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法話

心の健康を考える 1 心と身体

寿命を全うする

今月から「心の健康を考える」というテーマで数回のお話をしたいと思います。

現在、病気で亡くなる人はガンが30%ぐらいで、10人に3人の割合になります。
次が心疾患で15%、そして脳血管疾患が10%ぐらいです。

だいたいこんな比率で亡くなっています。
老衰は2%で、100人に2人ぐらいで、みんな何らかの病気を患い亡くなっています。

明治の死亡率を調べてみると、老衰で亡くなっている人が20%もいます。
現在では病院で亡くなっている人が80%くらいといいますから、
家で、しかも老衰で亡くなっていけるというのは、稀(まれ)であるといえます。

考えてみれば病院のベッドの上で亡くなるのと、
普段住みなれた家で亡くなっていくのとでは、
ずいぶん心にも影響してくるのではないかと思われます。

以前病院でなくて家で亡くなっていった人の様子を見たことがありました。

そこで感じたことは、
病院より家で最期を過ごしたほうが、心安らかで、笑顔も見せていましたから、
できるならば家で最期を迎えるのにこしたことないと思ったのです。

とにかく人は必ず死んでいきます。
これはこの身体には寿命があるからです。

20階のビルから飛び降りれば、おそらくこの身体は使えなくなります。
鼻と口をおさえて5分もすれば、もう死んでいるでしょう。

ストレスを抱え、寝ずに仕事をし、暴飲暴食をしていれば、
病気になって、苦しむはめになります。

家庭が不和であり続ければ、寿命も縮まるでしょう。

交通事故で亡くなる人や、
今回の東日本大震災で大津波に呑まれ、亡くなった人もいます。

死んでいくのは避けられないことですが、
できれば人として生まれてきたのですから、事故に遭わず、健康で、
与えられた寿命をまっとうし、この世の学びを深め、尊い体験を積んで、
あの世へ帰っていくのが理想です。

心の存在

できるならば与えられた寿命を生き抜いて、この世の学びを深めるといいましたが、
なかには生まれてすぐ亡くなっていく子どもさんや、
20才までしか生きられないような人もいます。

あるいは健康を害し不自由な身体で生まれ生きていかなくてはならない人もいます。

そんな一方で、健康な身体をいただいたのに、
長生きしすぎてもう自分は死にたいのに、
迎えが来ないといいながら死を待っている人もいます。

また生きるのが苦しいといって、
死ねば楽になると思い、自分で命を断ってしまう人もいます。

すべてがこの身体と関係することではありますが、
私たち自身はこの身体(肉体)がすべてなのでしょうか。
死ねば身体が壊れ使えなくなり、すべてが「無」になってしまうのでしょうか。
考えること、思いやり、愛、慈しみの思いは脳のなせる技でしょうか。

もしそうだとしたら、死ねば楽になるし、
健常な身体を得ない人たちは、あまりにも悲しみ深い人生ではないでしょうか。

神様仏様は、そんな世界をお創りになったとは思えません。

私は思うのですが、
心という本来の自分があって、その心が肉体という身体に乗り込み、
自分の身体を上手に使いながら、この世で修行をしていると思えるのです。

この考えは私自身、昔から一貫している考えで変わりません。

お釈迦様は説いています。

身体は泡沫(うたかた)と見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。

『真理のことば・感興のことば』中村元訳 岩波文庫

身体は泡(あわ)のようなもの、かげろうのようなものと説いています。

この身体は実際にあって、
つねれば痛いし、食べ過ぎればお腹が痛くなるこの身体も、
かげろうのようなものと言っています。どうしてでしょうか。

これは、この世を生きるための身体も大事ですが、
その身体に重なっている心を大事にしなさいと言っているのです。

その心そのものが、自分であり、主体であるわけです。
そう考えて初めて「心の健康」を考えることができるのです。

この理(ことわり)を理解するのは難しいことかもしれませんが、これが基本です。

そして身体が使えなくなれば、この身体は灰になりますが、
心そのものは、決して亡くならずに、次の世で生きる主体となり、
さらに多くの学びを積み、人を助けたりと、新たな生活を始めるのです。

