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法話

幸せと感謝 1 幸せとは

身近で大切な事ごと

今月は「幸せと感謝」というテーマでお話をいたします。

このテーマは非常に身近で多くの人が理解していることかもしれません。
でも、それをお話にして語りなさいと言われると、なかなか難しいものがあります。

お話においてはテーマに則して、一言でもいえるし、
1時間の話にしても語れるというのが、本当に理解していることなので、
私自身の悟りの深さが分かってしまうかもしれませんが、
あえてお話をしようと思います。

この幸せの意味や感謝の意味は、底が深いので、
その人の現在の心境によって変わってくると思うのですが、

「幸せってこういうことなんだ」
「感謝ってこんなに大切なんだ」

ということを知っていただき、何らかの心の糧にしていただければと思います。

幸せと感謝の関係

幸せとは健康であって、日々の暮らしに困らないとか、
充分なお金があって、いつもほしいものが得られるなどさまざまでしょう。

私の幸せは、
「どんなときでも、お釈迦さまの教えにそって生きられること」ですが、
なかなかすべてがうまくいくとは限りません。

幸せと感謝の関係ですが、
とても幸せな人が、みんな必ず感謝ができているとは限りません。

また、感謝の思いを常に持っている人は、
たとえたくさんのお金がなくても幸せに暮らしている人も多いと思います。

また、健康であっても不幸な人はいますし、
お金があっても幸せでない人もいます。

健康であっても、家族が不和であったり、
お金があっても、子どもがぐれてしまったりして
「なぜ、こんなことが私ばかりに起こってしまうのか」
と悩んでいる人もいることでしょう。

幸せで何の悩みもないという人であっても、
見えない神仏に感謝をささげて生きているでしょうか。

空気の存在を常に感じて、
「空気様のおかげ、ありがとう」と感謝しなくても、
幸せに暮らしている人は多いのではないでしょうか。

言えることは「幸せな人は、必ず感謝できているとは限りませんが、
感謝できる人は、幸せである人が多い」ということです。

感謝というのは「ありがとう」の言葉で代表されるように、
「有ることが難しいけれども、それが有るようになった、得られて幸せになった」
というふうにとらえることができます。

『法愛』を読んでもらえる有り難さ

私のことで恐縮ですが、たとえば『法愛』を毎月出しています。
今年で17年目です。

現在1200部になりましたが、始めたころは200部ほどで、
1部を作るのに、B4の紙を6枚使います。

初めはコピー機で印刷をしていました。
200部作れば1200枚コピーすることになります。
コピーするのに1枚あたり10円なので、12,000円になります。

それがしだいに部数が増えていって、
400部位になると、1カ月の印刷代が24,000円くらいになりました。

これはお寺の経済的な面でも、維持していくのは困難だと思い、
印刷機を買ったのです。

印刷機で作るとコストが非常に安くなり、
これならもっと皆さんに読んでもらえると喜び、
さらに宣伝やさまざまな努力をしてきて、現在に至っています。

どうして、部数が増えるごとに、コストが上がって資金的に大変なのに、
有り難くて、幸せなのかということです。

それは私自身、坊さんとして、
「多くの人の利益と幸せのために、法を伝える」という目的があるからです。

その一つの仕事が『法愛』を作って、
みなさんに法(教え)を伝えるということです。

この目的がかなえられて有り難く、
感謝の思いを深くし、幸せを思うのです。

逆に『法愛』はいらないという人もいます。
さまざまな事情で仕方がないことかもしれません。

「母が読んでいたのですが、目が悪くなって、もういりません」とか、
「送ってもらって、お礼もできないのでやめます」とかのご返事をいただくと、
非常に悲しく、寂しい思いをします。

