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法話

心の食事と良き人生 1 「心の食事と栄養素」

今年1月からは「心の食事と良き人生」というテーマで数回に分けてお話を致します。
このお話は、平成15年に伊那市の合同庁舎で、食生活改善推進協議会の総会でお話したものです。少し書き直しながら、お話しいたします。

食事のバランス

ごく普通に考えて、心に食事があるとは思いません。食事といえば、自分の肉体を維持するためにするもので、食事の取り方しだいでは健康に影響も出てきます。

昨今では健康に関する本がたくさん出ていて、10冊ほど読み進めると、ある本では「水を飲みなさい」と書いてあり、違う本では「水をあまり飲んではいけない」と書いてあります。

「塩を取りすぎてはいけない」とか「よく塩を取りなさい」「牛乳はよくない」「牛乳はよいから飲みなさい」とか、反対のことを書いていて、「じゃあ、どうすればいいの」と本に苦情を言いたくなるときもあります。

さらに健康に関する本を読みすすめていくと、要は自分にあった食事をするのがよいのだと分かってきます。分かってくるのですが、それを発見するのが、また難しいのです。

自分の体調をよく見定め、ストレスをためずに、玄米(ご飯)、味噌汁、野菜、海藻、果物など中心にとっていくのがいいと分かってきます。

「なるほど・・・」と思ったのが、四季にしたがって、野菜を取ることでした。自然は知らないところで私たちを守っていてくれているのが分かります。

ある本にこんなことが書いてありました。

春は「目を覚ませ」という季節だから、フキノトウ、タケノコ、セリ、ウド、ワラビ、ゼンマイなどのあくの強いものか、緑の濃いものを食べる季節だといいます。

夏は「汗をかけ」という季節で、ウリ、キュウリ、スイカ、メロン、トマトなど、生野菜や果物を取るとよいと書いています。
またミョウガやラッキョウなどの香辛野菜が食欲を増進させるようです。

秋は「エネルギーを蓄えろ」で、米、イモ、キノコ類が出てきて、冬は根のある野菜、レンコン・ニンジン、ネギ、ゴボウ、里イモなどを取り、寒さに負けないよう力をつけるわけです。

 『なぜ「粗食」が体にいいのか』帯津良一・幕内秀夫 三笠書房

季節に取れる野菜をその季節に応じて取るのがよいというのですが、今では冬でもスーパーに、トマトやキュウリが売っている世の中ですから、食事に関しても、取り方の難しい時代であるかもしれません。

若い人たちはまともにご飯を食べない人もいて、コンビニで売っているようなお菓子類で食事をすませてしまって、精神的にも落ち着かない子が増えているようです。

ですから、学校でも朝食をしっかり取りなさいという指導をしているところもあり、バランスのある食事の大切さを思います。

教えを料理する

体に取る食事でさえ難しいのですが、心にも食事を取ることは、さらに難しいことかもしれません。

私のお寺では、行事のときや、女性部の理事会、法話会で、必ず私がお話を致します。

女性部の法話会では理事のみなさんがお重(じゅう・手料理をつめた重箱)を持ってきてくれて、お話が終わったあとで、それをみんなで分け合って食べます。それを楽しみに、法話会にこられる方もおられます。

そんな様子を見ていて、私もお重を作らなくてはならいけれど、「私のお重は心の食事にしよう。心の食事とは、私の法話で、それを心で食べてもらう、心で受け取っていただこう」と思うようになったのです。

「できれば、上手に料理をして、おいしいと言っていただけるよう、充分時間をかけ、食材としての体験や知識を集め、それらを教えに基づいて、どう組み合わせればよいのかを考えてお話を作ろう」そう思いながら、お話しを作るようになったのです。

目には眠るのが食事

お釈迦様の十大弟子の一人に天眼第一(てんげんだいいち・注→見えないものを見とおす不思議な力の意味)といわれたアヌルッダ(阿那律・あなりつ)という人がいました。

まだアヌルッダが悟りを開かないころ、お釈迦様の説法を聞いているときに、誤って居眠りをしてしまったのです。

それをお釈迦様から注意されたアヌルッダは、これからお釈迦様の前では絶対に寝ないという誓いを立てたのです。そのため、彼は失明してしまいました。失明したのですが、天眼という悟りの力を得たのです。

