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法話

命、終わる時は楽しい 2 次の世がある

先月は、実際には命終わる時には恐ろしいかもしれないが、次の世があると思えばそうでもなく、また次の世は楽しいところかもしれない、というお話でした。では、続きのお話を致します。

水浴のすがすがしさ

先月、あの世の食事について書きましたが、今度は水浴(すいよく)についてです。

この世では温泉がいくつもあって、その温泉につかって身体を休めます。
日本では各地に温泉郷があり、訪れる観光客もたくさんいます。夏になると海に出かけては、海水浴をする人もいます。

そんな場所があの世にはあるのでしょうか。あれば、楽しみになります。

仏典(『大無量寿経』)では、次のように記されています。

池にある水は、望みに応じて、冷たい水と温かい水に調節でき、
そこで水浴するならば、身心ともに晴れ晴れとし、
喜びに満ち溢れて、心の汚れを洗い去ってしまうほどである。

その水は清く澄んで透き通っていて、
池の底の宝石の輝きは、池の底を照らしだしている。

流れるさざ波は、美しい声に代わり、
その声は真理の教えを説いていて、
聞くのに応じて、はかり知れない喜びにあふれるのだ。

こんな意味のことが書かれています。

この世の温泉に入るより、どうも気持ちがよさそうです。そう思うと、次の世も、決して悪いところではないような気がします。

そしてその国を「幸あるところ」と書いています。死んで後、幸あるところにいけるのであれば、とても楽しみになります。

また、その国では真理の教えがあって、それゆえに幸せな日々を送れるといいます。ここが大事なところでありましょう。

あの世の国に、家がある

臨死体験といって、死に瀕してあの世とこの世を行ききし、生き返ってから、その体験を語る人がたくさんいます。

松谷みよ子さんが書かれた『現代民話考』にはいろいろな不思議な話がでてきますが、その5巻目が「死の知らせ・あの世へ行った話」で、語り継がれた多くの方の、あの世から帰ってきた事例が載せてあります。

「あの世から帰ってきた人はいない」と聞くことがありますが、結構、あの世から帰ってきて、不思議な世界を話す人が多いのです。

そんな人の共通点は、「あの世があって、これから死んで帰るのは怖くないし、今いただいた命を一生懸命生きることが大切だということを教えられた」と言っていることです。

ある雑誌に、あの世の国に自分の家があったと語っている人がいます。女性の方ですが、20代の時、病で倒れて意識不明になり、その時、白い光を放った人があの世を案内してくれたといいます。

しばらく案内されていくと、あるところに未完成の家があり、それが彼女が亡くなってから来る家で、「これからこの家を完成させるのが、あなたの人生である」と教えられたといいます。

そしてお母さんの呼ぶ声がして、生き返ったという話がありました。

この話は昭和のころの話ですが、あの世の国に家があるという話は、平安時代にも出てきます。『日本霊異記』(にほんりょういき)という仏教の説話集がありますが、これは平安初期に南都薬師寺の景戒(きょうかい)というお坊さんが編んだものです。

この説話集を編んだ理由は、

 善い種をまけば善い結果を得、悪い種をまけば悪い結果が現れる。
そんな実例を示さなければ、何を基準として間違った考えを直し、
行いのよしあしを決めることができよう。

とあります。

そして、他国ではなくて、身近な日本の国の不思議な出来事をあげて、この『霊異記』を編集したというのです。

この『霊異記』の中巻の16話に、「布施しなかったことや、生き物を助けてあげたことによって、この世で善悪の2つの報いを受けた話」が出てきます。

聖武天皇のころといいますから、東大寺が建てられたころ(745年)になりましょう。この話の出所は讃岐(さぬき)の国ですから、今の香川県になります。
物語が長いので、主要なところをかいつまんでお話します。