その思いは得られないことの寂しさ、失うことの辛さからくるものです。
得られれば有り難く感謝の思いが深くなり、幸せになります。
失えば辛く悲しい思いをするのです。

失うといえば、今年3月11日におこった東日本大震災でのことです。

被災した人たちはたくさんのものを失いました。
とても悲しく辛いことだったでしょう。

日ごろから得られている事ごとに、
感謝の思いを抱いて生きていくこの大切さを改めて学び直しました。

この『法愛』に関して言えば、
私自身としては、失ったときには、それにとらわれず、また相手の責任にしないで、
「自分の研鑽が足りないのだ。さらに釈尊の教えを理解し分かりやすく伝えねば」
と自分を戒めます。

戒めによって、自分に厳しくするのですが、
何事も「得る」というのは、楽にはいかないものなのですね。

ですから努力して得たものが、有り難く、感謝の思いが出るのだと思います。

ここで言えることは、
「何事も有り難いことだと思い、感謝を深めていくと、誰でも幸せになれるのだ」
ということです。

そのために、感謝できる自分を作っていかなくてはなりません。

幸せと感謝 2 感謝できる自分

感謝の気づき

先にもお話致しましたが
「幸せな人が誰でも感謝できるとは限りませんが、感謝できる人は、幸せな人が多い」
ということお話致しました。

感謝の心をどう受け止め、自分のものにしていくかが
幸せになれる方法であるということです。

感謝には二つの方向性があって、
一つは感謝できる自分であり、二つ目には感謝される自分があります。

まず、感謝できる自分について考えてみます。

感謝できる自分を作っていくためには、
「気づく」ということがとても大切なことになっていきます。

「有るのに気づかない」で、感謝できないという事がたくさんあるからです。

森繁久弥さんという俳優がおられました。
すでに亡くなられましたが、森繁さんが長く演じていた舞台劇に
「屋根の上のバイオリン弾き」がありました。

九州での公演の時、芝居が始まったのに、
客席の最前列で少女が頭を垂れて居眠りをしていたのです。

森繁さんはじめ俳優のみんなが、
「最前列で女の子が寝ている。起こせ、起こせ」といって、
演技する中で、床を高く踏み鳴らしては少女を起こそうとしたのです。

でもついに少女は目を覚ましませんでした。

公演が終わってアンコールがあり、再び舞台の幕が上がったときです。
少女が初めて頭を上げました。

よく見ると少女の両目は閉じられていました。
居眠りをしていたのではなく、盲目であったのです。
盲目でも全神経を耳に集め、下を向いて、
芝居を心眼に写そうとしていたのです。

それを知ると、森繁さんは心ない仕打ちを恥じて、
舞台の上で泣いたといいます。

目が見えなくても、この公演を見にきたい
という少女の気持ちに気づかなかったのです。

森繁さんは
「見にきてくださるお客さんに感謝しながら、誰一人退屈させない公演にする」
という目的があったのですが、このとき少女の気持ちに気づかなかったので、
心ない行動に出てしまったわけです。

私たち自身も与えられているのに気づかないときがあると思います。

得ているのに、気づかないので有り難いと思わないし、
心ない仕打ちを相手や物にしてしまっている時があると思うのです。

たとえばお嫁さんの生き方や性格、
あるいはもっと深い人間性を培ってもらうためにお姑さんがいるかもしれません。

お姑さんも、
感謝の心をさらに深くするために、お嫁さんがいるかもしれないわけです。

それに気づかないで、互いに心ない仕打ちをしてしまうことがあるかもしれませんし、
心ない仕打ちでなくても、不平不満で日を過ごしている場合もあるかもしれません。

感謝に気づかないための方法

反面教師的になりますが、感謝に気づかない方法をお話ししてみます。

一つ目は「いつも、あたりまえ」と思って暮らすことです。
いつもあたりまえと思っていれば決して感謝などできません。

電気の付くのはあたりまえ。
水の出るのもあたりまえ。
食事を作ってもらうのもあたりまえ。
優しくしてくれるのも、もちろんあたりまえ。
こう考えるわけです。

もう一つの方法は
「まだ、足りない。もっと欲しい」と思って暮らすことです。
そう思っていれば決して感謝はできません。

このお金じゃあ足りない。
そんな愛じゃあ足りない。
もっと優しくして欲しい。

こんな思いで暮らしていると、決して幸せになれないでしょう。

このように、感謝などできなくていいと思う人は、
「これもあたりまえ、あれもあたりまえ」と思い、
さらには「まだ足りない。もっと欲しい」と思って暮らせばいいのです。