車に乗る人、身体に乗る心

さらにお釈迦様は、この身体を「王者の車」にたとえ、
この身体は王者の車のように美麗であるけれど、愚か者はその身体に迷い苦しむ、
と言っています。

車ですから、そこに乗って運転する人がいます。
その運転する人が「心」になるのです。

車という身体ばかりに思い悩むのでなく、
身体の内にある心のほうに気を配り生きていきなさいといっているわけです。

現代でもたくさんの車が走っています。

その車も新車の時にはきれいで、走りも心地よいでしょう。
それが9年、10年と乗っていると、車体が傷ついたり汚れてきたりし、
タイヤも代えなくては乗れなくなります。

また2年に一度の車検があったりして、
定期的に検査をし、エンジンの具合をチェックします。

私の車は今年で13年目になりますが、この車もやがて使えなくなります。
そうなると廃車になるわけです。

私たちの肉体という身体も、
小さい頃は栄養を吸収してどんどん大きくなっていきます。

10代、20代のころは、身体が若くて強いのでスポーツなどで活躍できます。

でもやがて年を取るにつれて、走りが遅くなり、重いものも持てなくなり、
60や70才になってくると、身体の衰えを感じて眼鏡をかけたり、
薬やサプリメントなどを飲み、食事にも気を使うようになります。

そして身体が使えなくなって死を迎えることになります。

車と身体はよく似ています。

大事なことは車に乗っている人、
あるいは身体という車に乗っている「心」なわけです。

人が車を大事に乗っていれば車自体も長く乗れますし、
交通規則を守っていれば、事故も起こさずに、充分車を活かすことができます。

逆にいいかげんな運転をしたり、
規則を守らず飲酒運転をして事故を起こすと、大変なことになります。

身体もそうです。

昔あるおばあさんが病気になって医者に生き、
お医者さんから「これは死ななくては治らんなあ」と言われ、
おばあさんは「それじゃあ、死ぬまで生かさせていただく」と言って、
93才まで長生きました。

一方、男性の方でしたが、お医者さんに「この病気はもう治らん」と言われ、
その男性はそれを聞いてふさぎ込み寝込んでしまって、
しばらくして亡くなってしまいました。

心の考え方、持ち方で、こんなに違うのですね。

車に乗る人あるいは身体に乗る心によって、
車も身体も、ずいぶん長持ちをしたり、事故をおこしたり起こさなかったりで、
さまざまな影響がそこにでてきます。

人生の意味

もう少し考えを深めていきます。

さて、車に乗る人は、何らかの目的を持って乗ります。

車を使うのは、買い物に行くとか、会社に行くとか、
子どもの送り迎えとか、旅行の場合もあるでしょう。

さまざまな目的を持って、車を使います。
その車に乗っているのは私たち自身です。私たちの考えで、その車を使うわけです。

同じように考えると、身体に乗っている心は、
何の目的でこの身体に乗っているのでしょう。

これは「何の目的でこの世に生まれてきたのか」とか
「人生の目的とは何か」という問いにつながっていきます。

以前(平成17年1月号)この「法愛」で、ある方のことを紹介したことがありました。
私の話を聞いてくださった縁で手紙をいただいたのです。

その人は女性の方ですが病気になって、
それを克服していく様子を手紙で知らせてくださいました。

その方は小脳脊髄変性症という難病にかかり、右半身が不自由になり、
自動車もバイクも自転車も乗ることができず、この世の終わりかというほど落ち込み、
涙する日々であったようです。

そうして心の中で苦しむのです。
「何で私がこんな病気に」
「神も仏も無い」
「こんな身体で人に会うのが恥ずかしい」
「再発して寝たきりになったら、どうしよう」
と心が乱れたといいます。

時がたち、成るようにしかならないと素直に病気を受け入れると、
「発見が早かったのでこれだけですんだのだ」
「神様仏様が哀れんで、まだ使える身体の機能を残してくれてありがたい」
「今まで頑張りすぎたから、疲れが残らないように、目的を持って生きていこう」
など、ずいぶん心の思いが変わってきて、病を克服していったのです。

