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法話

心の眼を開く 2 心の眼で見る

先月は物事を見るのには、さまざまな見方があって、
その見方によって幸せになったり不幸になったりするというお話を致しました。

肉眼では見えない世界

先月、小学校2年生のときに交通事故で両足を失った青年のお話をしました。

その青年は高校2年のときに、
イタリアで行われた冬季パラリンピックでチェアスキーに出て、
「足のないのが僕の武器」と言いました。

足がちゃんと備わっている私にしてみれば、
そのような見方はなかなかできないものです。

この青年が見ているものは、
肉眼の目(肉体の目はこの目を使います)だけで見ていないことが分かります。
肉体についている目だけでなく、心の眼で物事を見ているのです。

心にも眼があるというのは、分かりにくい表現ですが、
心の眼の使い方によって、さまざまな見方ができるようになるのです。

青年はきっと、足を失った当時は、生きていく力を失い苦しみ抜いたことでしょう。
でも、スキーというスポーツに出会い、スポーツによって心を鍛えていくことで、
「足のないのが僕の武器」という見方ができるようになりました。
これは心の眼で世界を見ることができるようになったからだと思うのです。

この青年の心には、積極的で生き抜く勇気があります。
そんな心の眼で、自分の置かれている現状を見たのです。
そのとき、足のないことが自分自身の武器であると見えたのです。

心の思いで見方が変わってくる

同じ物や出来事でも、心の思いや考えによって、
物事が違って見えてくることがあるのです。

この心の思いや考えが、心の眼を形造っているといえましょう。
心で何を思い、何を考えているかによって
見えてくる世界が違って見えてくるからです。

心で思っていることや考えていることが、
「見るという世界」に大きく影響しているのです。

卑近な例ですが、ここにチーズケーキがあるとします。

お腹が空いていると、このチーズケーキはどう見えるでしょう。
きっと美味しそうに見えるでしょう。

でもこのケーキをいくつも食べた後で、もう一度このチーズケーキを見ると、
おそらく違った見方をするでしょう。

美味しいというよりは、もう見たくないとか、
当分いらないとか、そんなふうに見えると思います。

お腹が空いたときと、お腹がいっぱいの時では、
食べ物を見る見方がまったく違ってきます。
これも心の思いによって、見方が違ってくる1つの例です。

この3月11日は東日本大震災があってから、ちょうど1年になります。
大震災のことに少し触れながら、心の眼について考えてみます。
(震災のことは昨年の『法愛』5月号に詳しい)

最近出た『日本に自衛隊がいてよかった』(桜林美佐著)の中に、
ある自衛官の言葉が載っていました。

「自衛隊は暴力装置だ」と言った政治家もいましたが、
普段は良く報道されていない自衛隊も、東日本大震災ではとても誠実な仕事をし、
日本の多くの人たちが、自衛隊の素晴らしさを再認識しました。

この本の中に、あるベテランの自衛官が大震災の救援活動に向かう時に、
「娘から初めて敬語でメールが来た」というところがでてきます。

そのメールには、
「日本に生まれ、自衛官の娘に生まれてよかったです。お父さんを誇りに思います」
と書いてありました。

自衛官であるお父さんは、とても嬉しかったことでしょう。
娘さんが、お父さんが困っている人びとの救済を命をかけて行うということを
知ったからです。

心の眼でお父さんの人のために働く姿を見た時、
このメールのような見方ができたわけです。

幸せを見る思い

心の思いはさまざまで、その思いによって見え方も違ってきます。

怖ろしいと思っていれば、柳の木も幽霊に見えますし、
疑い深い人は、相手のほほえみも、何かだましているのでは
と見えるかもしれません。

不満で一杯であれば、感謝の見方もできません。
普段、私たちは満ち足りた中で生活をしているのです。

空気があり、水があり、電気があり、服もある。
そのようなことは忘れがちになってしまっていて、
少し思うようにいかないことがあれば不満を思ってしまうのです。

そんなとき、大震災に遭って、
あたりまえの生活が突然なくなってしまい、不便を強いられると、
あたりまえであった生活が、いかに尊いかをみな知るのです。

私自身もそれに気づかされ、こんな言葉を残し、お寺の掲示板に書きました。

ごく普通の生活ができていれば、充分幸せなのです

この言葉に、賛同してくれたかたもずいぶんいらっしゃいました。
大震災にあって、まわりを見る見方が変わったのです。

不満でなく、満ち足りていることを知らされ、そんな思いでまわりを見ると、
不満に思って見ていた世界とは、違った世界が見えてきたのです。

不満ではなく感謝の思いで世間を見ると、幸せの意味が見えてきます。

ある新聞にこんな詩が載っていました。
岩手県の石巻市にお住まいの51才になる女性の方の詩です。

「たくさんの幸せ」

あの日以来
たくさんの幸せを
感じられるようになった
家族という幸せ
電灯のある幸せ
水道から水が出る幸せ
ガソリンを満タンに
入れられる幸せ
地面が揺れない幸せ

(産経新聞 平成24年2月7日)

地震によって心の思いが感謝の思いに変わり、
普段何気なく過ごしていた事ごとに、
あたりまえでない世界が見えるようになったのです。

心の思いを正すこと、この場合は感謝の眼で世間を見ることで、
まわりが幸せで、美しい世界に見えてきたのです。

ですから、思いや考え方がいかに大切であるかが分かります。

思いを正すことで、今までとはまったく違った世界が見えてきます。
その世界は、幸せで、きらきら輝いていて、とても美しい世界です。

人は相手の行為の奥に、その人の思いを見る

先ほどある自衛官の話をしましたが、
当時の日本の人びとの礼節ある行動は、外国の人びとに驚きをもって見られました。

自分の思いの変化によって、まわりの世界も違って見えてくるのですが、
人は相手の行動から、その人の心の思いも感じ取って見ているといえます。

もし日本の人びとが貪欲の心に染められていたら、
地震で混乱しているデパートがあれば、そこに入って略奪をするでしょう。
デパートに並べられている商品が、「盗んでもいい品」に見えるからです。

