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法話

愛語の花びら舞う季節 1 言葉の力

今月から数回にわたり
「愛語の花びら舞う季節」というテーマでお話をしたいと思います。
このお話は平成18年の5月、「法泉会」という法話の会でお話ししたものです。

「この場を大切に」という言葉

私たちは言葉を毎日使って暮らしています。

その言葉を一つのお話にして、理解してもらうのは、とても難しいことですが、
そんな思いを感じていただきながら、読み進めていただければと思います。

言葉によって会話ができ、言葉が文字になれば、文章になって、
手紙にもなり書類にもなり、小説や詩、法話、あるいは言葉を残すことで、
歴史にもなったりとさまざまです。

こう考えてみると、言葉は私たちの生活に欠かせない大切なものです。

まず言葉に関して知っておかなくてはならいのは、言葉には力があるということです。
これは一つの悟りであると、私は思っています。

ある会合に出たときのことです。

その会は私にとって、普段あまり関係しない会で、
近隣の方々が順繰りにまわしているので、
私も近隣の人に迷惑をかけてはいけないと思い、
内心進まない思いで、役員を引き受けて出ていました。

ちょうどその会合で、隣の席によく知った方が座ったので、
何気なく「大変ですね。進まない会合なのに」と言いましたら、
「私は和尚さんが言っているように、
この場を大切に過ごすことが大事だって聞いているので、そうしています」
というのです。

そういえば
「役を受けて、いやいやしているのと、
受けたからには一生懸命させていただこうと思って役をするのとでは、
雲泥の差があります。
だから、その場を大切に一生懸命させていただくと、きっと悔いも残らなし、
多くの学びもあると思います」
というお話を、どこかでしていたのです。

そんなことを思い出させていただき、ずいぶん反省させられたことがありました。

その方の言葉を聞いて、
人生の軌道修正をさせていただき、ありがたいと思ったのです。
一つの言葉で、私自身の心を正していただけたのです。

言葉というのはそのように、
人の心の中に知らず入っていって、生き方を変えていくのです。

心を支えている言葉

私は頭を剃って、37年くらいになります。
その長い年月の中で、大きくぶれないで、
この仕事がなんとかできている一つの言葉があります。

私の大学のときの恩師で、
ギリシャの歴史を研究されている安藤弘という先生がおられました。

もう亡くなられてしまいましたが、当時よく先生の研究室に行き、
ギリシャの事について、さまざまな教えをいただきました。

その中で先生が
「僕は、古代ギリシャのことについて本を出すんだよ」と言われたので、
とっさに
「私も本を書きたいんです」と言ったのです。

すると先生は
「杉田、そうか。じゃあ、お互いに必ず本を出すという約束をしよう」
と言われたのです。

それから9年ほど後に、
私がすでに護国寺の住職としての仕事をしているときですが、
先生から『古代ギリシャの市民戦士』という本が送られてきました。

思い返せば、先生とは不思議な縁があると思います。

この大学の入試問題を見ると、
世界史にギリシャの問題が多くでている傾向があったので、
高校の教科書のギリシャの部分は特に念入りに丸暗記していったのです。

推測ですが、安藤先生はギリシャの専門だったので、
おそらく入試の歴史問題にも関係していたと思います。

当時私が受けた入試の歴史問題には、
なんと高校の教科書のギリシャの部分がそのまま出ていたのです。
そこの部分は、よくできたと思います。

そんな不思議な関係のあった先生から、送ってきくださった本の表紙を開いてみると、
太めの青いインクの文字で書かれたメッセージがありました。

杉田寛仁様
愛兄と約束しあった仕事の一部として
1983・2・12 安藤弘

本を書くという約束が、
どうして坊さんとしての仕事にぶれなくなったかというと、
本を出すためには、常に学びを積み重ねていかなくてはなりません。

いったん学校や修行道場を出てしまえば、
学びを深めていかなくても、それなりに坊さんとして暮らしていけます。

約束し合った本を書くということを実行していくためには、
それにあった学びと努力をしていかなくてはならないわけです。

そんな約束があって、まず1冊目の本を1998年の10月に出しました。
先生の本をいただいてから、5年ほど後になります。
そのときにはもう、先生はこの世にいらっしゃいませんでした。

それ以来、本は共著も含めて6冊ほどになります。
本を出すという約束の言葉が、私を支えています。

さらには先生の奥様にもこの「法愛」をずっと送っていて、
あるときこんなおハガキをいただきました。その一部を載せてみます。

毎月送ってくださる「法愛」、楽しく読まさせていただいております。
なにか主人の気配を感じるのはどうしてかと思います。

ここの主人というのは、安藤先生のことです。
天の世界にお帰りになって、私をどうも見守っていてくださるようです。
有り難いことですね。

このような文章の言葉によっても、自助努力をしていく力を与えられます。
一つの言葉が、自分の人生の中に入り込んで、深い影響を与えていくことが分かります。

信仰という言葉の力

信仰心という言葉があります。
この信仰という言葉は、禅では信心(しんじん)といいます。

この言葉を真摯に受け止めて、
自分の人生の指針にしていくことがいかに大事であるかを思います。

たとえばあの世のことをお話すると、よく言うのが
「私はあの世に行ったことがないから、分からない。知らない」という言葉です。

一般の方が言うのは、まだ私の伝え方が足りないと思うのですが、
それを坊さんで言う人がいるのです。

「僕はあの世に行ったことがないから、そんなことは話さないし、知らない」と。

坊さんはこのように言ってはいけないと思うのです。

坊さんになるためには、得度式というのを受けます。
頭を剃って、仏門に入る儀式です。その儀式の中に誓いがあります。

3つの宝に帰依(きえ)する誓いです。
帰依とは、3つの宝を信じる、信頼するということです。

帰命(きみょう)ともいいますから、「命を投げ捨てでも信じます」となります。
一般にいえば、信仰するということです。

3つの宝とは、1つが仏様です。2つ目が仏の説いた教えで、
3つ目がその教えを行じている僧、仲間のことをいいます。
その3つを信じるという誓いをたて、得度をするのです。

