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法話

心の食事と良き人生 3 「「良き人生」という定食」

先月は「肉体と戒体(かいたい)」ということで、肉体を維持していくには食事が必要で、同じように心の体(戒体)にも教えという食事が必要で、その教えを頂くことで、しっかりしとした戒体ができるというお話をしました。次に良き人生を送る定食のお話をいたしました。続きのお話を致します。

自分の人生は誰も代わってくれない

定食はご飯とお味噌汁が付き物です。人生の定食には、苦しみと幸せが付き物です。ですから、苦しみの味を少しお話し致しました。
ではその苦しみが、どう人生と関わりを持っているのかをもう少し考えてみます。

まず人生で考えられることは、自分の人生は誰も代わってくれないということです。

役職や社会的な立場でいえることは、代わってくれる人はたくさんいます。
今、私は護国寺の住職をしていますが、もし私がいなくなれば、護国寺が無くなるということはありません。誰か必ずほかの住職がきて、お寺を護持してくれるでしょう。

総理大臣でも、任期がきたり、支持率が下がれば、別の適した方がでてきます。タレントでも、人気を維持することは非常に難しく、新しい若い人に代わっていくのが常です。オリンピックで金メダルを取っても、4年後のオリンピックで同じ人が金を取るには至難の技で、違うすぐれた人が出てきます。

でも自分自身のことは、誰も代わってもらうことはできません。

病気で寝ていて、それが不治の病であった。できるなら代わってもらいたいと思う。でも自分自身のことですから、誰も代わってはくれませんし、代わってあげるといわれてもできないことです。

子供を亡くした母親が「できれば、私が代わってあげたい」と嘆く姿を見たことがありますが、代わることはできません。
3年も寝たきりで、1日だけでいいから、元気な人と代わってもらいたいと思ってもできないのです。自分の人生もそうです。

今日一日生きたけれど、明日の人生はあなたにあげる、といってもできません。今日一日一緒にいて、「人生を共有しよう」と思っても、そこから互いが学べることは異なったものになるはずですから違った人生になります。

たとえ同じ出来事を経験しても、その人の見方や考え方で、違った出来事として受け止められるのです。

同じ講演会へいっても、まったく同じように、そのお話を聞いている人はいないでしょう。1割は分かったという人や、8割は分かったという人、体験のお話が良かったという人や、笑いがよかった、講師の先生がよかったとか、それぞれです。

子どものころの思い出や出来事も、関わりを持つ人やその時の自分の思いによって、ずいぶん違った人生になっていきます。

いつだったか拉致にあった新潟の曽我ひとみさんが、お母さんの71才の誕生日のときに手紙を読んだことがあって、それが報道されていたことがありました。

その手紙で曽我さんの小さいころのことを語っていました。

小学校6年のときに、友達が新しいセーターを着ていた。
ほしくて、タンスにあったお金を持ち出してセーターを買った。

仕事から帰ってきた母がそれを知って

「新しい服を買うてやれんもんだし、
ひとみが一つセーター買うてきたんだな」

と泣きながらいう。

私も泣きながら
「絶対にもうこんなことせん。許してな」

確かこのような文だったと思います。

お母さんが怒るのでなく、泣きながら曽我さんに、みじめな思いをさせてすまなかったと母の思いを伝えているところは、どんな諭し方よりもすぐれているように思えます。子を愛する母の思いが通じてきます。

ですから、曽我さんも素直に謝ったのだと思います。このような体験は、曽我さんの心の宝として残っていることでしょう。

誰も代わることのできない、曽我さんだけの大切な人生の出来事です。

みなそれぞれに人生の課題をもっている

人生はなぜ、誰も代わってあげることができないのでしょう。
それは、ひとそれぞれに違った学びの課題を持っているからです。

その課題は「信頼」かもしれないし、「愛を学ぶこと」かもしれません。
「優しさ」「勇気」「許し」「勉学」「苦労を厭わず」かもしれません。

そして、その人生の課題がチラッと見えるときがあるのです。それが、苦しみの時なのです。苦しみから逃げないで、その苦しみを乗り越えていくことで人生の課題を解いていくことができるのです。

