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法話

死を受け取るということ 1 心の命

この「死を受け取るということ」のお話は、
平成22年に介護師さんや看護師さんたちが行っている
「ターミナルケア心の研修会」に呼ばれ、そこでお話ししたものです。

やがて死に逝く人たちに、どんな心構えを持って介護していけばよいのかを、
共に考えながらのお話でした。

少し手を加えながら、文章にしていきたいと思います。

枯れるように死ぬ

これから介護をする人は、
病院ではなく、介護施設などで、お年寄りが亡くなっていくところを看取る、
そんな場面が多くなっていくと思います。

そこで介護師さんや看護師さんが、死をどのように受け取っているかで、
その場をどう対処するのがよいかが大きく変わってくると思うのです。

今までみなさん(この研修で聞いている聴衆者)は介護の事について、
よく勉強してきたと思いますが、今日は死についての考え方なので、
今までの学びとは、別な観点からの学びになると思います。

たとえばここに『枯れるように死にたい』(新潮社)という本を持ってきました。
この本のタイトルには、どのような意味があるか、お分かりでしょうか。

人は普通、老いて病気になると、もうそんなに生きられないと分かっているのに、
胃ろうといって人工栄養を胃に直接入れたり、点滴で栄養を補って、
延命をするのが一般的です。

そうではなくて、死を受け取る人の最期の姿は、
食べられなくなるのが自然なことで、食べ物も少ししか食べられず、
やせていって亡くなっていく。
それが人としての自然な最期であるという考え方です。

この本のタイトルのように、枯れるように死んでいくのです。
これから、食べられなくなるのが自然であって、そんな人を、食を減らしながら介護し、
最期を看取ってくという介護が見直されてくると思うのです。

死が遠ざけられている

この本を書かれたのは、田中奈保美という女性の方です。
旦那さんはお医者さんで、その旦那さんが65才になって病院を辞め、
介護施設で働くようになり、その現状を見た所を、田中さんが本にしたのです。

この本のなかで、次のような文章がでてきます。
少し長くなりますが引用してみます。

皮肉にも病院で寝たきりで何年も過ごすお年寄りの姿が
あたりまえになりすぎていた。

ガンや心筋梗塞、脳卒中でポックリいかないかぎりは、
自分たちの最期は寝たきりで過ごすことになると、
漠然と考えていたかもしれない。

いずれにしても、人の死がこれほど日常から遠ざけられ、
死の実態があいまいなものになっているということにほかならない。

死の断片的なイメージばかりが先行して、
死そのものについて確かな知識も実感もないまま
日本人は現代を生きているということなのだろう。

人の死といえば、病院のベットに横たわる患者、そばに点滴がセットされ、
チューブにつながれている姿を思い浮かべはするものの、
人が老衰で亡くなっていく過程を具体的には知らない。

また認知症のお年寄りが意識もうろう状態で何年も寝たきりで過ごしているのは、
胃ろうを造設されて生かされているのだということを知らない人は
まだまだ多いということだ。

私の叔母も胃ろうをし、意識不明で何年も生き、やがて亡くなっていきましたが、
そういうのが死だと思っていると言っているのです。

死について確かな知識もないのに、
病院のベットに横たわり、管(かん)を入れられ、やがて亡くなっていく。
これが人の死なんだと、漠然と思っている。
そう田中さんは言っています。

死のイメージが、非常に曖昧になっていると思われます。

施設での死の介護について

最近はご葬儀の関係の本などたくさん出ていますし、
終末期医療に関する本もたくさん出ています。

最近の雑誌で『東洋経済』(平成22年9月11日)では「終末期医療」について、
『プレジデント』は「病院介護」、
『ダイヤモンド』(平成22年10月23日)は「介護と老人ホーム」、
それから『セオリー』(平成22年9月25日)は「幸福な死に方」という題で、
さまざまな論が語られています。

