ホーム > 法愛 4月号 > 法話

法話

幸せのひだまり 1 さまざまな幸せの形

今回から「幸せのひだまり」という演題でお話をいたします。
このお話は「法泉会」というお話を聞く会でお話ししたものです。
91回目の平成20年11月28日の夜のことです。
少し書き直しながら、お話をしていきたいと思います。

いつも幸せ

今月は、この世とあの世の関係について考えてみます。

寒くなってくると太陽の光が恋しくなります。

ある10月の朝、法事に出かける前、少し身体をあたためようと、
ちょうど南からさす太陽の光が家の中にさしこんでいたので、
そのひだまりに背中をあたためていると、なんだかとっても幸せな気持ちになりました。

そんな光に、静かに包まれながら思うことがあったのです。

「私たちは普段とは違って、
今日のようなあたたかなひだまりにあたって、幸せに気づかせてもらうことがある。
でも考えてみれば、いつもそんなひだまりの中で、暮らしているのではないか」
という思いです。

そんなふうに思っていると、一つの言葉が浮かんできました。

いつもいつも ありがとう いつもいつも幸せ

そうしてこの言葉を11月の「月のことば」(平成20年)にしたのです。

「法愛」の表紙に毎月「月のことば」を小さな紙に書いて張ってありますが、
そんなふうにして毎月、私に浮かんできた言葉を書いています。

「いつもいつも幸せ」と思うには、何か大切な気づきがなくてなりません。
一番大切な気づきは何かと考えると、
いつも支えられてあるということではないでしょうか。

この人にも、あの人にも、あるいは大自然にも支えられている。
目に見えるもののほかに、目に見えないものまでにも支えられている。
そう思います。

それに気がついて、「いつもいつもありがとう」と言えた場合、
「いつもいつも幸せだなあ」と思えるのです。

赤い葉の幸せ

ある日のことです。
ご葬儀であるお寺さんに行きました。

その日はとても晴れた日で、
ちょうど楓(かえで)が真っ赤に紅葉して、
秋風に吹かれ、さらさらと庭に落ちています。
そのためか、庭がきれいに赤く染まっているのです。

そこの住職さんに「楓がきれいですね」というと、
「うちの庭は、赤い絨毯(じゅううたん)をひいてあるんだよ」というのです。

「そうですね。赤い絨毯の上を歩いてとても気持ちがよかったです」
そう言うと、そこの住職さんが、
「ところで、なぜ赤い絨毯がきれいかわかりますか」
と聞くのです。

私が少し考えていると、和尚さんが
「あれはきれいに掃除をして、
その上に赤い葉が落ちているので、きれに見えるのですよ」
というのです。

きれいに庭を掃除し、ごみ一つ落ちていない庭に、
赤い葉が舞い落ちていたので、さらにきれいに見えたのです。
そこまで気づくのは難しいことですね。

私の知らないところで、努力し働いている人がいたので、
きれいな赤い葉の絨毯の上を歩け、幸せな気持ちになれたのです。

多くの人がさまざまな出来事のなかで、
自分の思うようにいかず、心を乱して不平や不満の言葉が出たり、
あるいは苦しくなったり、悲しくなったり、人を疑ったり怨んだり、怒ったり、
欲深くなったりして心が揺れるものです。

でも、そんな中でも、何かに支えられ、また尊い事ごとに気づかされ、
いつも幸せなんだと思える、そんな生き方ができたらと思うのです。

忘れられない幸せの日

ここに一つの詩を載せてみます。

この詩はある新聞の「朝の詩」のところに掲載されていたものです。
市岡さんという女性の方が作った詩です。

この方は作詞家にあこがれたのですが、
その願いが届かず、プロの作詞家はあきらめたようです。

最近亡くなられた藤圭子さんや小林幸子さんの曲の詩も書いたそうで、
この詩に元ゴダイゴのタケカワユキヒデさんが曲を書き、CDになったようです。

「幸せな日」

不幸は連れだって来て
長居をしてゆく
幸せは一人で来て
いつもそっと立ち去る

人生、いい日だったと
心から思える日は
少ない
少ないからこそ
濃く残り
忘れない忘れられない

(産経新聞 平成20年11月25日付)

こんな詩です。

「不幸は連れだって来て、長居する」と歌っています。
少し辛い詩ですね。

「幸せは一人で来て、いつもそっと立ち去る」とも書いています。
幸せ感の薄さを感じますが、この詩がCDになるほどですから、
共感する人も多いのでしょう。

でもいつもそう思っていると、幸せはすぐ立ち去ってしまいます。
人生のいい日は少ししか巡ってきません。
今語っている「いつも幸せ」からは遠く隔たってしまいます。

そこで私が、プラスの思いに満ち、
いつも幸せという思いにそった詩を書いてみました。

「いつも幸せ」

いつも いつも 幸せ
不幸は 私の心のドアをたたくだけで
そっと 去っていく
幸せはみんなでやってきて
家に ほほえみがたえない
人生 いい日ばかり
大切で忘れられない毎日がうれしい

だから 私も
いつも いつも
幸せ運ぶ あたたかな風になって
生きていく
いつも いつも 幸せ

不幸を小さく見て、幸せを大きく見ていく。
そんな生きる姿勢を書いてみました。

毎日が幸せだと思えたほうが、人生は充実していくのではないかと思うのです。

日日是好日の精神

中国の唐の時代の禅僧に、運門(うんもん)という和尚様がおられました。

たくさんのお弟子がいたのですが、
ある時お弟子に「今から15日以後の自分の心境を述べてみよ」と問いました。
でも、誰も答えられません。

今でいえば、「悟った後の生き方を述べよ」とでも言ったのかもしれません。
そこで運門和尚様が、こう言ったわけです。

日日是好日

です。

これは「にちにちこれこうにち」と読み、
または「にちにちこれこうじつ」とも読む場合もあります。

「毎日が幸せだ」という意味です。

毎日が幸せだといっても、
苦しいときもありますし、思うようにならない日もあります。
先ほどの詩のように、苦しみが長居するときもありましょう。

そんなとき、たとえば「晴れもよし、雨もよし」と考え方がありますが、
それをさらに一歩進めて「幸せもよし、苦しみもよし」と考える。
そう看破すれば、すべてが好(よ)き日となるという心境です。

