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法話

観音さまに巡りあう 2 観音さまの働き

観音さまを信じる

『法華経』というお経があります。
その中に観音さまについて書かれた章があるのです。
その経文のなかに次のような意味の教えが載っています。※()は筆者

観音さまの名を聞き、そのみ姿を拝し、
深く心に観音さまを念じて怠ることなく過ごせば、
(観音さまのお力をいただいて)すべての苦を滅することができる。

こんな経文です。ちなみにその経文を原文で載せておきます。

聞名及見身、心念不空過、能滅諸有苦。

読み方は「もんみょうぎゅうけんしん、しんねんふーくうか、のうめつしょうーく」です。

ここでの大前提は、観音さまの存在を信じているということです。
それがないと、なかなか観音さまに巡りあうことはできません。

でも、巡りあうことができなくても、また観音さまを信じていない人にさえ、
救いの手を伸ばしているのが、観音さまです。

観音さまは実際、仏像でしかその姿を拝することができませんが、
どのようなみ心で私たちに手を差しのべていらっしゃるのでしょう。

そんな思いを詩に書いた和尚さんがいらっしゃいます。
その思いを知ると、信じることの大切さを感じるのです。

私のお寺にも、「野の花観音」といって、野の花を観音さまの化身と感じ、
それを形にした観音さまが33体建っています。
たとえば、1番「母子草かんのん」で、2番が「菜の花かんのん」です。

話はそれますが、
この晩秋に33体の観音さまの本体である「野の花観音」が建つ予定です。

この野の花観音は私がイメージして考えた観音さまなので、
世界に一つしかありません。

この観音さまを作るきっかけになった観音さまが、
次の詩を作られた和尚さんのお寺にあった33体の観音さまです。

福島県の西隆寺というお寺にある観音さまで、そこの住職をされている
遠藤太禅和尚さんが、観音さまの一体一体に詩を書いているのです。

1番が「哀切かんのん」です。
1番目の観音さまの詩を紹介しましょう。

哀切かんのん

人生に三十三の難所があるとか
だれでも苦悩の路を通る
哀しい事だけれど
人となるための定めなのか
泣いて叫んで救いを求めると
哀切の声で
「ここまで早くおいで」と
涯(がけ)の上から身をのり出して
白い両手をさしのべられる

けれど恐れてその手を信じない
ふれたら突き離されるかと
信じる事を失った習性
観世音のあなたは
唯、哀しき瞳もて立ち給う

※ルビは筆者

苦しむ人たちに「ここまで早くおいで。私の言葉をお聞き、私の顔をみなさい。 私はこうしてあなたを助けようと語りかけているのですよ」と言って両手を差しのべていても、
そんな観音さまが信じられないといって、苦しみのなかでもがいているのが私たちで、
そんな私たちの様子を観音さまがごらんになって、哀しい瞳で私たちを見つめていらっしゃるという、そんな詩です。

こんな心で私たちを見ていらっしゃるのが、観音さまのみ心です。

ですから、観音さまがいつも白い両手を差しのべて見守ってくださっていると
信じることが大事なわけです。

その救いとってくださる白い手を信じて、おまかせするという思いも、
時にはとても大事ではないかと思います。

この信じる気持を持っていると、聞名(みょうもん)と言って、
その名を聞くだけで救われていくのです。

あるいは見身(けんしん)と言って、
その観音さまの姿を拝するだけで、苦しみが去っていくのです。

あるいは心念(しんねん)と言って、
観音さまのみ姿を心の中に念じるだけで、安らかな思いになっていくわけです。

前述した経文のところをまとめてみます。

聞名ーみょうもん―

1番目は、聞名(みょうもん)です。

これは観音さまの名を聞くことです。
「観音さま、観音さま」と唱え、その名を聞くのです。

観音さまのお話を聞いたりするのもいいでしょう。
そうすると、安らぎをいただけるのです。

先にお話した遠藤太禅師のお寺の観音さまは、鈴木マリ子、るり子と言う名の姉妹が
作ったもので、まだ20才過ぎたくらいの女性の作です。

実際にその観音さまがあるお寺にお参りしたのですが、
あたたかなほほえみをたたえた観音さまばかりで、心の汚れが取れたような気がして、 「観音さまー!」と叫ぶと、実際に手を差しのべてくださる、
そんな気が今でも致します。

見身―けんしん―

2番目は、見身(けんしん)といって、観音さまに真見えるのです。

観音さまの仏像を見たり、石仏を拝したり、花の中に観音さまのほほえみを見たり、
子どもの笑顔に観音さまの絵顔を重ねても、心が安らかになるでしょう。

桜の花や、スミレの花、タンポポの花は、みなほほえんでいて、
何かそこに大切なことを語っているように見えます。

花と一つになって、花の中にたたずんでいると、心が休まってきます。
それも観音さまの化身かもしれません。

京都の三十三間堂には、千一体の観音さまがあって、その観音さまのお顔を拝すると、 自分と同じ顔をしている観音さまがあると言われています。

何度かお参りをしましたが、ゆっくり時間をかけてお参りすれば、
もしや自分と同じ顔の観音さまを拝することができるかもしれません。

心念―しんねん―

3番目は、心念(しんねん)といって、観音さまを念じるのです。
心のなかに観音さまを思い浮かべるのです。

観音さまを愛する思いを強く持つことです。
するといつも観音さまと共にあるような思いになり、安らぎを得られるわけです。

観音さまを念じるときは、優しいほほえみのある仏像あるいは石仏のお顔を覚えていて、 そのお顔を思い出しては心に思い浮かべるのが良いと思います。

不空過(ふくか)といって、これらのことを、日々怠りなく行っていくと、
さまざまな苦しみがなくなっていくのですよというのが、
この経文の全体の意味になります。

観音さまのことを思って暮らしていると、
心の汚れがとれ、清らかになっていくのですね。

実際に、観音さまの姿を写真などにとって、居間や部屋などに貼って、
絶えずそのお顔を拝し、心の中で思い続けていると、怒りが出たときには、
「いやいけない。観音さまのほほえみを思いだしなさい」と思えるようになったり、
不平が出たときには、「いやいや、観音さまのよう・・・」と思えて、
不平が止まってくるのです。

そんな日々を送っていて、ふと鏡を見ると、
そこに観音さまが映っているかもしれません。

それは観音さまを常に思い浮かべ、そうありたいと強く念じていると、
自分の顔も観音さまのようになってくるからです。

顔ばかりでなく、しぐさや行いまでも、観音さまに似てきます。
「あなたこのごろ、観音さまのようね」と言われれば、
こんな嬉しいことはありませんね。

別紙に遠藤太禅師のお寺の観音さまを入れます。
どうぞ観音さまを念じてみてください。

福島県西隆寺の観音さま

(つづく)