『東洋経済』の中に、「高齢者の死に場所」というのが出てきます。
グラフが掲載されていて、日本では80%以上が病院で亡くなり、家で亡くなる人は20%弱です。

それが今ではあたりまえのようになっているのですが、
一方、施設で亡くなる人は数パーセントしかいません。

オランダの場合を見てみると、30%が病院で亡くなり、30%が施設です。
家で亡くなって逝く人は、30%くらいあります。
スエーデンでは病院が40%、施設が30%あります。

外国では結構、施設などで亡くなっている人が多いのです。

最近は、日本においても、
自然に亡くなっていったほうがよいという人が多くなってきていますので、
家で逝けない人は、病院で管を入れられ死んでいくよりは、
家あるいは施設などで自然に亡くなっていく人が増えていくのではないかと、
私は感じています。

そんな中で、介護する人が、亡くなっていく方がたの死の恐れや不安など、
精神面でのケアをどのようにしていくかが問題になってきます。

そのために、「死がどのようなものかを知っている」ということ、
それが知識でもよいので、死とは何かを理解できているということが大切だと
思うのです。

今話している私より、みなさんの方が介護については専門なので、
その方面については先生といっていいでしょう。

週刊誌の『ダイヤモンド』の中に、介護について覆面座談会が載っていました。

そこでは、
「行政において介護は、技術より人間性であるといって介護を勧めるけれども、
その人間性に問題のある人材ばかりが現実だ。
だから、最大のストレスは、老人のお世話や賃金が低いということではなくて、
無能のスタッフとの摩擦が嫌であるということだ」
と、ある覆面介護師の方が述べています。

介護は技術より人間性と言っていますが、技術も人間性もどちらも大切ですね。
この技術においては、私は熟知しているわけではありませんが、
人間性の部分についてはある程度、みなさんのお役に立てる話ができると思います。

知ることの意味

死を知るということですが、これはすべてにおいてとても大切なことです。

たとえば出口の分からない、壁ばかりがある迷路があります。
そこに入ってしまうと、出口が分からないので、どこに出口があるのかと探しまわりますが、
何度も同じ所にでてしまい、困惑することがあります。

知っているというのは、少し高い所から迷路を見るのに似ています。
そうすると高い所から見ているので、どこに入り口があり出口があるのか、
すぐ分かります。

それが知るということなのです。

私はこのお話の会場に初めてきました。
お寺にある大きな地図を見て調べたのですが、
どうもここは最近できたようで、地図に載っていません。
案内をくださったお手紙に会場の住所が載っていたので番地を探し、
だいたいこの辺だという目安で、ここに参りました。

でも、何かしら不安もあったわけです。
何度も来ている人は、なんの迷いもなく来ることができます。
初めての人は不安で、ここが目的地かしらと思いながらやってきます。

知るというのは、その不安が消えるということなのです。
死についても、死んだらどうなるかを知っていれば、怖くなくなるし、
不安な思いも消えてしまうのです。

死後の世界のこと

今回の演題の「死を受け取るということ」というのは、
私が書いた本の『人生は好転する』の中の「はじめに」というところに出てくる言葉です。
そこには「死を受け取ることは、大変なことだ」と書いてあります。

これを言ったのは、すでに亡くなったあるお坊さんなのです。
このお坊さんが知り合いのお坊さんの夢枕に立って、言った言葉だそうです。

亡くなって7日ほど経った、明け方の5時ごろだったそうです。
夢枕に立たれたほうの方は、脂汗(あぶらあせ)がでて、恐怖感もあったと言っていました。

この亡くなったお坊さんとは生前、私はこんな会話をしたことがあります。

「私は死後の世界のことについて、みなさんにお話ししますが、和尚さんはどうですか」
「私は死後の世界は知らないから、話はしません」
というのです。そこで、
「私たちは坊さんで、
坊さんはお釈迦様に帰依し、お釈迦様を信頼して坊さんになったので、
お釈迦様が死のことを語っていれば、
それを素直に伝える義務があるのではないでしょうか」
と問うと、
「そうはいうけれど、知らないものは知らないんだ」
と、私のいうことを聞いてくれませんでした。