外国ではこのような大震災が起ってパニック状態であると、
略奪はあたりまえであると聞きます。

お店から略奪しているようすを、私もテレビで見たことがあります。
多くの人が店に乱入して、商品を奪い合うのです。

東日本大震災が起こった時、日本の様子を見て、アメリカのクリントン国務長官は
「逆境にくじけない日本の魂の強さは私たちすべてに感動を与え、輝きを放っている」
という賛辞を送ってくれました。

イギリスでは「他の国ではこれほど正しい行動は取れないだろう」と報道し、
中国メディアは「東京では数百人が広場に非難したが、
男性は女性を助け、ゴミひとつおちていなかった」と伝えています。

この見方は、日本人が震災に遭ったときの行動を見て、
行動の奥に潜む精神を見ていると思われます。

今回の地震で外国から多くの義援金が届けられました。

その中で台湾は157億円でした。
アメリカが100億円といいますから、
それに比べると、大きな額であることが分かります。

台湾の人たちは、恩を忘れなかったのです。

1999年の9月21日に、台湾中部でマグネチュード7.7の大地震がありました。
そのとき、最初に駆けつけたのが日本の救援隊でした。

台湾の人びとは日本の救援隊に対してとても感動しました。
それは昼夜を問わずハイテク機械を使い瓦礫の中から生存者を探す真摯な姿勢と、
運悪く助からなかった遺体には、その前に整列して頭を垂れ黙とうする姿でした。
2008年に起きた中国の四川大地震の時もそうでしたね。

日本の救援隊が台湾を去る時、
桃園空港の税関の職員全員が総立ちになって、深々と最敬礼し、
また空港でごったがえしになっていた出入国客全員が拍手で見送ったといいます。
その光景をロビーで見て感激で涙を流した人もいたようです。

人はお互いの行為の中に、正しい思い、慈しみの思い、
そしてやさしさや愛の思いを、心の眼という尊い眼で見るのです。

やさしさを見る

こう考えてくると、やさしさは相手のやさしさを見、
慈しみの思いは相手の慈しみの思いを見ることができるのだと分かってきます。
そしてそんな思いを持っている人が、相手を助け、役立つ人になっていけるのです。

高校生で女性の投書がありました。
この投書を読むと、やさしい思いは、
相手が困っているときに、何をすればよいかが分かるのです。

「いつか親切をお返ししたい」

ソフトテニスの関東大会予選に出るため、4月下旬の朝7時半、
JR大宮駅前でバスの乗ろうとして気がつきました。
前日の買い物でお金を使い果たし、数十円しか持ち合わせがなかったことを。

独り言を漏らしていると、
列の後ろに並んだ女性が「あら、どうしたの」と声を掛けてくれました。
母よりも年上です。

「バス代を忘れました」
「いくら足りないの?」

普段乗らない路線で分からなかった私は「300円貸してください」と頭を下げました。 「返せなくなってしまいますよ」と言い添えましたが、「いいのよ」の一言。
私はありがたく受け取りました。

殺伐としたニュースが多い世の中に親切な人がいるなあ、
というのが正直な気持ちでした。
試合に間に合い、本当に助かりました。

翌朝同じ時刻にバス乗り場に行きました。
お金を返したかったからです。

相手の女性は勤務中だったので、
再び会えるのではないかと期待したのです。
残念ながら会えませんでした。

お返しできなかった300円。
今度は私が他の方へ親切でお返ししたいと思っています。

(朝日新聞 平成17年5月1日)

私も大学時代、学校へ行くのにたまたまバスの乗ったことがありました。
降りるときに財布がないことに気がつきました。

こちらのポッケ、あちらのポッケと財布を探していると、
近くにいた男性が「どうしましたか」と訪ねてくださったのです。

私が「どうも財布を忘れてきてしまって、バス代がないのです」と言うと、
「じゃあ、私がバス代を・・・」と言ってバス代を手渡してくれたのです。

「返せないかもしれません」というと
「いいですよ」と、にっこり笑いながら言います。

電車で通っていた私はあまりバスには乗らなかったので、
バス代をくださった方とは2度と会うことがありませんでした。

もう40年近くも前になりますが、いまも覚えていて、
助けてもらったことの有り難さや、この投書の女性が
「今度は私が他の人へ親切でお返ししたいと思っています」
と言う思いが、すごく分かります。

困ったときに、バス代を信用して貸してくださる方の心の思いは
やさしさに満ちています。

そんな眼で人を見た時に、
相手の困難を自分のことのように感じ見ることができるのでしょう。

こんな心の眼を養っていくことが大切に思うのです。

幸せの世界

たとえば家族の人を、次のような思いで見てみましょう。

支えてくれている人。
いろいろなことをしてくださっている人。
自分のことを大事にしてくれる人。
心配をいつもしてくれる人。
自分を見守ってくれる人。
愛してくれている人。
尽くしてくれている人。
やさしさを与えてくれている人。

こう見てくると、いつしか不満な思いが消え、
自分自身がやさしさの世界に入っていきます。

そんな思いが心に満ちると、幸せの世界が見えてきます。
美しい世界が見えてきます。心の眼が開き始めているのです。

(つづく)