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法話

心の生け花 1 花の素朴さ

今月は「心の生け花」というお話を致します。

このお話はお寺の女性部の理事会でお話ししたもので、13年も前のものです。
埋もれていたテープの中から探し、聞いてみたら、いい話をしていると思ったので、
今回、少し書き直して文章にしてみました。

心に花を生ける

花は四季おりおりに、その輝きを放ち、咲いています。

特に春になると田んぼの土手などに、小さな白い花とか紫の花が咲きだし、
「なんてきれいなんだ」と思うことがあります。

そんな小さな花は床の間に生けることはできませんが、
でも、きらきら輝いて、幸せな気持ちにさせてくれます。

そんな小さな名も知らない花でも、
心のなかであるならば、生けられるのではないかと思うのです。
春に咲く小さな花を見ると、いつもそんな思いになります。

たとえばタンポポの花を心の玄関に生けると、
アスファルトを割って咲きだす強さを思い、負けない強い心をいただくことができます。

あるいは、ひまわりの花はどうでしょう。
ひまわりを心の居間の机の上に生けます。
いつも明るくほほえみを持って生きる、そんな心をいただけるかもしれません。

私自身、生け花は習ったことはないのですが、私見では、生け花とは

「花にはいろいろな花があって、
その花の一つひとつに大切なことが語られているので、
そんな花を摘み取って、花瓶にさし、
そこに花の思いを生かして、一つの世界を表現する」

それが生け花の一つの定義ではないかと思っています。

取り去ることできれいになる

生け花については、私が修行道場で修行をしていたときのことを思い出します。
修行道場ではただ坐禅をしているばかりでなく、さまざまな役があります。

たとえば典座(てんぞ)といって食事を作る役とか、
隠侍(いんじ)といって先生である老師(ろうし)のお世話をする役、
副随(ふずい)といって庶務の仕事や接待などの仕事をする役など、
さまざまな役があります。

たまたまその副随という役を与えられたときです。
だいたい4月ごろから半年くらい、その役について仕事をしました。

僧堂にも、お客様が来られたときに接待する部屋があり、
そこに床の間があって、花瓶がおいてあります。

その花瓶に朝、花を生けるというのが、副随の一つの仕事でした。

私は今まで花など生けたことがなかったのですが、
上の人が「お前、生けろ」というので「生け方が、全く分かりません」というと、
「原先生に聞け」というのです。

お寺の境内の中に長楽堂(ちょうがくどう)という建物があって、
そこで禅の修行をしていた原歌子という女性の先生がいました。

この原先生の出身は長野県の箕輪というところで、
私は隣の伊那市であったので、ずいぶん親しみを感じて、
素直な思いで、花の生け方を教えてもらいにいったのです。

お花やお茶、裁縫など何にでも長(た)けていて、
雲水みんなが困った時に頼っていた先生でした。

そこでさっそく原先生とのころに行って、
「床の間の花をどうやって生けたらいいんでしょう」と尋ねると、
「じゃあ、こちらにおいで」といって花畑に連れていってくれました。

先生が四季の花をそこで作っていたのです。

「今日はこの花とこの花にしよう」と言って、
その花を上手に花瓶に生けられるようにアレンジしてくれて、
私はそのまま花瓶に生けたのです。

その花は2〜3日ほど持ったのです。
しおれたり枯れてしまうと、また原先生の所にいって、
「今度はどう生ければいいでしょう」と聞きます。

「じゃあ、今日はこういうふうに生けましょう」といって、
花を生かした形にアレンジしてくれて、そのまま持っていって花瓶に生けたのです。

それを3カ月、4か月していくに従って、花の生け方が少し分かってきたのです。

先生がたまに仕事でいらっしゃらないときは、
自分で好きな花を取り、自分なりに工夫しアレンジして、
花瓶にさすことができるようになったのです。

そのうち「花を生けろ」と言った上の人が、
「お前、随分、花の生け方が上手になったなあ」と言ってくれるようにもなりました。

三日に一度、お花の先生の手ほどきを直接しかも無料でうけたので、
こんな私でも上手になったのです。

あるいはたくさんの花の中から自由に取っては、
自分の創作で花を生けられたのが良かったのかもしれません。

ある日のこと、原先生がいなくて、
自分で考えながら花を花瓶に生けた時のことです。

僧堂に着物を着た一人のお花の先生が、
私たちの先生である老師に会いに来られたのです。

部屋に上がってもらって私がお茶を用意していると、しばらく床の間を見ていて、
お花の先生が「この床の間の花、きれいに生かっているわねえ。誰が生けたの」
と聞くので、「私が生けました」というと、
「あなた上手ね」と言ってくれたのです。