その人が亡くなって、死んで分かったのでしょうか。
「死を受け取ることは、大変なことだ」と友人の夢枕に立ったのです。

なぜ、こんな言葉が出て来たかです。
私の推測では、死んで初めて死後の世界のあることを目の当たりに見て、
思ったのです。

「生きているときに、もっと死後の世界のことをよく学んでおけばよかった。
そうすれば、生きているときに、どう生きればよかったのかを
もっと真剣に考えられたのに…。
しかし、もう遅く後悔しても後悔しきれない」

そんな反省をされたのかもしれません。

ですから死ぬ前に、死後の世界を知り、
では今どう生きていけばよいのかをちゃんと知って生きていることが、
どれほど大事なことであるかを、知っていただきたいわけです。

死のイメージを変える

まず死のイメージを変えることが大切です。

死のイメージとして、怖いもの、避けたいも、悲しく辛いものが挙げられます。
そう思っていると、実際に死んで逝く人を見ると、
家族の人やあるいは介護する人たちは、大変な思いになります。

でも、この死のイメージは本当のことでしょうか。

実際に親しい人との別れは辛く悲しいものですが、
もしかしたならば、死は楽しいものであり、嬉しいものであるかもしれません。

またあの世に行ったら、親しかった人と再会できる、そんな楽しみもあるかもしれません。
そう思うと、死も少しは不安がなくなるのではないでしょうか。

いつも死について語る時、引用するのがお釈迦様とソクラテスの言葉です。

お釈迦様は、善いことをしておけば、命終わるのは楽しいといいましたし、
ソクラテスは、死は人間にとって、いっさいの善いもののうちの、最大のものかもしれないと語っています。

これは善いことをしておけば、という条件がでていますので、
この世を大切に善を積みながら生きた人は、死ぬというのは、
善いことであり、楽しいことであるわけです。

『死を看取る医学』(NHK出版)という本の中で、
神父であるブラウンという方が、半年後に亡くなることを知って、
その心境をこう語っています。

近々自分に死が訪れることがわかったとき、
まわりの景色が急に特別の輝きをもって
私に迫ってくるような感じがするようになりました。

散歩のとき見つけた道端の名もない草花がとても美しく、
私には何かを語りかけているような気がして、いとおしくなります。

夜空の星も輝きも増し、そのずっと向こうにある天国のことを私に思わせます。

不思議に死は全く怖くありません。
むしろ天国はどんなところか早くいってみたいと思います。

こう書いています。

死が訪れることを知って恐れていません。不安にも思っていません。
心が非常に澄んでいて、穏やかなことが分かります。

心が澄んでいると、花の気持ちや木々の気持ちが分かるのです。
そして、そんな花たちと語りあうことができます。

花を育てている人は、花の気持ちがよく分かるといいますが、
私たちも心が澄んでいて清らかなときには、花の気持ちが分かったり、
風の音の中に尊いものを感じたりするものなのです。

そんなきれいな心の状態で死を受け取り亡くなっていった場合、
ブラウンさんのような心境に近付くことができると思います。

死は恐れでなく、楽しいものである。
みんな死について感違いをしているのではないか。

そんな見方もしていいのではないかと思うのですね。

これは自殺の勧めではなく、
善く生きたという条件がここにはあるのは、言うまでもありません。

亡くなる3ヶ月前や1週間前、あるいは三3日前になると、
亡くなる人は虫の知らせとかいいますが、自分が亡くなるのが分かって、
お迎えが来たことが分かる人もおられます。

あるいは、亡くなることが分かっていると、
深い眠りに落ちて、身体から魂が抜け出て、あちらの世界のことを見てきたりして、
自分の身体から、魂が脱け出す練習もします。

あるいは、身体の目でなく、魂の目が開けて、
私たちには見えない世界も見えるようになります。

(つづく)