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法話

釈尊の願いに生きる 3 教えの意義

先月はこの世は闇夜のようで、生きて行くのは大変ですが、教えを灯火として生きていけば幸せを得られるといったお話を致しました。
続きのお話をしていきます。

道は開ける

教えによって幸せになれるというのは、とても素晴らしいことです。
この幸せは、先月の最後に書いた「二つの幸せ」の中にある永久(とわ)の幸せではないかと思います。

ある方から次のような内容のお手紙を頂きました。

毎月尊い『法愛』をお送りいただきありがとうございました。

最近家族のことでずいぶん辛い日を過ごしました。
『法愛』にあった「道は開ける」という詩を読み、
ほんとうにそうだと身にしみて涙がこぼれました。

法愛の一言ひと言にどんなに心を癒され、助けられることでしょう。
いつもありがとうございます。

こんなお手紙です。

教えの言葉によって心が癒され助けられ、またしっかり生きていける。
これが教えの力だと思います。

この手紙を受け取って、
「はて、道は開けるという詩はいつ書いたのだろう」と思って調べてみると、
『法愛』の108号の最後のページに載っていました。

改めて読んでみると、自分自身が書いた詩なのに、私も本当にそうだと思ったのです。

「道は開ける」

道は開ける
その人の考え方によって
道は開ける
その人の見方を変えるだけで

刑務所の鉄格子の中から
二人の男が外を見た
一人は泥を眺め
一人は星を見た

泥を眺めた者は不幸になり
苦しみの多い毎日を送った
星を眺めた者は幸せをつかみ
強く生きる人生を得た

苦難の場は同じ
自分が変わったのだ
自分の考えを変えたのだ

考えには力がある
人生を好転させる
そんな考え方を生きる指針としよう
必ず苦難を乗り越え
大きく人として成長していける

この詩を読み、「ほんとうにそうだ」と思って涙を流したことに、人として何にも代えがたい幸せがあると思います。

日ごろの生活を顧みて、教えによって自分が目覚めていく、そんな体験を多く持っている人が、幸せを培っている人ではないかと思います。
毒ヘビに噛まれることなく、平安な日々を送れるのだと思うのです。

教えによって善悪を識別する

お釈迦様の教えで一番基本的な教えは「悪を止め、善を行う」ことです。

『感興のことば』という経典にお釈迦様の教えが説かれています。

眼(まなこ)ある人は灯火によって種々の色かたちを見るように、
人は教えを聞いて、善悪のことがらを識別する。
教えを聞いて、諸々のことがらを識別する。
教えを聞いて、悪を行わない。
教えを聞いて、ためにならぬことを避ける。
教えを聞いて、束縛の覆(おお)いの解きほごされたところに至る。

『感興のことば』(岩波文庫・中村元訳)

こんな教えを説かれています。

明るい所に出れば、色や形を見て、これが花だ、これが動物だ、これが人だと識別します。 人でも、妻だ、夫だ、子どもだと判断できます。

それと同じように、教えの灯火によって、これが善で、これが悪だと分かり、 悪には近づくことなく善を行って、束縛の解きほごされたところ、すなわち毒ヘビのいない幸せの園に至ることができるというわけです。

たとえば教育について考えてみましょう。

学校は、さまざまな知識を得るためにあるといえます。
小学校や中学校では算数、国語、社会、理科などを学び、社会にでる学力の基礎を培います。

今では道徳の基礎となる「心ノート」が民主党の意見でなくなるようなことを言っていますが、知識と善悪を判断する知恵はまったく違うものです。

いくら算数ができ計算能力がすぐれていても、友達をいじめてはいけないとか、盗みをしてはいけないという学びを積んでいかなければ、子ども自身、間違いを起こしやすいし、社会もよくなっていきません。

頭がよくても、善悪の判断ができなければ、人としての価値は低いといえます。

一つの例話をあげてみます。

ある小学校のクラスで、友達の靴を隠してしまう子がいました。

何の不満があるか知りませんが、
あるときには靴は靴箱の外に捨てられていました。
またあるときには川の溝の中に、あるときには池の中にという具合で、
五度ほどそんなことがあったようです。