そういいながら立ちあがって花瓶の前に行き
「でもね、この花のこの部分の葉を1枚取るともっと良くなるわよ」といって、
葉を1枚つまんで取ったのです。

すると今まで上手に生けられたと思っていたその生け花が、もっと良くなったのです。
良くなるというよりは、まったく違った世界がそこに現れたのです。

「葉を取り去ることで、こんなに変わったきれいな生け方ができるんだ」
ということを、そのとき学んだのです。

衝撃的な体験でした。
お花の先生というのは大(たい)したものだと、
その時、深く思った出来事でした。

ありがたいことに、この学びも無料でした。

心の生け花 2 捨て去ると美しさが光る

捨ててさらに輝く

この体験から、自分の心の中に生ける生け花に、一枚の葉を取り去ることで、
もっと私たちがきれいに輝けるのではないかと思うようになりました。

その取り去る葉とはいったい何でしょう。

たとえば私自身が一つの生け花であるとすると、「欲という葉」を一枚取り去ると、
もっときれいに私自身が輝くようになるのではないかと思うのです。

この話は何度もお話することですが、
マザー・テレサが托鉢のお米を、
あるスラム街の女性の家に持っていった時のことです。

その女性は自分のその日の食べ物も困っているのに、
そのお米を半分にして、隣の家に持っていったのです。

マザー・テレサが
「そんなにお米を分けてあげたら、
自分の家で充分に食べられなくなってしまいますよ」というと、
「隣の人たちも私たちと同じように飢えているのです」と答えたそうです。

マザー・テレサはその女性の振舞いに神を見たといっています。

もしこの女性がマザーがくれたお米を「ありがとう」といってもらってしまえば、
それで終わってしまいます。

でも、そのお米をみんな欲しいという思いの葉を1枚取り去り、
欲が取れて、相手にお米を半分、分けてあげられました。

1枚の欲の葉を取ったその姿は、
みんなお米をもらってしまう生き方の姿とは変わって、
神のように美しい姿になりました。

私が修行道場で学んだ生け花で、
1枚の葉を取っただけで、まったく別の世界が見えたのと同じ光景です。

我欲の葉を1枚取る

自分の心の中には随分、我欲や不満、怒りという葉がたくさんついているものです。
その葉を1枚取り去るだけで、人としての生き方が輝いてくるものです。
それは飾らない素朴な輝きに似ています。

最近こんな事件がありました。札幌で起こったことです。

ある道路を走っていた25才の女性が前の車を追い抜いて運転したとき、
追い抜かれた44才の男性がそれに腹を立てて、クラクションを鳴らし、
その女性の車を停止させ、土下座をさせて謝らせ、
それでも足りなくて腹などけったというのです。

その女性はちょうど妊娠していて、
あまりの仕打ちに被害届けを出し、事件が発覚したわけです。

追い越されたら「ああ急いでいるんだなあ」くらいに思っていればいいものを、
「俺を馬鹿にして!」と思ったのでしょう。怒りが爆発したのです。

白い車線であれば、
速度違反を起こさない限り、追い越しても違反にはなりません。

これは、この男性が自分のみのことを考えてしまう我欲にやられ
怒りに満ちたのです。

その我欲の葉を1枚取り去れば、
こんなことにはならなかったでしょうに・・・。

私も高校時代に、ある朝のこと、信号待ちで止まっている車の屋根を
軽く2回ほど何気なしに叩(たた)いたことがありました。

すると、その車に乗っていた男性が私の後を追ってきて、
「高校生の分際で、馬鹿にするな。
お前の名前とクラスを言え。後で先生に言いつけてやる」
と怒ってきたのです。

「なんと大人げない」と思ったのですが、名前とクラスを言って、
「どうぞ、学校に来て、先生に言ってください」と言って別れました。

その後、何も先生からお叱りを受けなかったので、
その男性は私に文句を言っただけで満足したのでしょう。

でも、なんと我欲というのか愚かな大人でしょう。
その我欲の葉、あるいは不満を思う愚かさの葉を1枚落せば、
「子どものすることだ」と気にせず、仕事に向かえたのでしょうに。

