法話
心の食事と良き人生 2 「肉体と戒体」
先月は第1回目として、心にも食事が必要であり、それは教えという食べ物であるというお話をいたしました。そして心の食事をいただくことで、しだいに戒体(かいたい)という心の身体が出来上がっていくお話をして終えました。続きのお話をいたします。
戒体のできていない心
肉体を維持して行くためには食事をしなくてはなりません。健康な心の体である戒体を作っていくのにも、心の食事である教えがいります。
そこで戒体のできていない心とはどのような状態をいうのでしょう。肉体の体でいえば、不健康な体になります。
恥ずかしいことですが、私が保育園のころの話をします。
私が通っていた保育園の隣にお寺がありました。そのお寺の隠居であった裏の庭に大きな栗の木があったのです。
秋には栗がなって、それも大粒の栗でした。毬(いが)からこぼれ落ちた栗が地面にいっぱい落ちていて、それがほしくて食べたくてたまらない私でした。
そこで何をするにも積極的な私は、保育園の休み時間を見はからって部下を連れ(ガキ大将だったので・・・)、栗を盗みにいったのです。
ありました。ありました。大きな栗が地面にいっぱい落ちています。その栗を小さな園児服のポケットにいっぱいつめて、保育園に帰ってきました。
そしてその栗をみんなに見せびらかし、「どうだ見ろ、この栗を。俺が盗んできたんだ。すごいだろう」と言って回ったのです。
そこまではよかったのです。でも誰かが先生に告げ口をしたのです。
そうとも知らず、もう一回、盗みにいきました。帰ってきたときに、先生が保育園の玄関で仁王立ちしていて、「かんじん君!何ですかそれは。盗んできたんですね。そんなことしちゃ、だめでしょ!」と、すごーいけんまくで叱ります。
たくさん怒られたあと、せっかく勇気を出して盗んできた栗を全部返しに、お寺にいきました。
「かんじん君、謝りなさい」「ごめんなさい」心のなかでは、「こんなにたくさんあるんだから、少しくらいはいいじゃないか」と思っていて、反省の思いは少しもありません。
その日は保育園が終わっても家に帰してもらえず、居残りです。ずっと自分の机の前に立たされ、誰もいない教室で、反省をさせられました。
盗みは悪いことで、それを悪いことだと思わない。さらには、悪いことをしたという反省もしない。「こんなにあるから少しくらいはいいだろう」と開き直る。
これは心が病におかされ、戒体のできていない状態といえます。
保育園児ですから、仕方のないところもありますが、ずっとこのまま大きくなっていくと、万引きに発展していくわけです。
最近はお年寄りの万引きも増えているようで、戒めの心ができていないことが分かります。
万引きといえば、こんな事件もありました。
ある本屋さんで漫画を6冊ほど盗んだ中学生がいました。
これが1回目の過ちです。
捕まったとき、「あなたの名前をいいなさい」と店主が言うと、青年は偽りの名前をいったのです。住所も偽りでした。
これで2つ目の過ちを犯しました。
そこで店主は警察を呼んだのです。警察がきて、問い訪ねると、隙をみて急に逃げ出しました。
これが3つ目の過ちです。
逃げていくとき、踏み切りがあって、ちょうど電車が来るときで遮断機が下りていました。でもその遮断機の下をくぐりぬけ逃げようとしたのです。
結局電車に引かれて、青年は死んでしまいました。
嘘をつき続けたことで、死という苦を受けたことになります。小さな嘘でも、つき続けると不幸という苦を受けることを知っていなくてはなりません。
誰も見ていないときに悪い心は起ってきやすいものです。あるいはとっさのときに、自分を正当化して嘘をついたり、その場から逃げてしまうこともあります。
車の引き逃げもそうでしょう。
そんなときに、「盗んではいけない」「嘘はいけない」「常に正直であれ」という教えを食事として心に常にいただいておくのです。
また「もし悪いことをしたら、いけないことをしたと認め、これからはしないと反省する」という教えも心にいただくのです。
たった一回の心の食事でなく、何度も何度も心に教えという食事を取って、心を正しい方向へ向けていくのです。
戒体が悪をとどめる
私は保育園で先生に「盗んではいけません」と叱られ、人として正しく生きる教えを心にいただきました。これはありがたいことだと思っています。
それから十数年たち、修行僧堂に行ったときのことです。
私が行った僧堂は檀家さんがあったので、修行をしながら、法事や葬儀のお手伝いもしました。
ある日遠方から檀家さんがお墓参りに来られ、そのお墓でお経をあげてくれるようにといわれました。
たまたま、私がお経を読むように上の方に言われ、お墓までいって簡単なお経をあげさせていただきました。