聖武天皇のころ、讃岐の国に、一人の裕福な人がいた。
その人はとても慈悲深く、自分の食べ物を貧しい人に分け与える人だった。

そこの使用人になっていた一人の男は、意地悪くケチであったが、
あるときカキを十個、釣り人から買って、海に逃がしてあげたことがあった。

そんなことがあって、その男が山に薪を取りに入った。
不覚にも、松の木から足を踏み外し、落ちて死んでしまったのだ。

この男の家の者が卜(うらな)いをする人を呼んでみると、
「この男の身体を七日間、焼いてはいけない」という。

言われたように七日待つと、男がなんと生き返り、
男は妻にあの世で体験したことを話したのだ。


私の前にお坊さんが五人、
後ろにその信者が五人ついて、あの世の道を行った。

すると前方に黄金の宮殿がそびえている。不思議に思って、
『あれは誰の家ですか』と聞くと、お坊さんは
『お前の主人の家だ。慈悲深い日ごろの功徳で、この宮殿を作ったのだ』
と教えてくれた。

そのお坊さんは、また私に尋ねた。
『私たちが誰か分かりますか』
『いえ、存じません』

すると

『私たちはあなたが、海に逃がしてくれたカキです』と言う。

しばらくいくと、ある門があって、その左右に鬼がいた。
私を見ると、刀を振り上げ切ろうとしたが、お坊さんたちが助けてくれた。

門の中に入って七日、食べ物はあったのだが、
口に入れようとすると火に代わり、飢え渇いた。

お坊さんたちにこのことを聞くと、
『お前は生前、ケチで分け与えようとしなかったからだ』
と教えてくれた。


この男は、そんな地獄の様子を見て、七日後に生き返ったのだ。
それからこの男は、水が土地を潤すように、人にものを施すようになったという。

このお話から、景戒がいうように、善いことをすれば善いところに行き、悪いことをすれば悪いところに行く。そんな教えを、ひとつの出来事のなかに見ることができます。

この『霊異記』の中で、あの世に黄金の宮殿が出てくるのは、私が調べた限りでは、これ一つです。

こう考えていくと、どうも次の世があって、この世で善を積んで生きれば、尊い世界へ帰れるのだということが分かります。

ですから、この世で恥ずかしくない生き方をしなければならないのです。

あの世があって、この世で善を積み、人として恥ずかしくない生き方をしたい、という思いは尊いことであり、そう生きている人を皆が尊敬できると思うのです。

そして、老いてますます尊敬される人になるわけです。

この世限りの生き方

先月号では、「次の世を信じなければどうなるか」というお話を少ししましたが、生き方としてこの世限りであるという視点で考えると、おそらく多くの人が、自分の好き勝手な生き方に流れていくと思います。

あるいは、この世を楽しく生きればいい、という考えに流れていくでしょう。
なぜならば、人は易(やす)きに流れやすいからです。

アルバイトで、時給1,200円と1,000円とでは、1,200円を選ぶでしょうし、1,000円のほうがずっと楽な仕事であれば、1,000円のほうを選ぶ人のほうが多いかもしれません。

悪いことをしても死んだらそれでお終(しま)い、であるならば、この世で見つからなければいいわけです。
見つからないように、上手に生きられる人が幸せを手にする確率が高くなるでしょう。

一生懸命学び、人のお役に立って生きてきた人と、楽ばかりして、人に迷惑をかけ、悪を積み重ねても反省もしないで生きてきた人が、死んだらそれでお終いで、みな同じでは、不公平で納得しがたいものがあります。

私が毎日唱えているお経に『大慧禅師発願文―だいえぜんじほつがんもん』があります。

大慧という和尚様の願いが書かれたお経ですが、その中に亡くなってすみやかに仏界に帰ったとき、目(ま)の当たりに仏様にお会いし、仏様から、「お前は正しくよく悟ったと言われ、さらに多くの人を救うために努力したい」という意味の言葉がでてきます。

これが本当の世界なのです。

(つづく)