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法話

心の癖を見抜く 1 人間の心の癖

今月から「心の癖を見抜く」というテーマでお話をしたいと思います。
このお話は平成18年の6月、護国寺の女性部の法話会でお話ししたものです。
少し手を入れながら、文章にしてみたいと思います。

変わらない心の在り方

今回のテーマの「心の癖」とは、心の傾向性といってもよく、
いつも同じような考えになってしまうことです。
それがもとで幸せになれないことが、たびたび起こってくるのです。

この心の癖という考えは、次のような疑問から起こってきました。

お釈迦様の教えは、今から2600年ほど前の教えで、
その教えが、日本の地でいまだに守れていないような気がするのです。

当時、お釈迦さまが教えを説かれたインドでは、
今のように車も飛行機もありませんでした。

テレビも携帯電話もないし、
この地球や宇宙に関する知識も、きっと未熟であったと思います。

それから2600年経って、科学も進み、さまざまな技術も発展し、
その結果、世界もずいぶん小さくなりました。

でも、その発展に比例して、
心の在り方は、どうもあまり進んでいないように思えるのです。
見えない世界のことについては、後退しているようにも感じます。

どうしてだろうと、ずっと考えていたのです。

心の考え方においては、よく煩悩が引き合いに出されますが、
その煩悩に合わせて、人間の本性というか、
今回のテーマでいうと「心の癖」のようなものがあるのではないかと思えるのです。

人が生きていくためにマイナスと思える考えがあって、
人格が向上していきにくいのではないかと推測するわけです。

そこで、この各人が持つ心の癖、あるいは考え方の傾向性を挙げ、
それをどう解決していったらよいのかを、少し考えてみたいと思います。

宿命から学ぶ心の癖

お釈迦さまの十大弟子の一人に目連(もくれん)がいました。

目連のお母さんは欲深かったので、
亡くなると餓鬼地獄に堕ちてしまいました。

そこでお釈迦様に相談すると供養の必要を説かれ、
母を供養し、その功徳で母が、天に昇っていったというお話が、
お盆の起源になっている人です。

目連はインドではモッガラーナという名です。

この目連にこんな話があります。
前世からの心の癖を、教えによって越えていくというお話です。

お釈迦さまは蓮の花が好きでした。

蓮の花が泥の水から咲くように、
泥のような苦しみ多いこの世で、自分という花を咲かせなさい。
そのために心を常に安らかに保ち、さまざまな事に惑わされてはいけませんと、
いつも目連に説いていました。

目連は、その教えを充分理解し、心を平安に保っていました。

ある日、目連が坐禅瞑想をするために林の中に入っていくと、
一人の老人が牛を連れて歩いていました。

林の中は少し暗く、老人は目連が牛を盗みに来たと思い、
老人は目連を棒で思い切り打ちました。
打たれた目連は、あまりの痛さに気を失ってしまったのです。

その様子をお釈迦さまが神通力で遠くから見ておられ、
気絶した目連に、癒しの光を与えました。
すると目連の痛みがとれて、目覚めたという出来事があったのです。

この原因をお釈迦さまは目連に語りました。

あの老人はあなたが前世で父親だった人です。
あなたはその父と喧嘩をしたことがあって、
そのとき心の中で思ったことがあったはずです。

目連も神通力があって、前世を見る力がありました。
そこで答えて言うのに、

「恥ずかしいことですが、そのとき心の中で、
この親父(おやじ)を鞭で思い切り打ったなら、
さぞかし気持ちがいいだろうと思ったのです」

そう答えました。

心の思ったその報いが、今災いとなって、あなたの身に降りかかったのです。
だから年寄りを大事にすることを忘れてなりません。

それには、いつも気持ちを落ち着け、和やかな心でいることが大切です。

こんな教えを目連に説かれたことがありました。

このお話から受け取ることのできる真理は、
私たちには、前世からの理解できない深い理由がおそらくあって、
さまざまな出来事が出てくるということ。

そのとき教えによって、自分の心の癖を修正し、
幸せの道に進んでいくことができるのだと、知るのです。

普段の考え方を見る

もう少し分かりやすい、現実的な所を見ていきます。

お釈迦さまは「賤(いや)しい人」として、
さまざまな心の在り方を説いています。

現代にも言えるところ挙げてみましょう。

この世で生き物を害し、生き物に対するあわれみのない人、
かれを賤しい人であると知れ。

己は財(ざい)豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人、
かれを賤しい人であると知れ。

悪事を行っておきながら、
「誰もわたしのことを知らないように」と望み、隠し事をする人、
かれを賤しい人であると知れ。

(『ブッダのことば』中村元訳 岩波文庫)

この「賤しい人」については、まだたくさんの教えがでてきますが、
ここに挙げた3つのことさえ、
今の時代でも、まだ守られていなことが多いように感じられます。

生き物を害し、生き物に対してあわれみのない人は賤しい人であると、言っています。

多くの人は生き物を大切にしていると思いますが、
今ではおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなっても泣かないのに、
犬や猫、あるいはウサギなど大事にしていたペットが死ぬと、
泣きながらお別れする人もいます。

