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法話

ぬくもりを感じ取る力 1 「ぬくもり」を感じるとき

今月のテーマは「ぬくもりを感じ取る力」というお話を致します。
平成18年、春の女性部理事会でお話ししたものです。

ハガキからいただくぬくもり

今まで人のぬくもりを感じたことがあるでしょうか。

今回のテーマの「ぬくもり」は、人の心の内にある、
やさしさや思いやり、慈しみ、あるいは細やかな気づかいなどをいいます。

そんな人のぬくもりを感じたとき、私たちは幸せを思い、心に清々しさを思うものです。

毎年春になると本山(京都の妙心寺)から、布教師さんが来られて
お話をいただきます。

その布教師さんがお寺に来る前、封書で挨拶をしてきます。
また終わって帰られた後に、お礼のハガキをくれます。

そんな中で、ある布教師さんが手書きで、
挨拶文と、お礼のハガキをくださったことがありました。

16ほどのお寺でお話をするので、
16の挨拶文とお礼の文を書かなくてはなりません。
特にお礼のハガキの字は、粗雑でいかに速く書いたかが分かるようなものでした。

最近はパソコンなどを使った活字が多いので、
手書きの文章のほうがあたたかみを感じるのですが、
この布教師さんの字は、どうしても人のぬくもりを感じられなかったのです。
こんな字では、お礼のハガキは出さないほうがよいのではと思ったほどでした。

もう一つのハガキの想い出です。
そのハガキは今も取ってあって、大事にしています。

昨年の『法愛』の9月号に「心の生け花」というお話を致しました。
そこで私のお花の先生であった原歌子さんの話をしました。
原先生にもこの『法愛』を送っていて、ずいぶんと大事にしていてくれました。

その原先生が亡くなる2年ほど前に、
『法愛』に対してのお礼のハガキをくださったのです。

このハガキの字は、お年のせいでしょうか、
ずいぶん歪(ゆが)んでいて読みにくいものでした。
でも、そのハガキからは先生のぬくもりが伝わってくるのです。

その文章の中に、

日夜、布教のために、ご努力遊ばしておいでのご様子、
心にしみいるものがございます。

とありました。

先生のこの言葉は身に染みてありがたく思われ、
今でも『法愛』を出し続けるエネルギーになっています。
このハガキは、私の宝物になっています。

これはハガキからぬくもりを感じたお話でしたが、
ハガキばかりでなく、物にもぬくもりを感じるのです。

草鞋(わらじ)のぬくもり

この話も以前したことがあります。

私が修行に行く時に、静岡まで歩いていったことです。
歩いていくという話を聞いた小笠原春秋さんという方が、
草鞋(わらじ)を4足ほど、藁(わら)を編んで作ってくれたのです。

今ではどこの僧堂でもビニール製の草鞋を使っているようで、
それは強くてめったには切れません。

副住も修行を終えて、静岡の道場から歩いて帰ってきましたが、
ビニール製の草鞋なので、一足ですんだようです。

こんなところにも時代が変化していることを思います。

当時、私が使った藁で作った草鞋は弱くて、
歩き通しでいると2日ほどで使えなくなってしまうのです。
使えなくなってしまうと、持っていくこともできず、捨てなくてはなりません。

捨てるときに、作ってくださった小笠原さんの思いが尊くて、
その草鞋を捨てられないのです。
作ってくださった方のぬくもりを、草鞋の中に感じるのです。

でも、どうしても捨てなくてはならないので、道の隅に大事に置いて、
草鞋さんに手を合わせ、「ありがとうございました」と言って頭を下げ、
感謝の思いを捧げて、その場を後にしたことを覚えています。