お経が終わって、その場で、檀家さんがお布施をくださったのです。
赤い熨斗袋(のしぶくろ)に御布施と書いてあります。そのような熨斗袋を直接いただいたのは初めてだったので、思わず幾らぐらい入っているのか気になって後ろを見ると、3万円と書いてあります。
もう30年も前のことですが、お墓のお経をあげるだけで3万円とは、多額です。
そこで私の悪い虫がふつふつと出てきたのです。
「こんなにあるんだから、少しはいいだろう。
3万円を3千円にかえて、2万7千円を私がいただけばいい」と。
すると良い虫(良心)がいいます。
「そんなことをしてはいけない。
盗みや嘘はいけないって、教えてもらっているでしょう。
あなたはいま修行にきているのだし、なおさら心を律しなくてはいけません」と。
しばらく心のなかで悪い虫と良い虫の闘いが続きます。悪い虫に負けてしまえば、戒体がまだできていないことになります。
「この続きは来月します」というと読者のみなさんに心労を与えてしまいますからいいますと、なんと良い虫が勝ったのです。
そのお布施の袋をそのまま、上の人に持っていきました。
後で檀家さんが上の人と、お客様を接待する部屋でお茶を飲みながら談笑していたので、正直に持っていってよかったと、心の底から思ったものです。
もしあの時盗んでいれば、心が大波のように揺れて、苦しい思いがしたことでしょうし、その悪なる思いを消すために、どれだけの償いをしなくてはならないかを思うと、正直さは、宝のように思えます。
しっかりした戒体を作る
修行を終えて自分のお寺にもどり、住職として働くことになりました。
今までにさまざまなことを学ばせていただいていますが、その中でこんな体験があります。
あるとき久しぶりに檀家のおばあさんがお参りにこられました。
本尊さまとご先祖さまにお参りし、寸志を本尊様の前に置いていかれ、
笑顔で帰っていかれました。
後でその寸志をさげて、お寺の帳簿につけようとすると、
なんとそこには5万円入っているではないですか。
「ああ、あのおばあさん、よく布施ができるなあ」と、
そのときは思わなかったのです。
「おばあさん、間違えたのかもしれない。1万円札と千円札を・・・。
目も不自由だし、年金暮らしだし」
そう思って、おばあさんに電話したのです。
「もしもし、熨斗袋に5万円入っていましたが、
1万円札と千円札を間違えませんでしたか」と。
するとおばあさんが「そうでしたか、どうもおかしいと思っていたんです」
そういってまたお寺にこられ、
5万円をお返しすると、3千円を包んだ寸志をおかれていきました。
保育園のころに、「こんなにあるのに少しくらいはいいだろう」といって盗みをした同じ人が、今度は5万円を多いと判断し、わざわざおばあさんに電話をかけ、3千円と代えていただいたのです。
私としては、「きっと困っているかもしれない」という判断をして電話をしたわけです。盗みという観点から見れば、ずいぶん私も戒体ができて、修行がすすんだのだと思ったのでした。
でもさらに研鑽を積み、教えを学んでいく(心の食事を取っていく)と、1万円札を千円札と間違えたとはいえ、5万円を布施できたのを3千円にしてしまったのは、おばあさんの「布施の精神」をつぶしてしまったかもしれないと気づくのです。
「布施をすることは自らの汚れを捨て、清らかな心を取りもどすことでもあり、また慈しみの心を培うための大切な修行」なわけです。
もしあのまま受け取っていれば、おばあさんの徳が培われ、きっとどこかで神仏に守られるという幸せを手に入れたかもしれません。
心の世界は、難しいものです。ですから、学びが常に必要なのだと自戒しています。
昨年(平成20年)の2月、国際エコノミストである長谷川慶太郎氏の「日本経済の動向と企業経営のあり方」というお話を聞く機会がありました。
そこで、これからの企業は楽には経営ができないということのなかで、研究開発は勿論のこと、正直者が勝つ時代となると話されていました。
私にとっては、正直者とは、心の問題で、道徳や宗教の説く分野であると思っていたのですが、企業においても、心を正すことの必要性を説いていて、根本は同じであるのだなあと深く思ったのです。
現在、正直でない企業がお客様の信頼を失い潰れていきます。正直に商売する、正直に人として生きる。そういう心の食事を常にとっていくことが大切なわけです。
一つの教えを口ずさみ、その教えのように自分が変わっていきたいと強く思う。
食事を毎日三度三度いただくように、教えも毎日いただいていくことが、心の健康な体、戒体ができていくということを知っていただきたいと思います。
(つづく)