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法話

心の眼を開く 3 心の眼を養うために

先月は心に何を思い考えているかで、見える世界が違ってくるというお話でした。
やさしさを心に持っていればやさしい世界が見えてくるし、
怒りを持っていれば、そんな世界が見えてくるのです。

年令を重ねる

心の眼を養う1つの方法に、年令を重ねていくというのがあります。

小学生の見方と大人の見方はずいぶん違います。
年齢を重ねることで、さまざまな体験をし
、見方を肥やしていくことができるようになるわけです。

たとえば「夢を見つけて努力を続けるという姿勢」があると、
人生の中で辛さや苦しさに出会っても、それを乗り越えていける生き方ができます。

そんな人生で多くの体験を重ね、年を経ていくと、
それが心の眼を養い、多くの大切なものが見えてくるわけです。

映画の字幕翻訳者に戸田奈津子さんがおられます。
年齢は秘密にしておきますが、ときどき映画を見ると、
翻訳をした戸田奈津子の名前が出て来て、この人はどんな人なのだろうと、
ずいぶん関心を持っていたのです。

ある新聞に「壁の外で20年待った」という題で、
戸田奈津子さんの簡単な紹介がありました。

戸田さんが翻訳した有名な映画に、
「地獄の黙示録」「E・T」「タイタニック」「ダ・ヴィンチ・コード」などがあります。

戸田さんの初の映画体験は小学校の5年生だそうで、
満員のバラックみたいな映画館で肩車されて見たスクリーンの中は、
夢の世界であったといいます。

映画が大好きで、大学の時にも学校にいるより、
映画館にいた時間のほうが多かったようです。

就職を考えた時に、字幕を仕事としている人がいることに気づき、
「あの短い言葉で感動を与えられる。これしかない」と思ったのです。

翻訳の仕事は当時日本に10人しかいなくて、しかも男性ばかり。
高い壁に囲まれた字幕翻訳の世界であったようです。

そして翻訳をいただくまで、20年間、壁の外で待ったわけです。
この間、一度もあきらめようと思ったことはなかったといいます。

そんな人生の中でこんな言葉を残しています。

好きなもの、得意なものの中から
もし「一生だめでも、それでも懸けたい」と思える夢を見つけて、
努力をし続けることが大切だと思う。

こんな精神で生きていくと、前に広がる困難もきっと乗り越えていけるでしょうし、
充実した生き方ができると思います。
実際、そう生きてきた戸田さんだから言えるのでしょう。