でもこれは、不幸の道を選択していると知らなくてはなりません。
こんな思いや考えを心のどこかに持っていないか、
自らに問うてみることも大事でしょう。

素直にまわりを見つめてみる

さまざまなことに気づいていく一つの方法は、
素直な心になるということです。

素直さを別な言葉でいうと、
柔らかさといってもいいかもしれません。

お釈迦さまは柔和な心をとても大切にしました、
悟りを深めていくと柔和な心を得るというのです。

この柔和で柔らかいというのは、
たとえて言えば、付きたてのお餅のようなものです。

お寺では暮れに餅をついて鏡餅をいくつも作り、仏様にお供えします。

付きたてのお餅は柔らかで、どんな形にでもなるので、
簡単に鏡餅を作ることができます。

それを自分の心に当てはめてみると、
自分の考えもあるのだけれど、心を柔らかくして、
相手の気持ちをまず察し、相手の身になって考えてみるということです。

相手の身になって考えてみると、
今まで気がつかなかったことがたくさん見えてくるはずです。

お供えした鏡餅を仏様から降ろす頃になると、鏡餅は硬くてコチコチになっています。

これを心に当てはめてみると、意固地という心境になるのです。
「かたくなに意地を張る」と言う意味で、お餅のコチコチしたのにそっくりです。

そこには相手の気持ちを察する気配はありません。
ですから、相手のしてくれていることに気づかないのです。

心を柔らかに、素直にしていくことが、気づきの大切な方法で、
その心を大切にしていくと、有り難い事を見ていくことができます。

幸せと感謝 3 感謝される自分

仏の心を差し出す

感謝される自分というのも大切で、
それが相手の幸せになり、また私自身の幸せにも通じていきます。

そこで考えなくてはならないことが、
感謝されるにはどんな人になればよいかということです。

そのためには自分のことばかり考えているのでなく、
まわりの人のことを考え理解してあげて、
こちらから自分の出来ることをしてあげることです。

優しさや思いやりの心を差し出してあげることでしょう。
それが幸せなのです。

私たちの心には仏性(ぶっしょう)といって仏と同じ尊い心があり、
その心を充分生かすことで、幸せ感を味わえるようになっているのです。

この仏性に目覚めるためには、
自分がどれだけ与えられ生かされているかを、
日々感じ取っていくことが大事になります。

前章でお話しした、感謝できる人間になって行くことなのです。

さらにこの仏性に目覚め、その仏性を生かしていくためには、
優しさや思いやりを与え、差し出して、相手を幸せにしてあげることなのです。

見返りを捨てる

ここで注意することは、
感謝されなくても、優しさや思いやりを与え続けるという精神です。

人は何かをしてあげると、お返しを望むものです。
それは当然かもしれません。

認められるのは、スポーツなどに言えます。
オリンピックも金メダルを取ろうと互いに切磋琢磨し、
良い意味で競い合いながら、そこに忘れられない感動のドラマを作っていきます。

このことを人の道として考えた場合、
優しさや思いやりを与えても、返ってこない時、
「私がこんなにしてあげているのに・・・」という思いが出て、
不満の思いが心を乱します。

どこかで読んだ本の中に、

自分のまいた種が育って、その花が咲くころには、
私はいないかもしれない。

でも、その咲いた花を誰かが見て「きれいだね」と言って喜んでくれれば、
私はそれで幸せです。

こんな意味の言葉があって、
「ああいい言葉だなあ」と思い、机の前に貼って、忘れないでいます。

「こんなにしてあげているのに・・・」と不平が出そうになるとき、
この言葉を繰り返し読み上げると、心が落ち着いてきて、もとの自分に戻れるのです。

幸せと感謝の関係をお話し致しました。
身近なこの言葉をさらに深めて、みんな共に幸せになっていきましょう。