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法話

釈尊の願いに生きる 2 教えの意義

この世は闇夜の家のよう

教えを信じ実践していくことで、毒ヘビを退治し、
正しく生きていくための力を得ることができます。

今の日本はアフリカなどの貧しい国に比べれば、極めて住みやすい国ですが、
仏教的なこの世のとらえ方は心を中心としていますので、少しとらえ方が違ってきます。

お釈迦様はこの世のことをこう説いています。

悟りたる者から見れば、この世は密閉してあって暗闇に満たされた家のようです。
それは何が正しく何が間違っているのかがよく分からなくて生きているからです。

ですから教えに基づいて生きれば、心を正すことができ、
何が正しく、何が間違っているかが明らかに分かり、正しく生きる力を得ることができるのです。

いくら日本が住みやすいとはいえ、介護の問題があり、万引きがあり、
親が子を殺し、子が親を殺し、また覚せい剤をしてみたり、自殺者も毎年3万人を超えています。

仏教では、この世は濁世(じょくせ)とか泥水のようだと言います。
そんな泥のような世から、蓮の花のようなきれいな花を咲かせることが仏教の目的です。

そのために、濁りある世にあって教えを聞き、
心を正して、自分の花を咲かせると、生きる充実感がわいてくるのです。

生きていく力がなくなるとき

あるお寺さんに、檀家の方で老婦人がやってきました。
先に亡くなった旦那さにお経をあげてもらいたいと来たのです。

接待にでたお寺の奥さんが
「あいにく和尚さんが留守なので、後日にしていただけませんか」と言うと、
「奥さんでもいいから今読んでほしい」といいます。

そこで本堂へ二人でいって、お経本を見ながらお経をあげました。

お経が終わっておばあさんがお焼香をしている間に庫裏にもどった奥さんは、
おばあさんにさしあげるお茶の用意をしていました。
でもなかなか本堂から、おばあさんが帰ってきません。

どうしたのかと思い、本堂へいくと、本堂に貼ってあったポスターので、
おばあさん、泣いているのです。

そのポスターには詩が載っていました。
おばあさん、その詩を見て「本当です、本当です」と言いながら涙を流しているのです。

それは、詩人の坂村真民さんの詩でした。

死のうと思う日はないが
生きていく力がなくなるときがある

そんなとき わたしはひとり
お寺を訪ね仏陀の前に座ってくる

力わき明日を思う心が
出てくるまで座ってくる

こんな詩でした。

このおばあさんは初めてお寺にきたのではなく、何度もお寺に来てはいました。
そのポスターは以前から貼ってあって、おばあさんもきっと眼にはしていたでしょう。
死のうと思ったとき、初めてこの詩が心に留まったのです。

「常日頃からあまりにもせがれ夫婦がきつく意地悪なので、
今日はおじいさんの供養をしてから、死のうと思ってきました。
でも仏陀の前でお経をあげ礼拝していたら、
この言葉のように、明日を思う心が出てきて、力がわいてきました。
本当にこの詩のとおりです」
と言うのです。

おばさんにとっては、家庭が苦しみの泥が渦巻く所であったのようです。

でも、お寺に詣でて、お経をあげ、仏陀の前で礼拝し、
この坂村さんの詩を読んで明日を生きる力を得ました。
蓮の花が咲いたとも言い換えられます。

仏陀にお経をあげ礼拝して、この生きる力を得たのは、
おばあさんが日ごろから仏陀であるお釈迦様を尊び、
その教えを聞いていたからに違いないでしょう。

お釈迦様の口元からこぼれ落ちる教えの音(ね)は、
それを信じる人の心に響いていくのです。

どう生きねばならないか

坂村真民さんは既に亡くなられました。
平成18年の12月、97才でした。

昭和37年、坂村さんが53才のときですが、月刊詩誌「詩国」を創刊しました。
1200部を無償で配布していたようです。この「詩国」も500号を超えています。

仏教的な詩もかなりあって、調べてみると一遍上人の信仰に目覚め、
それ以来、仏教精神を基本とした創作に転じたようです。

坂村さんは詩を作る心構えをこう言っています。

「人を生かす詩を作るためには、自分が一生懸命生きなくてはならない。
自分が真剣に生き、そしてその心で作る詩が人を生かすことになるのです」と。

また仏教的なとらえ方を少し挙げると、
「人間としてどう生きていかねばならないかというのは、仏教の本質です」
「命というのはずっと続いているのです。宇宙に充満している。
それを身につけるのが信仰の根本問題です。
同じことが『般若心経』に空と書いてあります。
空とは永遠の生命です。宇宙の生命体です。
宇宙の生命体そのものが自分であるという悟りです」

仏教の本質は、どう生きるかにあるとか、
私たちの生命は永遠の生命であると言っています。

これもよく仏教を学び、
それを詩に表現してきいたからこそ得た悟りであると思います。

こんな仏教の信仰を持ち、ともに仏陀であるお釈迦様と共に歩んできたからこそ、
明日を生きる力を得て97才まで生きられたのでしょう。

私たちの幸福感は、ケーキをいただいたとか、チョコレートを食べたとか、
温泉に入って美味しいお酒をいただいたとかという幸せも一つの幸せでしょう。

でもさらに深い幸福感があるのです、それは
「自分が信じた教えによって、何かに気づき、
気がついたことを指針として、さらに強く生きようと思う」
そこに深い幸福感があるのです。

前述したおばあさんのように、仏陀を礼拝して、
泣きながら「本当にそうだ」と思い、明日を生きぬく力を得た、そのとき幸福感です。

(つづく)