捨てられた子は心傷つき大変な思いをしました。

あるとき先生がクラスのみんなに手紙を書いて、
靴を盗み隠してはいけないと教えました。

その手紙をみんなの前で読み、コピーしたその紙をクラスの一人ひとりに、
しかも生徒の目をしっかり見つめながら渡したそうです。

その手紙にはこんなことが書かれていました。

靴を隠す君へ

こんにちは。

今日もまた君は誰もいない靴箱で靴を見つけ、手にとり、どこかに持ち去った。
そのとき君はどんな顔をしていたのだろう。笑顔のわけがない。

今度また靴を隠すなら、近くにある鏡を見てからにしてください。
こそこそと人の靴を隠して、喜んでいる顔をじっくり見てからにしてください。

靴を隠した君が誰なのか、最後まで分からないかもしれない。
そしていつのまにか靴隠し事件のことを、隠された友達の悲しみを、
みんな忘れていくだろう。

でも君は、いつまでも忘れてはいけない。
靴隠しは君がしたことなのだから。
絶対に忘れてはいけない。

この手紙を読んだ日から、靴隠しはなくなったといいます。

最後に絶対に忘れてはいけない、と書いてあります。

それは悪いことをしているから、忘れないでずっと反省していなさい、
ということでしょう。

そして悪い事をしている人の顔は、笑顔ではなくて、悪魔のような顔になっていると教えたいのですね。

靴を隠した子は、この手紙を聞かされ、また本人も自分で読み、これはほんとうに悪いことだと分かって、靴隠しをやめたのでしょう。

教えを聞いて善悪を見極める。お釈迦様の言葉の通りです。

善悪の法則を知る

教えには善悪を判断する力がありますが、
仏教では極めて論理的にこの善悪を教えています。

それは「因果(いんが)の法則」で、 基本として
「善因善果、悪因悪果―ぜんいんぜんが あくいんあくが―」を説いているのです。

因果とはまず原因があってそこにさまざまな縁、すなわち条件が加わって、結果が生じるという法則です。

この『法愛』でも作ろうとする原因があります。
それは「人びとの利益と幸せのために、教えを伝える」という志があるからです。

そして毎月作るのですから、
そのための資料を集めたり勉強したりして原稿を書きます。

原稿はパソコンで書きますから、パソコンもいります。
原稿ができたら、製本するために、紙を買い、印刷をし、紙を二つに折り、ホッチキスで綴じます。

約1,000部をこうして作り上げます。
さらに遠方の方には封書に入れて発送する手間もいります。

このようなさまざまな縁があって、
『法愛』という冊子を手にするという結果を得ることができるわけです。

『法愛』を手にしたいという原因があって、この『法愛』を読むことができます。

読んでこのなかから自分の人生の問題にあったものを見つけて、
「ああそうだ」と思えば、生き方が正されて、幸せという結果を得ることができます。

この『法愛』はいろいろな場所に置いていただいているのですが、
先日もある葬祭ホールで、名古屋にお住まいの男性の方でしたが、
この『法愛』を読み、どうしても読みたいというお手紙をいただき、
それから毎月お送りしています。

読みたいという原因があり、手にすることができるという結果がでてくるのです。

ちなみにお手紙の中で、

貴寺で出されている『法愛』を、
葬儀の開式の前の待ち時間に拝読させていただきました。

自宅へ持ち帰り、幾度も読み返し、
人間生きてゆくにおいて必要な事柄がわかりやすく、
色々な角度からの記事に深く感動しました。

と書かれていました。

この思いが原因で、手紙を書くという縁によって、
結果としての『法愛』を手にすることができたわけです。

これを善悪にあてはめてみます。

1月号の「知恵のたりなさ」という章で、
ある大学のワンダーフォーゲル部の遭難について書きました。

遭難したというのは結果になります。
原因は雪山を甘くみていたということでしょう。

一人の部員が「天候と対決したかった」という意味のことを言っていましたので、
その思いが原因となり、縁である大雪に遭い、結果としての遭難にあったわけです。

この山を甘く考えていたことが悪であり、
その結果、遭難という事故(悪い結果)になってしまったといえます。

これが「悪因悪果」です。

前にお話した靴を隠すのも悪になります。
悪は自分もまわりの人も不幸にしていくのです。

一方、善はどうでしょう。

善も同じように善を積めば、自分もまわりの人も幸せ(善い結果)になれるのです。

ここで一つの投書を紹介いたします。
ある新聞に載っていました。63才の女性の方の投書です。

「鬼嫁3カ条」で義父母見守る

今年も敬老の日が近付いてきた。
先日、地区の民生委員の方が、義父母に、お祝いの品を届けてくれた。

鬼嫁を自任している私はこの1年、
90才に近づいた2人が元気で過ごせたことに感謝した。
あたかも自分の手柄のようにうれしく、「やった」と心の中でつぶやいた。

私は、「鬼嫁3カ条」を定め、2人を見守ることにしている。

1、好きなようにさせる
2、手と口はださない
3、フォローはさりげなく

といった具合だ。

それでも、時にはハラハラ、ドキドキ、イライラすることもある。

体力が衰え、思うように動けず、不安を愚痴る2人に
「大丈夫。いつも私が見ているから」と言うと、安心したように笑顔を見せた。

この笑顔が鬼嫁へのなによりのご褒美なのだと思っている。

(読売新聞 平成21年9月14日)

この女性は自分を鬼嫁と言っていますが、ずいぶん賢い鬼嫁です。

ここに出てくる「鬼嫁の3カ条」は、鬼嫁といいながら善なる力があります。
その結果得られるのが義父母の幸せですし、義父母から帰ってくる笑顔だと思います。

善なる思いでお世話をしていると、善なる笑顔が頂けるわけです。

これは法則で、誰しも曲げることはできません。
ですから昔から洋の東西を問わず、善の素晴らしさが伝えられてきたわけです。

お釈迦様はさらにこうも言っています。

 

悪い報いが熟しない間は、悪人でも幸運に遇(あ)うことがあるけれども、
その悪が熟した時には、必ずわざわいに遇う。

そして逆に、
善いことをしても善の果報が熟さない間は、善人でもわざわいに遇うことがある。
けれども善が熟してきたならば、かならず善人は幸福(さいわい)に遇う。

善を行えばその果報として、すぐ幸福を得られる時もありますが、
なかなか幸せになれないときもあります。

そんな時は、やけにならずにたんたんと善を積むことです。

悪を犯して、たまたま幸せになることもあるけれど、
その悪が熟してきたならば、必ずわざわいに遇うということです。

その教えを肝に銘じて「悪を止める」姿勢が、
心の毒ヘビを退治し、幸せの道に入る方法でしょう。

そしてさらにこの善悪は、この世で完結するのでなく、
あの世に逝ってからも消えないものなのです。

(つづく)