家族の和が失なわれてきたのでしょうか。

あるいは食事の時に、手を合わせ、感謝の思いを捧げていただくことは、
生き物の命を大事にしていることです。

そのような人は尊い人ですが、
感謝の思いを忘れて食事を頂く人は、おそらく賤しい人に入るでしょう。

衰えた父母を養わないこともよく耳にすることです。
養わないのに、亡くなって財産分けの時になると、目の色を変える人は、
賤しい人です。

嘘を言って自分の悪事を隠す人も賤しい人です。

2600年前の教えですが、今でも守れない人がたくさんいるのです。

中には知らずに悪を積んでしまっている人や、
心を律することができないで、悪い方向へと行ってしまう人もいます。

これも、考えてみれば今回のテーマの、心の癖によるものであると思われます。

心の癖を見抜く 2 あたりまえという心の癖

当然と思ってしまう4つのこと

具体的に見ていきましょう。

まず、「あたりまえと思ってしまう」心の癖があるかもしれません。
そんな心の性質を持っているといっていいかもしれません。

あたりまえとは、「そうあるべきことが当然」と思うことです。
多くの人はこのあたりまえの心に翻弄され、幸せを見つけられないでいます。

いくつか挙げてみましょう。

1 、健康をあたりまえと思う。
2、死なないことがあたりまえと思う。
3、豊かであることを、あたりまえと思ってしまう。
4、家族がいることがあたりまえ。
家族にいろんなことをしてもらうのがあたりまえと思う。

まだたくさんあると思いますが、みな心の癖として持っていると思います。

 

健康について

1番目の健康に対してあたりまえと思うということですが、
健康な時には、みんなが陥る考え方だと思います。

この考えが心の癖として染められていると、
「健康があたりまではないこと」に、気がつきにくいのです。

朝の掃除をしていて、木々の切れ端に手があたり、
棘が刺さってしまうことが時々あります。

手の奥まで刺さってしまい、なかなか取れないこともあります。
一生懸命に棘抜きで取るのですが、その時はまだ痛く、箒(ほうき)が持てません。
ですから、外掃除ができないわけです。

そのとき思うのです。健康は素晴らしいと。

手に棘が刺さっただけで、箒が持てない。
普段このようなことを考えたこともありませんが、
健康で、箒を持てるのもあたりまえではないのです。

ロンドンで開催されたオリンピックも終わりましたが、
みな健康で生き生きと身体を動かしています。

以前、病気をして入院したときに、
すばやく動けることの有り難さをしみじみ思ったことがあります。

オリンピックの選手を見ていて、
身体が活動的に動かせるのは、あたりまではないのです。

でも、多くの人は、健康の時にその素晴らしさを、しっかり受け止められなくて、
病気になって、健康のありがたさを思うものです。

ですから時々、教えを聞いて、健康の有り難さを学んだり、
身体に感謝の思いを捧げることが大事であるわけです。

一日が終わって、
「我が身体よ、今日も私を支えてくれてありがとう」と言ってみてください。

死はないという考え方

2番目の死なないことがあたりまえ、というのも切実なことです。

心理学者のユングという人は、死の練習に20年かかると言いました。

最初、この20年は、死について学んでいくことだと思っていましたが、
最近それに加えて、私は死ななくてはならないと心に言い聞かせるのに、
20年必要なのではないかと思うようになりました。

どうもみな、私は死なないと思っているようです。

実際に病気などで死を宣告されても、
薬で痛みを取ってもらうと、治ったと錯覚して、まだ死なないと思うのです。

周りの人は、もう幾ばくの命の時間しか残されていないことを知っているのに、
本人はまだ生きられると思ってしまうのです。

それはどうも、普段から、死を身近なものとして考えていないからだと
思うようになりました。

死を受け入れて、今どう生きなければならないかを20年続けることで、
自然に死を受け入れ、死んでいけるのだと思うのです。

私も死の練習をし始めて、20年以上たちます。
肉体的な痛みに不安はありますが、死を恐れるという思いはなく、
返って楽しみでもあります。

でも、生前の徳積みを閻魔さまに問われることには、一抹の不安はあります。

豊かさの奢り

豊かさをあたりまえと思ってしまうのは、人としての心の癖に確かにあります。
癖というのは、心ばかりでなくて身体にもあります。

首をかしげる癖や、方言などの言葉の癖、歩き方や食べ方の癖などたくさんあります。
みんな何度も繰り返して癖になっていきます。

豊かさをあたりまえと思ってしまう癖も、
豊かな生活をし続けていると、その癖が心に染み込んで、
豊かさがあたりまえになってしまうのです。

「豊かさはあたりまえではないのですよ」と教えてくれたのが、
昨年3月11日に起こった東日本大震災でした。

ティッシュペーパーがあることが、こんなにありがたいことであるとか、
水があることが、どんなにありがたいこととか、さまざまなことを、
震災を体験された方々から、教えていただきました。

豊かさの中にあると、その豊かさに埋没し、
あたりまえという心の癖が染みついてしまうのです。

日常にあるさまざまな物は、そこにあたりまえにあるのではないと、
悟らなくてはなりません。

家族のありがたさ

家族もそうでした。
一瞬に家族を失った方も多数いらっしゃいました。

そんな人たちがいうのは、
「以前の家族の団らんを返して欲しい。
できるならば、家族と一緒に過ごした日々を返して欲しい」ということでした。

普段先祖のお参りもしない人は、
家族を失って、その遺体が見つからなくて今も探し、
先祖のご供養もできないと嘆いている人を見てどう思うでしょう。

どうしても遺体を探して、お参りしたいという切なる思いは、
遠くから見ていても尊いものです。

かつてお世話になった先祖様の供養ができるのも、
どうもあたりまえではないようです。

家族が亡くなって、通夜を営み、葬儀をし、埋骨できる。
これも、あたりまえではないのです。

先月の8月15日、終戦記念日に、さまざまな戦争のドキュメントをしていました。
戦争で帰らない家族の遺体は、今もたくさんあります。

当時、ソ連の軍隊にシベリアに連れられ、
その地で亡くなった方々は、数えきれないほどです。
その遺体もいまだに帰ってきません。

今こうして家族と共に暮らしていることは、「あたりまえでなく奇跡である」と思うと、
あたりまえという心の考え方が少しずつ修正され、
知らず陥っている、マイナスの心の癖も正されていくと思われます。

(つづく)