ホーム > 法愛 4月号 > 法話

法話

命、終わる時は楽しい 3 天からの声を聞く

先月は死んで後にも次の世があって、その次の世(天)から聞こえてくる声を聞くことが大切だ、というお話を致しました。続きのお話です。

与えなさいという声

天から聞こえてくる声は、良心で受け取るものですが、その声の中で大切なものが、与えるということです。
仏教では布施とか施与(せよ)と言って、最も基本的で大切にされている教えです。

まだ難しい教えを理解できない人に、次第に分かっていだたけるようにと語った教えが、次第説法(しだいせっぽう)でした。

まず布施をしなさい。
自分のできることでいいから、与えなさいということです。
財産でも思いやりの心、温かな言葉、行為を与えなさい、と教えました。

次に戒めを持ちなさいということです。
むやみに殺さない、嘘をつかない、盗まない、という人としての基本的な教えです。
そうすれば天に生まれることができる、というのです。

これを施論(せろん)、戒論(かいろん)、生天論(しょうてんろん)といいます。

天に生まれるために施(ほどこ)しをしなさい、戒めを持ちなさい、というのです。
ですから今回のテーマから言えば、施しや戒めは天から聞こえてきた声かもしれません。

日本昔話の中に、「笠地蔵」という誰でも知っている有名なお話があります。

正月を迎える前の大みそかの日
おじいさんがお正月の餅(もち)を買うために
一生懸命作った笠を町に売りに出かけます。

雪が降っていて
途中の道のわきに
お地蔵様が六体立っていました。

それを見たおじいさんは
お地蔵様が寒そうで可哀そうに思い
売り物の笠をお地蔵様の頭にかぶせてあげました。

笠はあいにく五個しかなかったので
自分がかぶっていた手拭いを最後の地蔵様に差し上げて
家に帰ってきました。

おばあさんにこのことをいうと、おばあさんは
「ええことをしたねえ。餅がなくても正月は迎えられる」
と言ってにこにこしています。

お地蔵様の嬉しそうな顔を思いながら
眠りにつきます。

すると、夜更けに
お地蔵様達がお米や野菜やお金を持って
家の軒先においていきました。

それを知ったおじいさんとおばあさんは、手を合わせ
「ありがたいことだ」とお地蔵様に感謝をささげました。

こんなお話でした。

お地蔵様に笠を差し上げて、布施の行いをしました。
それも素直できれいな思いで、おじいさんは布施をしました。
おばあさんもおじいさんのしたことを喜んでいます。

普通は、餅も食べられないので、「そんなことして、どうするの!腹ペコで死んじゃう」と、おじいさんが叱られそうですが、そうではなかったわけです。

この場合は、善いことをして、結果がすぐ現れてきたわけですが、そのような場合もあるし、結果がすぐ現れず、忘れたころに現れる場合もあります。中には、死んで後、ということもありましょう。でも、善の行為は、必ず自分の身に返ってくるのが法則です。悪もまたしかりです。 布施心は他の人が見ていてもすがすがしいものです。

お金がたくさんあればあの世に楽にいける?

こんなおじいさんもいました。近隣の和尚さんに聞いた話です。

そのおじいさんは、ずいぶんケチだったようで、真冬でも小さな石油ストーブで、布団も粗末なものを使っていました。食事も粗食であったでしょう。

おばあさんが先に逝ってしまっていたので、それからは不自由な生活を強いられたと思います。

そんなおじいさんも、いつの日か、誰にも知られず家で亡くなっていったそうです。

ずいぶん後で亡くなっていたことが知れたそうですが、遠い親戚の人は、貧乏な暮らしをしていたと思っていました。でもその家を整理していると、タンスの中に大金が入っていて、みんな驚いたということです。

つい最近でも、八十代のおじいさんが、盗まれないように、火事になっても安全なようにと、今までためておいた3憶6,000万円のお金を庭に埋めておいて、そのお金が盗まれたというのが新聞などで報道されていました。

おじいさんは、それからしばらくして亡くなったようですが、せっかくためたお金を全部盗まれて亡くなったのは、少し哀れな気もします。

この世ではお金があると安心です。これは確かなことで、大切なことでもあります。

貯えがなくて、病院にもいけない、葬儀のお金も出せないでは困ります。旅行など出かけても、余分にお金を持っていけば安心です。

この安心感は、あの世に通じていくのでしょうか。

たくさんお金をためて、死んでいく。
この世では安心であったのが、あの世の旅に立つとき、本当にお金があれば安心していられるのでしょうか。

「これだけお金があれば、安心して死ねる」と思っていたら、あの世にいったら一文なしになっているかもしれません。

あの世に持っていけるものは、その人の心です。

心が善に染まっていれば善の世界へ帰れます。
心が悪に染まっていれば、暗い世界へ堕ちるのです。
お金は持っていけません。

よくこのことを悟っていることが大事なのですが、どうも、お金があればあの世の旅も安心だと思っている節(ふし)があるように思えます。

次の世からの声をよく聞かなくてはなりません。「与えよ。布施心を培え」と。

こんなおじいさんもいました。

もう亡くなってしまいましたが、この方がまだ生きているころ「そろそろ年を取ってきたから、若い人にちゃんとしておきたい」と思い、郵便局へお金を下ろしに行ったのです。

郵便局の人は「おじいさん、こんなにお金を下ろして何をするの」と聞きます。

するとおじいさんは「世話になった若い衆(しゅう)に分けてあげるんだよ」といいます。

そして生きているうちに子供や孫に財産を分けてあげたのです。

またそのおじいさん、お寺にもやってきて「和尚さん、寄付ができなくて悪かったねえ」といって、特別に寄付(布施)もしてくれました。

そのお金で衣を買い、おじいさんが亡くなったときに、その衣をおじいさんにかけてあげたことがありました。

おじいさんの貯金通帳からはお金が無くなってしまいましたが、分け与える善の行為が、おじいさんの徳を高め、あの世への旅立ちの時には、きっと善の世界へ帰っていったことでしょう。

欲を捨てる行為が、逆に多くの幸せを拾うのです。そう、天の声が聞こえてきます。

人として間違った生き方の声も聞く

善いことばかりを聞くのでなくて、人として間違っているぞ、という声も聞く必要があります。

1回目にお話ししたソクラテスというギリシャの哲学者には、ダイモンという神霊が出てきて、してはいけないことだけを言ったといいます。

ソクラテスは死刑になったのですが、そのダイモンは「毒は飲むな」とはいわなかったので、ソクラテスは毒杯を仰ぎ死んだといいます。

「自分勝手な考えはいけないぞ」
「傲慢な思いはいけないぞ」
「貪欲な心はいけないよ」
「おこっちゃいけないよ」
「人を恨んじゃあいけないんだよ」
「嫁の悪口をいっちゃあいけないよ」
「若い衆に不平不満をいっちゃあいけないな」
「年寄りを粗末にしちゃあいけないよ」
「仏様に不平をいっちゃあいけないぞ」
「神様に不満をいだいちゃあいけないよ」

と、そんな声を聞くいことも大事であると思います。

自分がこのように思った時、「これは自分が思ったことでなく、天から来た声だなあ」と、このような聞き方をするのです。

「不平不満をいっちゃあいけないなあ」と思った時、次の世から聞こえてきた声、発信音なんだ思うことです。

(つづく)