仏教でも布施をするのを喜捨(きしゃ)するといいます。喜んで捨てるのです。

自分の余分についている欲という葉を喜んで捨てると、
またそこに新しい生き方ができるようになるのです。

奢(おご)りという葉を取り去る 

次に奢りということを考えてみます。

奢りというのは辞書では、
「得意になってたかぶるとか、思い上がり」(広辞苑)と説明しています。

得意ということで思い出すのは、イソップ童話の「うさぎとかめ」のお話です。

あるときかめがうさぎに「ぼくと競争しよう」といいました。

うさぎはかめを馬鹿にして、
「きみ、本気かい。ぼくに勝てると思っているのかい」
とかめを馬鹿にしました。

かめは「実際にやってみなくちゃあ、わからないよ」というので、
うさぎは「そこまでいうんだったら受けて立とう」といってゴールまで一緒にかけ出しました。

うさぎはもうスピードで走りだし、
もう少しでゴールになる手前で後ろを振り返ると、
かめは遠くで、まだノロノロと歩いています。

そこでうさぎは「あー、馬鹿らしい」といって
その場で一休みし、寝てしまいました。

しかしうさぎが眠っている間に、
かめは一生懸命歩いて、先にゴールに着き勝ってしまったのです。

こんなお話でした。

あきらかにこれはうさぎの奢りです。
この奢りの葉を1枚取り去れば、負けることはありませんでした。

こんな同じようなことが、
私たちの日々の生活の中で起こっていると思われるのです。

お釈迦さまが言われた一つの奢りに「若さの奢り」があります。

いつまでも若いと思って油断していると、
いつの間にか年を取って取り返しがつかなくなるから、
若いうちに真理に目覚め、人の道を学んでおくべきであるというのでしょう。

年を取った人からよく、
「もっと若いうちに学んでおけばよかった」という反省の言葉を聞きますが、
それも若さの奢りからくるのでしょう。

年よりと言えば、ある独居老人が
「私は誰のお世話にもなっていない。これが私の誇りだ」
と言っているのを聞いたことがあります。

誰の迷惑にならずに、全部一人で生活の事ごとをこなし、
誰のお世話にもなっていないのは、立派だと思います。

でもここに奢りがあるような気がするのです。

「こうして一人で元気に暮らせるのも、まわりの人の支えがあってからだ」
というほうが、人として生きる姿勢は美しいと思います。

それは奢りという1枚の葉を取り去っているからです。

母の奢りもあります。

子どもを虐待したり、パチンコに夢中なって、子どもを車の中に残し、
熱中症で子供が亡くなるということもあります。

あるお母さんが5才くらいの子どもつれて道を歩いているときに、
突然大きな声を出して子供を怒鳴ったというのです。

後ろからトラックが走ってきて、
子どもが危なかったので注意したのですが、その注意の言葉が
「お前なんか、死んだってかまわないんだ。周りが迷惑するだけなんだよ」でした。

これは母の奢りの言葉だと思います。
「子どもは天からいただいたものである。育てさせていただいてありがたい」
というのが、美しい花を心に生けている母の姿です。

職業の奢りもあります。

看護師さんでいえば、
「患者さんをみてあげる。世話をしてあげる」という思いは、一つの奢りといえます。

そう思っていると、優しい言葉は出にくくなります。
「患者さんのお世話をさせていただいている」という姿の方が美しいと思います。

お坊さんでもあります。

あるお寺さんに布教師さんがこられお話をし、
その話が終わって、質問があったというのです。

その質問は
「般若心経の中に『色即是空、空即是色』がでてきますが、
どういう意味でしょうか」という質問でした。

その和尚さんは、困ってしまい、しどろもどろに
「本屋さんへいくと、心経の本がでていますので、それを読んでください」
と答え、その場がしらけてしまったといいます。

これも知らないという恥ずかしさを隠す一つの奢りです。

そういときには、
「申し訳ありません。今その答えは勉強不足で明快にはできません。
きっと調べて解答をしますので、しばらくお待ちください」
といえば、もう少しその場の状況も違ったものとなったでしょう。

美しい花を心に生ける

奢りの葉を取るというのは、自分の過ちを素直に認めることでもあり、
その奢りの葉を取り去ることで、飾らない本来の自分の花がそこに現れてくることでもあります。

それは素直さであったり、他を思う気持ちであったり、
感謝を思う自分であたりします。そんな花を心の中に生けてみませんか。

そして余分についている我欲や不満、怒りや奢りの葉を
勇気を持って1枚取り去るのです。

そうすると、さらに美しい心の生け花ができるはずです。

あなたというその心の生け花を、まわりから見ている人は、
きっと、「あなたの生き方は素晴らしいですね」といってくださることでしょう。


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