そこには、この肉体の目のみで見る世界だけでなく、
心の眼で、確かに自分の夢の世界を見続けてきた生き方を察することができます。

恐れながら私にも夢があって、
それは今回の生(せい)を越えて、さらに続いています。

ですから、見える世界がこの世の世界ばかりでなく、
来世の世界にまで渡って見えてきます。

夢を描き続けることの魅力を感じます。

少年のような純粋さ

年を重ねていくと体験が積まれ、
人生の見方も深くなってくるのは素晴らしいことです。

でも反面、心の汚れも多くなっていき、
素直な見方もできなくなることもあります。
この点が要注意するところでしょう。

人には煩悩があって、特に欲望の部分で、心を汚していきます。
自分中心に物事を考え、まわりの人の幸せを考えなくなってきます。

井戸の中のカエルの話がありますが、そんな生き方の世界に入り込んでいくと、
井戸の中という狭い世界しか見えなくなって、不満を常に抱いてしまうのです。

そんな自分にならないように、常に少年のような純粋な心を忘れないことです。

ある本に小学校4年生の女の子が書いた詩が載っていました。
紹介しましょう。

「わたしの友だち」

りなさんはやさしい
みきさんはあきらめない
もえかさんは心づよい
かがみさんはよく話しかけてくれる
くみこさんはいつもにこにこしている

みんなわたしの友だち

『にんげんぴかぴか』

こんな詩です。

ここには5人の友達のことが書いてありますが、みんな友達の良い面を見ています。
心が純粋なので、そんな世界が見えるのです。

こんな柔らかで清らかな心を大人になっても持ち続けることが大切なわけです。

子どものころは遠足があれば、
その前の日、待ちどおしくて眠れなかった想い出がありますが、
そんな純粋さをずっと大切にしていくことだと思います。

たとえばこの詩を、心がくもった人が書くとどうでしょう。
こんな詩になるかもしれません。

「わたしはひとり」

りなさんはきつい
みきさんはふまんをいう
もえかさんはたよりない
かがみさんはわたしを無視する
くみこさんはいつも怒ってる

みんなきらい

このような眼で友達や家族を見ていると、
私は一人ぼっちになってしまいますね。

これは心が汚れている見方なのです。
そうならないように、心の汚れを除きながら体験を積んで年を重ねていくことです。

仕事で養う眼

年を重ねることで、心の眼を養うお話をしましたが、
日々関わっている仕事によっても、世界の見方はずいぶん変わってきます。

私自身は僧侶ですので、
心の汚れを取り去り、常に心がきれいな状態で、
お話を伝えているというのが理想です。

でも、なかなかそんなわけにはいきません。

4世紀ごろに鳩摩羅十(くまらじゅう)という仏教学者がいました。
亀茲国(きじこく)という所の生まれです。

800人の弟子を持ち、380巻ほどの経典を翻訳した人だといわれています。
有名な経典の中に『法華経』があります。

この人は女の人を受け入れて子が4人ほどいたといいます。
日々の雑事で悩みもあったのでしょうか、こんな文を残しています。

我が身は泥の如し 我が出す言葉は蓮華の如し

訳してみると
「私自身は泥のように卑しい。
しかし、私の説法の言葉は、蓮華のように清らかである」
となります。

この言葉に、私自身救われる思いがします。

私は普段からお話をしたり、『法愛』を毎月出しては、
人としての生き方を説いています。

そんなお話をする私自身、
「あなたはいつもそのような生き方をしているのか」と問われれば、
胸をはって「そうです」とは答えられません。

この『法愛』を読んでいる人も、
いつも『法愛』の説くような生き方ができるという人は
少ないのではないかと思います。

みなお釈迦さまではありませんので、日々の生活という泥にまみれながら、
教えをたよりとして、そうありたいと願いながら生きていると思うのです。

私も私自身の説く教えに心を清められては、日々の生活という泥にもまれ、
また邪心を取り除く教えに清められ、右往左往しながら生きているのです。

でも、お寺に住んで仕事をするという立場をいただいているので、
こんな見方ができるのではないかと思っています。

これも仕事から得られる心の眼の養い方であるのです。

教えによって心を養う

仏教では布施の精神を大切にします。

これは教えによって、心を養う方法です。
その教えの中で布施は、心の眼を養うための大きな力になります。
この布施は心の思いや考えで、ずいぶん変わってきます。

布施には大きく分けて法施(ほうせ)と財施(ざいせ)があります。
法施は教えを施し、財施はお金や物を施しします。

この法施には3つの段階があります。

1番尊い法施、これを仏教でいうと上品(じょうぼん)の法施といいます。
これは「利得を望むことなく、多くの人の幸せと利益を思いお話をする場合」です。

2番目が中品(ちゅうぼん)の法施で、
「他の人にまさろうという名誉欲から教えを説く場合」です。

3番目が下品(げぼん)の法施で、「自分の利得が目当てで説法する場合」です。

同じお話でも、心の中にどの思いを持ってお話しているかで、
上品、中品、下品が決まってくるわけです。

これは心で見る世界のことです。
上品なお話をするために、
いかに普段から心を戒めていなくてはならないかを思います。

2番3番の思いは、常に出てきます。
特に3番の、お金をもらうためにお話をするというのは、仕事あれば当然です。

以前、仏教会で有名人を講師にお願いしたとき、百万円近いお礼をしました。
この場合、仕事のためにお話をするので、法施ではありませんが、
そんな話を聞くと、そのお金の多さに、下品の心が顔を出し、
坊さんの心は波立ちます。