言葉ではいえば簡単ですが、
実体験として会得(えとく)するには難しいかもしれません。

禅でも、こんな考え方があって、いつも幸せでいられる方法を示しています。

相手との比較で感じる幸せ

ここでは禅の奥義(おうぎ)から少し離れ、
さまざまな幸せの姿、形を見ていきます。

初めに考えられる幸せは、相手との比較で感じる幸不幸です。

目の不自由な人を見て、自分は目が見える。幸せなことだと思う。
足の不自由な人を見て、私は不自由なく歩ける。ありがたと思う。
病気で寝ている人を見て、
元気でいられる自分は、不幸だなんていっていられない。

こうして他と比較し、幸せを思います。

逆に自分は病気がちで、健康な人をみて、うらやましく思う。
老いてきて足腰が痛み、元気で働いている若い人を見てはいいなあと思う。
隣の家はお金持ちで困っていないらしい。
自分の家と比較して、自分の家は貧乏だ。ああ不幸でつらいと思う。

他との比較で、自分を不幸と思ってしまう場合いです。

こうして比較し、幸不幸を決めがちな私たちですが、
その心根の奥深くを見ていくと、どうも欲望という思いにつきあたるのです。

たとえば自分が病気がちで、健康な人はいいなあと思った時、
健康がいいという欲望を少しおさえて、
「たまには病気もいいかもしれない」と思う。

あるいは、「病気になったおかげで、家族が一つになったわ」とか、
「病気になって、今まで気がつかなかったけれど、
健康というのは本当に素晴らしい」と発見していく。

そんなとらえ方をしてくと、
病気になるのは不幸だという思いが少し和らいできて、
病気もたまにはありがたいものだ思えるようになります。

なかなか気がつきにくい思いですが、
他との比較で、幸せを思ったり、不幸を思ったりすることが多々あることを
知っていることです。

特別なことで感じる幸せ

2番目に、特別な事で、幸せを感じることもあります。

オリンピックで金メダルを取れば、嬉しいでしょうね。

2020年に東京でのオリンピックが決まりましたが、
たとえば水泳の100メートル平泳ぎで金メダルを取った北島康介さんが、
2004年のアテネオリンピックでは「チョウー気持ちいい」といい、
2008年の北京オリンピックでは「何にもいえねえ」と語ったのは、有名です。

最近(平成25年8月21日)ヤンキーズのイチロー選手が、
日米通算で4000本安打を達成しました。

達成したそのとき、観客が総立ちになり、イチロー選手を祝福し、
さらには試合を中断して、ヤンキーズの仲間たちが駆け寄って祝福しました。

イチロー選手はそのとき
「わざわざ試合を止めてね。うれしすぎて『もうやめて』って言いたかった」
とコメントしていました。幸せだったでしょうね。

誕生日でみんなが祝福してくれたり、プレゼントをくれる。
幸せなことです。

法事でお坊さんを呼び、家族の方が集ってお経を読んで供養する。
先祖様だってきっと嬉しいと思いますよ。

私が小さかった頃、近くの神社で行われたお祭りが楽しみでした。
そのときお小遣いをもらって、お祭りに集まったお店でおもちゃを買うのです。
前日は眠れないほど待ちどおしかったのです。

みな特別な時に感じる、幸せです。
この幸せも大切な人生の味わいです。

でも、特別なことだけが幸せだと思っていると、
ごく普通の幸せに気づかなくなっていくのです。

気づかされて幸せを思う

3番目に、あることに気づかされて、幸せなんだなあと思う時があります。

本を読んで知ったり、新聞を開いて思ったり、知人から教えられたり。
そんな機会に、ああ私は幸せなんだと気づかせていただくことがあります。

一つの投書を紹介します。
45才の女性が書かれた投書です。

「多くの人に支えられて」という題です。

「多くの人に支えられて」

夫と娘の3人家族で、私はパートで働く主婦。
うちにはめいがよく遊びに来て、近況を話してくれる。

そうしたら最近、こんな普通の暮らしを
「親戚と仲良くて楽しそう」
「家庭も仕事もあってうらやましい」
と友人に言われ、とても驚いた。

私は足に障害を持って生まれ、すぐ父は他界。
足に大きな装具を着けていたから、
幼稚園も小学校も入るには時別の許可が必要だった。

学校時代には大手術ばかり。
術後は母の自転車の荷台に乗って通学し、
授業の後は誰もいない教室で母を待った。

成長し世間の厳しさを知った。
同時に応援にも気付いた。

障害があるのに運動会でペアを組んでくれた級友。
車イスで連れだしてくれた友。

多くの人に支えられて今の生活がある。
みんなに恩返ししなくては。

友人の言葉でそんな気持ちになった。

(読売新聞 平成20年11月21日付)

こんな投書です。

小さい頃から不自由な暮らしをし、やがて家庭をもち、
友人の言葉から、多く人に支えられていたことに気づき、
そして恩を返したいと言っています。

こんな投書を読み、私たちも、
与えられ生かされてきた自分に気づかせていただき幸せを感じるのです。
たくさんの幸せに囲まれている、私たちなのです。

(つづく)