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法話

命、終わる時は楽しい 3 天から声を聞く

天から聞こえてきた音楽

そこで私たちは生きているうちに、見えない世界からの声を聞く必要があります。

次の世から発せられている発信音を聞くのです。天から聞こえてくる声といってもいいかもしれません。

その音色を聞き分け、「ああ、今はこう生きることが正しい生き方だ」と、自分を戒めるのです。

若い時にはお坊さんの話やお寺にはなんの興味もなかった人が、年を積み重ねていくほどに、精神的なことに目覚め、心の大切さや、信仰を集める神社仏閣を巡って、精神の安らぎを求めようする人が増えてきます。

これも次の世からの声を聞く精神的な支度が必要になってきたからだと思います。

なかには、若くても教えを求め、学び、その教えにそって生きようと努力している人もいます。このような人は上根(じょうこんと読み、魂がすぐれている意味)の人なのでしょう。

『今昔物語』には、実際に亡くなるとき、音楽を聞いたという話がでてきます。

この物語の15巻目には、往生についての話が54話載っています。その3話目に東大寺の明祐(みょうゆう)というお坊さんの話がでてきます。

天徳5年ごろと書いてありますから、10世紀の半ばごろになります。『往生要集』を著した源信が生きていたころです。

今は昔、東大寺に明祐という和尚がいた。
修行に励み、みんなから尊敬を集めていた。

ある2月の17日の夕方、
弟子たちが『阿弥陀経―あみだきょう』を唱え終わるや、
明祐和尚が、

「お前たちは前のように『阿弥陀経』を唱えておれ、
私は今、音楽が聞こえている」

と言う。

弟子たちは、

「今、そんな音楽は聞こえませんが、何をおっしゃっているのですか」

と答えると、

明祐和尚は、

「私は正気を失ったのではない。まさに、音楽が聞こえる」

と言った。

弟子たちはこれを不思議に思っていたが、
翌日、明祐和尚は心の乱れもなく、念仏を唱えながら、息絶えた。

臨終に前もって音楽を聞くからには、
極楽に往生したのは疑いがないと人々は尊んだ。

こんな話です。

臨終に音楽が聞こえてきたといいます。

来迎図といって阿弥陀様が浄土の世界から紫の雲に乗り、菩薩様たちを従えて降りてくる図があります。その図に出てくる菩薩様たちは、それぞれに太鼓や琵琶、笛を持っていて、音楽を演奏しています。

きっと、臨終に音楽が聞こえたのは、仏様たちが迎えにきたからでしょう。
それも、明祐和尚がこの世でしっかり生きた証だと思われます。

良心の声

音楽を聞くと心が和(なご)んできます。私は朝、バッハなどのクラシックを聴きながら新聞を読みますが、なかなかいいものです。

おそらく天から聞こえてくる音楽も心が和み、幸せな気持ちになれるのだと思います。

この世の生き方の中で、心が和み、穏やかでいられるときに何が聞こえてくるのでしょう。それは良心の声です。

素直であれ、善を感じ取れ、人の温もりや慈しみの思いを感じ取れと、そんな声が聞こえてくるのです。良心の声は、神仏から聞こえてくる声と、私は思っています。

ある女性(61才)の投書を載せます。
「息子の心に残る祖父母の深い愛」という題です。

「息子の心に残る祖父母の深い愛」

この正月に息子たちが孫を連れ、我が家にやって来ました。

昔話に花が咲きました。
まだ小さかった息子たちは、私や夫にしかられると、
近所にある祖父母の家に行っていたといいます。

「ばあちゃんの作ってくれたうどん、店に出しても売れる味だったよな」

「ふかふかの布団でおねしょしてもしかられなかったよな」

「運動会、一緒に走ってくれたよな」

「おやじにしかられて外に出された時、
じいちゃんの家のコタツで寝てきたよ。
でも、理由なんか、じいちゃん、何も聞かなかったよ」

父は5年前に他界しましたが、母は今も元気でいます。

私の目の届かない所で、
大きな愛を惜しみなく与えてくれた父母に感謝しています。

私たちも孫の心に残るような祖父母になりたいと思います。

 読売新聞 平成15年1月22日

読んでいるとなぜか、心が温かくなってきます。
「ああ、いいなあ」という思いがしてきます。

おじいさんとおばあさんの孫にたいする愛の思い、これらを受け止めているのが良心で、良心を通して、この投書のなかに愛の温もりを聞きとることができるのです。

天から聞こえてきた声であり、次の世から聞こえてきた声でもあります。

「こんな温かな生き方を尊びなさい、大切にしなさい。
あなたも分かるでしょう。人としての価値ある生き方が・・・」

そう良心の声は、私たちに語りかけています。穏やかな心であったとき、きっと聞こえてくるはずです。

(つづく)