たとえば漢字テストがあったとします。
10点満点であった。合格点は8点以上。

いくら頑張っても6点しか取れない。
苦しくて漢字を見るのも嫌になった。
そこで投げ出せば、卒業できない。

 このときの課題は、「もう少し勉強しなさい」ということでしょう。

あるいは家庭がうまくいかない。
それで苦しくてたまらない。
家にいたくない。飛び出したくなった。

ふとよった本屋さんで、「自分の不幸を人の責任にしてはならない」という本に目がとまった。
その言葉を知ってハッとした。

静かに思った。
すると私はいつも

「自分の不幸は妻のせいだ。夫のせいだ。
嫁のせいだ。姑のせいだ。
いやこの家に生まれてきたのが悪かった」

と思っていた。
自分の不幸をみんな人やまわりの責任にしていた。

自分はどうであったか。
こんな自分をいつも受け入れてくれる家族がいる。

そう思って、家に帰り、感謝の言葉を言うようにした。
「ありがとう」「ありがとう」と、そんな言葉が家庭の中を流れていった。

やがて春になって花が咲くように、ありがとうという言葉が春風のようになって、
家族みんなの顔に笑顔という花を咲かせていった。

気がついてみると、あたたかな家庭になって、
いつもここにいたいという家に代わっていた。こんな人もいます。

この人の人生の課題は「不幸を人の責任にしない」かもしれませんし、「感謝」かもしれませんね。

このように人生の課題が見えるとき、それは苦しみのときである場合が多いのです。そして苦しみを乗り越えて、課題を解決していけば、心の体である戒体が、また強くなっていきます。

苦しみを分かち合う人たち

苦しみで言えるもう一つのことは、自分が苦しくなる時、まわりが見えなくなることです。自分ばかりが苦しいと思うので、自分のことばかり考えてしまうのです。

このときに、「まわりの人が共に苦しんでいる、あなたのことをいっぱい心配している」ということを知ると、苦しみから抜け出せることがあります。

その発見を苦しみのなかでしなくてはなりません。「そんなこと分かっている」と言いたくなる場合もありますが、それは真に分かっているとは言えないわけです。

苦しみという同じ定食を食べて、「これほんとうに苦(にが)い味がするわね」と言っている人がいるということです。

ずいぶん昔になりますが、本山の布教師として全国をお話して歩いていたことがありました。

長い時で3、4日間ほどお寺を留守にするのです。あるとき娘から聞いたのですが、「小さいころ、お父さんがいない時は、お母さんがお父さんを忘れないようにっていって、食事の時、お父さんの写真をおいて、そこでみんなで食事をしていたんだよ」と。

そういえば最初の子供を授かって6ヶ月くらいして、本山の教化センターに単身赴任し、布教教化の勉強を2年ほどしていたことがありました。

日曜日には法事などが入っているので帰ってくるのですが、金曜日の夕方、家に帰ってくると、娘が私の顔を見て知らない人と思い泣くのです。そんな出来事があったので、家内がお父さんを忘れないようにと写真を出してくれていたのです。

この話は娘から聞いて初めて知ったのですが、私の知らないところで、支えてくれる人がいることをありがたく思ったものです。

苦しみのときには、必ずどこかで共に苦しみ見守ってくださる方がいるのです。それは家族であったり、友人であったり、あるいは見えない世界の神仏かもしれません。

これは真理であり、心の食事として、常に忘れないでいることです。こう信じることで、人は苦しみを乗り越え、人生の課題に立ち向かっていくことができるのです。

苦しみは自分の人生の課題が見える時であり、自分の心を磨く砥石であり、良薬は口に苦(にが)しというけれど、その苦しみを味わうことで、人生の課題を解決し、自分が大きくなっていくことができます。

そしてその苦しみを陰(かげ)で支えてくれる人が必ずいるということです。そう信じると勇気がわいてきます。

(つづく)