「私は仏様を、我が命を投げ捨てて信じます」と誓います。
「私は仏の説いた教えを、我が命を投げ捨てて信じます」そう誓うわけです。

難しくいえば、
南無帰依仏(なむきえぶつ) 
南無帰依法(なむきえほう)
南無帰依僧(なむきえそう)

となります。

これは一番基本的で、また大切な誓いです。
簡単なようで、非常に難しい誓いだと思います。

お釈迦様は説きます。

悪い行いをした人々は地獄におもむき、
善いことをした人々は善いところ、天に生まれるであろう。

『感興のことば』中村元訳 岩波文庫

得度してお釈迦さまの教えを信じるならば、
このお釈迦さまの言葉も信じ、伝えなくてはなりません。

この教えは、
「あの世があり、そこは地獄と天の世界に分かれ、
死んで善を積んだ人は天に行き、悪を犯したものは地獄に行く」
という非常に明瞭な教えです。

「私はあの世に行ったことがないから、知らない」というのは、
得度式で教えを信じると誓った、その誓いを捨ててしまったことになります。

こう考えると、信じるという言葉には重みがあります。

私自身、恥ずかしいことですが、
この信仰(信心)という言葉にはいまだ、
「その深きを知らず、その広きを知らず、その高きを知らず」です。

このように、一つの言葉をかみしめ、大事にしていくと、
人生をより深くしていくことができるのです。

言葉によって力がなくなっていく

言葉には力があって、
言葉に勇気づけられたり、生きる力をいただいたりします。

禅の教えの中には一転語(いってんご)といって、
一つの短い言葉で、相手の生き方を変えてしまう、そんな言葉もあります。
そんな言葉が相手の心に入っていって、幸せにしていくわけです。

でも、そればかりでなく、反対に一つの言葉が、相手を傷つけ、
不幸な思いにしていくときもあります。
これはマイナスの意味での、言葉の力といえます。

ある旦那さんが定年を迎え、会社ではみんなが
「ご苦労さま」といって花束までくれて労(ねぎら)ってくれたという男性がいました。

その男性が自分の家に帰ってくるなり奥さんから、
「お父さん、今度は死ぬだけね」と言われたといいます。
この言葉を聞いたこの男性は、ずいぶん力を落したことでしょうね。

「文芸春秋」(2006年6月)という雑誌にも、こんな記事が載っていました。

退職した日にしこたま飲んで帰宅し、
「明日から家にいられるぞ」といったら、妻から
「いえ、どこへ出かけてもかまいませんから、
平日はいままでどおり遅く帰ってきてください。
あなたがいない間、もう何十年も自分の時間を過ごしてきたのです。
その生活を壊されたくありません」
と言われた夫がいた。

こんな言葉を言われれば、誰でも傷つきます。

この奥さんも悪いでしょうが、
このような夫婦の関係を作ってきてしまった旦那さんにも原因があります。

できれば、もっと若い頃から、
夫婦の時間を大切にする努力をしておくべきだったでしょう。

言葉のない不幸

夫婦でも親子でも喧嘩をして、口を聞かないという人もいます。

私が聞いた夫婦喧嘩の話で、
夫婦共に口をきかなかった期間が3ヶ月もあったという夫婦もいますね。

3ヶ月も夫婦が口を聞かないのです。
毎日一緒に暮らしているのに、です。
これも不幸なことです。

口をきかないことで、大きなものを失うこともあります。
大きなものとは互いの信頼や感謝の思いといえましょう。

そんなたとえ話が、仏典にでています。「3つのもち」という題です。
この仏典は『百喩経』(ひゃくゆきょう)というお経です。

「3つのもち」

ある家で夫婦がもちを食べていました。

もちは3つありました。
2人で1つずつ食べると1つ残りました。

そのもちを誰が食べるかで夫婦喧嘩になりました。
そこで先に口をきいたほうが食べるのを我慢することにしました。

2人は1つのもちの前で黙って座っていました。

するとそこに盗賊が入ってきて、
家の中のお金やお金になりそうなものを盗みだしました。

しかし夫も妻も何も言葉を発しません。

ついに妻がたまらなくなって言いました。
「あなたって人は、なんて馬鹿なんでしょう。
たった1つのもちのために、家中の品物が盗まれるというのに。
どうしていつまでも黙っているのよ」

これを聞くと、夫が手を打って言いました。
「さあ、お前が先に口をきいたな。
このもちは、おれのものだ。約束どおり、おれが食うぞ」

こんなお話です。

もちのことで夫婦が言い争いになりました。
残った1つのもちは、何を意味しているのでしょう。

それは「ほんの些細なこと、ちょっとしたこと」を象徴しているのでしょう。
夫婦喧嘩も、ちょっとしたことが原因で、それが気に入らないと喧嘩をしますね。

盗賊が入って金品を取られるというのは、先にも書きましたが、
夫婦における「互いの信頼や感謝の思い、あるいは笑顔や幸せ」といえます。

いつまでも意地を張って、言葉を発しないでいると、大切なものを失っていくのです。

さらに奥さんの方が先に口をきいてしまったので、
旦那さんが約束どおり、もちを食べると言いました。

これは何かというと、旦那さんの「小さな自己満足」になるわけです。
「プライド」といってもいいでしょうか。

互いが素直な気持ちになれないので、大きなものを失うのです。

言葉には力があります。
今月はまず、このことを知っていただきたいと思います。

(つづく)


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