もあります。
そんな日は幸せをかみしめて、ゆっくり過ごそうと思っていると、
電話がかかってきたり、突然の来客があったりして、
あわただしい一日になってしまうことがあります。

1人のゆっくりした時間を幸せに過ごそうと思っていても、
そこに他の人が介入してきて、その幸せが壊されてしまうときがあるのです。

昨年の10月に書きました「幸せのひだまり」で、
いつもいつも幸せ、そう思っていることが大切だというお話をしました。

でもそれが1人でなくて、他の人が関係してくると、自分の幸せが突然、壊されたり、
また幸せの意味が違ってくる場合があるのです。
このことを知っておくことも大切なのです。

この意味で、今回のテーマである「あなたも私も幸せであれ」に
「私」の幸せばかりでなく、「あなた」の幸せが加わってくるのです。

団体競技に見る幸せ感

野球は9人の選手でする団体競技です。
プロ野球で試合をする場合、さらに多くの人が関わってきます。

昨年は楽天が初の日本一になりました。
中心で活躍したのが、エースの田中将大(まさひろ)投手でした。
レギュラーシーズンに、負け知らずの24勝を挙げたのは記憶に新しいことです。

野球は団体競技ですから、いくら投手が頑張っても、
仲間が打って、守ってくれなければ、勝つことはできません。

田中投手も仲間がしっかり打ってくれ、そして守ってくれたので、
今までにない成績を残せたのでしょう。仲間とともに得た記録ですし、幸せです。

ある試合で、1人の選手がホームランを打ったとします。
ホームランを打った選手は幸せでしょう。

でも、そのチームが負けてしまったらどうでしょう。
ホームランを打ったけれど、負けてしまった。負けては幸せではありません。
そして、そのチームを応援している人も幸せではいられない気分になります。

こう考えると、人と人との関わり合いで、幸せが少しずつ違ってくるのです。

マラソンは42.195kmを走る競技で、1人で戦うものです。
そのときの選手の力と体調によって勝負が決まります。
1人で走るのですから、他の選手にはそれほど迷惑はかけないでしょう。

でも今年1月2日、3日に行われた箱根駅伝は、そうはいきません。
10人の選手がそれぞれの区間を精一杯走り抜き、勝ち負けを決めるからです。

「山の神」と言われていた柏原竜二が卒業して、
なかなか1位を取れなかった東洋大が、今回1位になりました。

私にはよく分かりかねますが、
団体競技としての緻密(ちみつ)な作戦があるようです。

3回ほど優勝をしている山梨学院大は、
往路の2区を走っていたエースのオムワンバ選手が右足痛で棄権したので、
失格になりました。

オムワンバ選手にとっては、泣けないほど辛いことだったでしょう。
1人が棄権したので、あとの9人は資格を失ってしまいました。
資格を失っても走りました。

箱根を走りたくて留年した5年生の森井選手が10区を走り、
区間5位のタイムを出したそうです。

相手がいて私がいる。
そのつながりで幸せを作っていくというのは、大変なことです。
でも、そこには1人では味わえないもっと大切な幸せがあるのです。

幸せを分かちあう

多くの人との触れ合いで、1人の幸せをみんなで分かち合えることができます。
さらには、1人の苦しみをみんなで背負ってあげることもできます。
悲しみもそうです。

そして、自分だけが幸せになるのでなく、
みんなが幸せになることが、自分の幸せだという世界があるのです。
少しずつ幸せ感が広がっていきます。

このことは、家族にもいえることです。

1人暮らしは気楽かもしれませんが、
たとえば1人で取る食事ほどつまらないものはありません。

ある中学生が塾から遅く家に帰ってきて、1人で食事をする。
「こんな淋しい食事はない」と言っていたのをどこかで読んだことがあります。
食事は家族みんなで取ったほうが幸せですね。

1人で暮らしていて、結婚して夫婦2人になった。
当然、生活のパターンが変わります。なぜでしょう。

それは自分の幸せばかりでなく、
相手の幸せも考えていかなくてはならないからです。

1人子どもが生まれれば、また生活が変わってきます。
子どもの幸せも考えていかなくてはならないからです。

妻であるならば、母の役割が増え、
夫と子どもの幸せを考えてあげなければならなくなるのです。
ですから生活が変わってくるのです。

私の幸せもあり、あいての幸せもある。
この2つの幸せをどう考えていくかが大切で、
そこに幸せを見つけだす難しさがでてくるのです。

(つづく)