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法話

命、終わる時は楽しい 2 次の世がある

次なる世に近い人

この世の人生を終えてあの世へ行く場合に、次なる世という言葉で表現したのが、作家の遠藤周作さんでした。

『死について考える』という本の中に、

昔老人が尊敬されたのは、
「次なる世」に近い人だったからです。

「次なる世」を信じなくなってから、老人は尊敬の対象ではなく、
せいぜい憐憫(れんびん・あわれみの意味)をかけるべき相手になった。

と書いています。

遠藤さんが亡くなって、それから3年ほどたって、奥さんの遠藤順子さんが、『再会』という本をだしました。

その中で、旦那さんは最後の一年は、口も聞けず、手を握り合うことでお話をしていたようです。手を握ることで相手の気持ちが分かったのです。

そんな関係であったから聞けたのでしょう。臨終の間際に、遠藤さんが言ったのです。「光の中に入った。母も兄にも会えた。安心しろ」と。

遠藤さんは次の世を信じ生きてきたのでしょう。

前にお話ししたように、今日が終わって明日があるように、この世が終わっても次の世があり、肉体が朽ちて焼かれてもお終いではないと信じていたのです。

次の世に近い老人が尊敬されたのは、次の世を尊いものと思っていたのでしょうし、次の世を信じなくなって、もう死ぬだけで何も残らないと考えるならば、可哀そうな人だと思ってしまうのも当然かもしれません。

次の世を信じなければ、どうなるか

そこで、次の世を信じないとどうなるかを考えてみます。

これは別の言い方をすれば、私たちの命はこの世限りとなります。死んだらそれでお終いということになります。

そう考えいくと、どうなるのでしょう。この世で楽しんだこと、経験したこと、支えあい助け合った人たちとの想い出も無くなってしまいます。
夫や妻のことも、子供のことも、あとかたも無くなってしまいます。

死後はもちろん、美味しいものも食べられません。テレビも見ることができません。お酒も飲めない。きれいな服も着られない。旅行にも行けないし、温泉にも入れません。
美しい自然に接したり、チョウや花を見ることも、鳥の声を聞くこともできなくなってしまいます。

そうなってしまったら、みじめの一言です。哀れで痛々しい思いがします。死に近づいた人が、憐憫の眼で見られるのも分かるような気がいたします。「ああ、あの人は死が近づいている。死んだら何もかもお終いで・・・。ああ、可哀そうだ」となるわけです。次の世を信じなければ、おそらくこのようになってきます

仏典が著すあの世の世界

それでは仏教では、どうあの世の世界を表現し伝えているのでしょうか。

『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』という仏典に、あの世の浄土の世界が示されています。お釈迦様が弟子の阿難(アーナンダ)に説いているものです。

昨年の『法愛』8月号で、「光の世界」というお話をいたしましたが、そのとき菩薩の心について、このお経から引用したことがありました。浄土の世界については、菩薩の心が出てくる少し前に出てきます。

私は禅宗ですので、浄土の世界のことはあまり説きませんが、心の内にある青い山の中を分け入って仏の泉を探すように、浄土の世界へ分け入り、その世界の様子を窺(うかが)ってみましょう。

まずは食事についてです。

次の世にも食事があると説いています。その経典(『大乗仏典』中村元編・筑摩書房)の部分を少しまとめて書いてみます。

もしも食事をしたいと思えば、
金銀などからできている食器が、思いのままに目の前に現れて、
しかもそこには、それは見たこともないような美味しそうな食べ物がおのずと盛られている。

しかしながら、実際に飲んだり食べたりするのではなくて、
その色や香りをかぐだけで、飲んだり食べたりした気持ちになり、食欲が自然に満たされるのである。
そして身心ともに安らぎに満たされ、味に執着することもない。

こんな世界が次の世にあると記していまます。実際にあるのなら、次の世が楽しみになります。

でも、ここで大切なことは、この世をどう生きたかによって、帰る場所が違うことも知っておかなくてはならないことです。

(つづく)