泊めていただいたお寺さんでは、
寝る前に、一日中お世話になった着物さんを大事に畳んで、
枕もとに置いて寝ました。

母が作ってくれた着物ですから、粗末にできませんね。
その着物にもぬくもりを感じたわけです。

スケートで有名な荒川静香さんも、無名の選手時代にはお金がなかったので、
いつもお母さんが作ってくれた手作りの衣装を身につけて滑っていたと聞きます。

その衣装の中に母のぬくもりを感じたのでしょう。
「いつもお母さんに、守られているようで嬉しかった」とコメントしていました。

ぬくもりを感じ取る力 2 どんなものにでも宿る「ぬくもり」

ぬくもりを感じる力

このぬくもりは、どんなものにも宿る力があるのです。不思議ですね。

どんな粗末なプレゼントでも、そこに相手を思うぬくもりをこめると、
そのプレゼントが、とても大切な宝物になるのです。

人のぬくもりばかりでなく、人の思いは物に染み込み、力を持つといえます。
そして人は思いが染み込んだ「物」を介して、互いの思いを感じ取っているのです。

これは高度な精神的力といえますし、霊的な力ともいえましょう。

手書きのハガキや手作りの衣装、あるいは一杯のお茶、
食事や床の間に飾られた一輪の花など、そんな物にぬくもりという思いが宿ります。

物ばかりでなく、優しい言葉にも笑顔の中にも、
あるいは互いが交わした握手の手の中にも、自分のぬくもりという思いを宿すと、
その思いが相手に通じていきます。

そんなぬくもりを感じ取っていく力を育てていくと、
相手を思う気持ちが自ずと培われていくような気が致します。

一杯のお茶の中に

まだ若い頃には全国のお寺さんをまわって、お話に歩いたことがあります。

あるお寺さんに行くと、山門から玄関までの石畳に水が打ってありました。
この水を打つというのは、大切なお客さまが来る時の最高のおもてなしといえます。
清浄にするわけですね。

そこにお寺さんのぬくもりの思いを感じます。
水を打った石畳にも、ぬくもりの思いが宿るのです。

玄関には赤い絨毯(じゅうたん)がひいてあって、
そこのお寺の和尚様がていねいに頭を下げて迎えてくれます。
赤い絨毯も、お客さまを迎えるおもてなしなのです。

座敷に通されると、床の間に禅僧の書いた軸が掛けてあり、
その横には花がいけられています。

座布団の上に座ると、お菓子と、
茶卓に蓋(ふた)つきのお茶椀で、お茶を出してくれます。

そんな一つひとつの行為の中に、ぬくもりを感じ取りながら、
お寺さんの接待を受けたことが、幾度となくありました。

昔、お葬式は自宅で行うことがあたりまえで、
今のように葬儀専門のセレモニーホールではありませんでした。

そんな自宅での葬儀で印象的に覚えている「一杯のお茶」の話があります。

ある檀家さんのお葬式に行ったとき、
喪主の家に上がって最初、一杯のお茶をいただいたのです。
そのときの接待役の人が若い女性でした。

他の和尚さんたちと話をしながら、お茶のくるのを待っていました。
ちょうどその時は、私の近くでその女性がお茶を入れていました。

何気なくその女性のほうを見ると、急須からお茶碗にお茶を注ぐとき、
緊張して手が震え、上手にお茶を茶碗の中に入れられないのです。
急須と茶碗がぶつかり合ってカチカチなります。