これを財施に当てはめてみましょう。

上品(じょうぼん)な財施は、
相手の幸せを願い、喜んで布施することです。

中品(ちゅうぼん)の財施は
自分が目立とうとしたり、名誉を得るために布施します。

3番目の下品(げぼん)な財施は、
布施することで利益を得ようと思ったり、
不平を言いながらいやいや布施します。

さらにもっと下品なのは、まったく布施心のない人です。

東日本大震災ときには、みんな役立ちたい、何か手助けをしたいと思い、
自分のできることや、あるいは自分の気持ちをお金に変えて布施しました。

その布施はきっと上品の行いで、相手の幸せを願うものであったでしょう。
この上品の心とは、前章でお話しした純粋な心ともいえます。

この思いは、どんな生き方にも反映されていき、
互いが幸せになっていける方法でもあります。

それを布施心で養い、心を育てていくのです。

信心を養う

見えない世界のことや、神仏のことを信じる、あるいは大切に思うことで、
心の眼がさらに深くなり、美しい世界が見えてきます。

禅では心の内に仏心(ぶっしん)があると教えています。

その仏心の眼で世を見た時、苦しみの多い世界が、
慈悲あふれる美しい世界に見えてくるのです。

神仏の世界を見、神仏のみ心を知り、それを言葉に現わして伝える。
これが世に出た偉大なる預言者でした。

未来を予言するのでなく、神仏の言葉を預(あず)かった人びとです。
そんな人びとの言葉を信じ、いただいて、その言葉の中に神仏のみ心を知り、
その心の眼でこの世界を見ていくのです。

そうすると、苦難の中にも意味があり、守られている私を知るのです。

信仰の無い人が苦難に遭えば、
「なぜ私ばかり」「あの人が悪いからだ」「この人がいけないからだ」と、
自分の運命を恨むことになります。

恨みは心の窓を歪(ゆが)め、くもらせます。
ですから、真実の世界は決して見えてきません。

昔の人はこう言っています。
『沙石集』(しゃせきしゅう)という書物にでてくる言葉です。

無住(むじゅう)というお坊さんが書いたもので、
鎌倉時代に活躍した臨済宗のお坊さんです。

仏や神に仕えて、危難(きなん)にも災難にも見舞われたときに、
神や仏を恨んではならない。

「どういう方便だろうか、また自らの業力(ごうりき)によるものだろうか、
仏の力も業力には勝てないから、仏の方便もどうにもできないのだろか。
自分が真の信心を持たず、修行が足りないのだろう」

と考え、我が身を戒め、我が心を励まさねばならない。
訳(わけ)もなく他人を嫉(そね)み、仏法を疑い、仏を恨んではならない。

こう説いています。

「苦難にあったときには、何か意味があるのだろうか、
私に何を神仏は気づかせようとしているのか、そう思いなさい。
前世からの心の傾向性が苦難を呼び寄せているかもしれないから、
間違った頑(かたく)なな心を柔らかにして、信心を深め、
神仏を恨むことなく、仏の教えによって心を正し、苦難を乗り越えていきなさい。
決して神仏を恨んではなりません」
こんな意味になるしょう。

こんな教えをいただいて、心を養っていくと、
心の眼も豊かなものが見えるようになります。

苦難にも意味を見出し、幸せであれば、
神仏への謙虚で感謝の思いを深めていくことができます。

神仏の世界は慈悲の世界ですから、
その世界はきっと宝石がきらきら輝くような美しい世界でありましょう。

それは、私たちの内にある仏の心と、
見えない世界に確かにある仏の世界が感応しあって、そう見えるのです。