このお話で、身体の健康を害し、病(やまい)を受け取るなかで、
心がどのように乱れ、そしてどのように心が変わっていたかが分かります。

最初は文句ばかりがでていましたが、
後に感謝の思いで日々を過ごせるようになっています。

これは病を通して心が学びをしているのです。
心が多くのことを学びとり、大きく成長しているのが分かります。
そして、その結果、心が健康になっていったわけです。

この方から教えていただくのは、
この身体に心が乗って、この心が多くの学びをし、体験をして、
大きく成長していくということです。心を養うといってもいいでしょう。

心が身体という車に乗って、
さまざまな景色を見、眺め、さまざまな体験をして、成長していく。

これがなぜ、心がこの身体という車に乗っているかの一つの理由なのです。

「神も仏もあるものか」という心の思いから、
「神様や仏様が哀れんで、まだ使える身体の機能を残してくれてありがたい」
というふうに心の思いが変化していったのは、極めて優れています。

上手に身体という車を乗りこなしたといえます。

この女性は当時、私の書いた『自助努力の精神』という本の
6章「今をたいせつに生きる」と、10章の「逆境を転じる」が参考になった
と書いていましたから、その中に出てくる人の生き方を学び取ったのでしょう。

今回のテーマで言えば、心の健康を取り戻すための力にしたわけです。
心の薬といってもいいかもしれません。

なぜ、身体という車に心が乗るのか。
それは心がさまざまな体験をし、学びながら成長していく。
人格を上げていくといってもいいでしょう。

その助けとなるのが「どのように生きることが正しいのか」という教えであり、
それが心の健康を保つ食事あるいは薬にもなるということです。

ここに人生の意味があり、また生まれてきた目的などを発見することができます。

心の健康を考える 2 心と身体は影響を及ぼし合っている

共に影響しあう心と身体

心のことを語ってきましたが、心と身体は深い関係があります。

仏教的に言えば「色心不二―しきしんふに」という言葉でいい表すことができます。

色(しき)とはこの肉体、身体のことをいいます。
ですから、「身体と心は非常に深いつながりがある」という意味です。

でもこの場合、この世においてであり、
色すなわち身体が壊れ使えなくなれば、心は身体から抜け出し、
あの世の世界へ帰っていくことになります。

車が廃車になれば、乗っていた人も死んでしまうわけではないということです。

この心と身体が非常に関わり合っている一つのエピソードをお話しましょう。

江戸時代です。
ある年(1715)江戸で老人7人の集会があったと言われています。

その中の167才と書かれていますから、ほんとうかどうか定かではありませんが、
志賀瑞翁(ずいおう)という人がいました。

今でもこんなに長生きをする人はいませんが、
その志賀に長生きの秘訣を教えてもらいに行った者がいました。

すると志賀は「秘けつはあるのだが・・・」
と言ってなかなか答えをいいません。

それでも熱心に長生きの秘訣を聞くので
志賀は「教えてあげますから、とりあえず7日間精進してください」といいました。

その人は長生きができるのなら、そのくらいの精進はできると思い、
7日間精進をして再び志賀に長生きの秘訣を請いにいきました。

すると志賀は「もう3日間、精進してください」という。
その人は少し腹立たしく思ったのですが我慢して、もう3日精進したそうです。

今度は教えてもらえると思い、いさんで志賀のところにいきました。
すると志賀は「もう1日、精進してください」といいます。

その人は心の中で
「馬鹿にしている、3日して、もう1日しろというのか。ちくしょう。
乗りかかった船だから、もう1日やってみようじゃあないか」と思い、
少し興奮して「分かりました」というと、

志賀は静かに
「あのなあ、気を長ごう持ちなされ」
と、たった一言、長生きの秘けつをそこで伝授したといいます。

その人は呆然(ぼうぜん)とするばかりだったそうです。

長生きをする人を見ると、
どうしたらそんなに長生きができるのかと聞いてみたくなります。

身体も頑丈にできていると思いますが、
心でどのような思いで生きているかが、大きく影響してくるようです。

この場合は「気を長く持つ」ということでした。

心と身体の関係を結構密接につながっていて、
短気で怒りっぽい性格の人は、短命かもしれません。

(つづく)