それを見ていて、「ああ、私のような坊さんにもお茶を入れるときに、こんなに緊張するのだなあ」と思い、出されたお茶をしみじみといただいたことがありました。

あのお茶を入れる一女性の姿は、忘れられない大切な想い出になりました。
そのお茶の中にも、一人の女性の思いが込められたのです。

そんなお茶のなかに、その女性の精いっぱいさを感じ取れる力が、
私たちにはあるのだと思います。

食事の中にも

食事でもたまには外食をしたり、忙しいときには、
セブンイレブンなどのコンビニでお弁当を買って食べることがあります。

一度なら美味しく食べられますし、たまになら飽きずに食べられます。
でも一週間も食べ続けたらどうでしょうか。結構きついものがあります。
飽きてしまうのです。

家ではどうでしょう。私の家内殿が作ってくださる食事は、不思議と飽きません。
もう30年以上にもなりますが、今でも美味しくいただいています。

私のお寺の女性部のみなさんにも、役員になると法話会などに、
何度か自分の作ったお料理を、お重に詰めて持ってきていただいています。

これは布施の心からきている有り難い報恩の行いなのですが、
このお重も美味しいのです。

一人ひとりの味が違っていて、
お参りに来られた方々も、美味しくいただいています。

布施は無償の思いが大切なのですが、
無償の思いで作ったお料理が、また人を喜ばせるのです。

きっと作った方のぬくもりがそのお料理の中に入っていて、
それを感じ取りながらいただくので美味しいのだと思います。

手のぬくもりの中に

このぬくもりは物ばかりでなく、
笑顔や、やさしい言葉、手のなかにも添えることができます。

「ありがとう」という言葉でも、形式的にいう言葉と、
心から思って出てくる「ありがとう」の言葉は違っていて、
それを私たちも見分けることができます。

昔「お客様は神様です」と言っていた、歌手の三波春男さんがおられました。

私が小さい頃は「少し偽善的な言葉じゃあないかなあ」と思っていましたが、
これは誤解で、三波さんの苦労を乗り越えてきたゆえに出て来た言葉だと知ると、
重みのある言葉として受けて止められるようになりました。

人の思いを受け取るにも、
自分の人格を磨いていかなくてはならないことを知らされた言葉です。

ある新聞の「ここに幸あり笑いあり」というコラムの中に、
近藤重勝さんという方が「手の力」という文を書いていました。

今日の話にそって、重要なところを少しまとめてみます。

近藤さんが病気になって、手術後、全身、管だらけの身体になり、
医師もどうしてよいか分からなという気配で近藤さんを見ています。

近藤さんは医師の許可を得て、ヒーリング系の音楽テープを枕元で聞いて、
何とか発作に耐えていました。

そうしているうちに看護師さんがそばに来て、
「大丈夫ですよ」と手をしばらく握ってくれたのです。するとどうでしょう。

手のぬくもりが伝わってくるとともに息もゆったりしてきて、
やがて発作も治まったのです。

遠藤周作さんのエッセイに、麻酔も効かず苦痛でうめいている肺がん患者が、
やはり看護師に手を握られると少しずつ静かになっていく話が書かれていました。

自分の手ではふれたこともない心ですが、人の手はふれてくるのです。
それにしてもあのときの看護師さんの手はほんとうにありがたかった。

(毎日新聞 平成17年7月14日付)

こんなような意味の文章でした。

ここで看護師さんの手のぬくもりが、病気の痛みを癒してくれました。
看護師さんも心を込めて、痛みが取れるようにと思い手を握ったのでしょう。
その看護師さんのあたたかな思いを感じ取って、奇跡的に痛みが取れたわけです。

さらに近藤さんは、「人の手は心にふれてくる」と書いています。
やさしい思いの手が、心にまでふれて、癒してくれるわけです。

思いは相手の心の中にまで染みわたって、相手を幸せにするのです。

ぬくもりを感じ取る力 3 「ぬくもり」を感じ取るために

ぬくもりを感じ取るためには、どのようにすればよいのでしょう。

まず一つ目は、
今までお話ししてきたような、ぬくもりの世界があることを知って、
そのぬくもりに気づくことです。

お茶を飲むのにも、お茶の葉を一つひとつ摘み取って商品にしてくれた人の思いや、
実際にお茶を入れてくれた人のあたたかな思いなど、そんな思いがあって、
ここに美味しい一杯のお茶があるのだと気づくことです。

二つ目に、
このぬくもりの心を自分自身大切にして生きていこうと思うことです。

心を込めるという言葉がありますが、自分の仕事にも、言葉にも、笑顔にも、
やさしい思いや善い思いを添える努力をしていくことだと思います。

地道ではありますが、そんな思いをいつも添えて、
このぬくもりの心を育てていった人が、ぬくもりを相手に与えることができ、
また相手のぬくもりを感じ取って感謝できる人になれると思うのです。

最後に最も大切な「ぬくもり」をお伝えします。

私たちはこの『法愛』で、お釈迦様の教えを学んでいます。

未熟な私ですから、
お釈迦様と同じような力のある生き方をお伝えすることはできませんが、
でも、この教えの中に、お釈迦様の思いを感じ取っていただきたいのです。

「みんなが幸せになってほしい」という、
お釈迦様のぬくもりの思いを感じ取っていただきたいのです。

お釈迦様はこの世に、私たちに
「仏と同じような心で、相手の人や、この世の世界を見る方法」
を教えるために現れたといいます。

そのぬくもりの思いを、是非感じ取ってみてください。
そのぬくもりを知ると、体中に、喜びと幸せが満ちてくるのです。