このときお釈迦様はアヌルッダに寝るようにすすめました。それでもアヌルッダは寝ず、失明してしまったのです。

そのときお釈迦様が語ったことは次の教えです。

アヌルッダよ、あなたはいつも托鉢にいって、町の人からいただいた食事を毎日取っているでしょう。
その食事は体を維持するためにはかかせないものです。

同じように目にも食事があるのです。それは眠ることです。
耳は声を聞くことが食事で、鼻は香をかぐことが食事です。
だから睡眠をとりなさい。

さらに言えば、心の食事は法(教え)なのです。
教えを聞き、心に取り込むことで、正しい生き方ができるようになるのです。

目には眠ることが食事であると教えます。そして心にも食事があって、それが法、すなわち教えであると説いています。

美味しい食事をいただくのは楽しみであり、嬉しいものですが、心の食事としての教えをいただくというのは、なかなか難しいことです。

私が保育園に通っていたときです。給食の時間にかす汁(酒かすの入った汁)が出たのです。それがどうしても食べられず、給食の時間が終わっても、かす汁だけ残ってしまいました。

先生は「かんじん君、最後まで食べなさい!」と恐い顔をします。友達のみんなは、給食を終えて外で遊んでいます。ガラス越しにその様子をみながら、かす汁とにらめっこです。

「世の中に、こんなまずいものを作ったのは誰だ」と思いながら、まだ食べられません。記憶では、どのように食べ終えたのか覚えていませんが、なんとか食べたようです。

でも、このかす汁も体には大切な栄養素として取り込まれ、筋肉を動かすエネルギーに変わるのです。

心の教えにしても、「そんなお話は聞きたくない」という人もいるでしょう。かす汁が嫌いで食べないと同じように、「教えを聞かなくても生きていける」と考えるかもしれません。

でも、かす汁が体の栄養素になっているように、教えも心の栄養素になって、生きる力を与えてくれるのです。

心の栄養

心に食事を取って、栄養を取り込むのですが、心の栄養素をいただくとどう自分が変化していくのでしょう。一通の手紙を紹介し、このことを考えてみます。

この手紙をいただいたのは私が書いた『精いっぱい生きよう そして あの世も信じよう』という本を読まれたのが縁です。

もう6年ほど前になりますが、仮に杉山さゆりさんとします。当時37才で、石川県の人です。

新潟からお嫁にきて、知らない土地で友人もできず、言葉(方言)の違いや、今まで暮らしてきた家庭の生活習慣、あるいは教育などの違いで、ずいぶん悩まれていたときに、私の本と出会ったようです。

途中からですが、載せてみましょう。

さまざまなことで悩み、そこから抜け出そうと、新聞の投稿コーナーやPHPなどを読んでは、いろいろ教えてもらい、心が潤いはじめて、何とか悩みも薄れてきた時にこの本に出会えました。

まるで本屋さんへ吸い込まれるように入り、この本を手にとって表紙の木彫りの仏様を見た瞬間、体中に電流が走りました。

そしてもったいなくて、毎日少しずつ少しずつ読み、今読み終えて(本当は10ページほど残してあります)、どうしてもこの本に出会えたことにお礼が言いたくて、不躾(ぶしつけ)ではありますが、お手紙致しました。

私は精いっぱい生きようと思います。

そして父母を思い、妹たちを思い、舅や姑を思い、義姉を思い、主人を思い子供たちを思い、過去にかかわった全ての人たちを思い、これから関わるすべての人を大切に思いながら、泣いたり笑ったりして生きていきます。

こんな気持ちになれたのも、この本と出会えたからです。嬉しいです。ほんとうにありがとうございました。

こんなお手紙でした。本人が今読めば、きっと気恥ずかしい思いがするでしょうが、心の変化がよく分かり、私にとってはとてもありがたいお手紙です。

食事にも和食や洋食などありますが、この本は「生き方を考える食べ物」といってもいいかもしれません。

杉山さんがこの本を読むことで、心の中に栄養が行き渡り、考え方が変わっていきました。「どんな環境であっても、精いっぱいいきよう」という考えになりました。

そして「自分のまわりの人たちを大切に思い、過去に関わった人も、これから関わりを持つ人も大切に思い、生きていこう」という積極的な思いに変わっていきました。

心に栄養をいただくと、こんなにも生き方が変わるものなのですね。

三度の食事をいただくように学ぶ

毎日の食事で思うことは、朝、ご飯を食べても、昼になればお腹(なか)がすいてきます。昼、何も食べなければ、夜までお腹が持つかどうかわかりません。一週間も食べなければ、衰弱して死んでしまうこともあるかもしれません。

食べたときには美味しくお料理をいただいて「美味しかった」といえるけれど、すぐお腹はすいてきます。だから一般には一日、三度の食事をいただくわけです。

同じことが心の食事にもいえるのです。「よいお話を聞いた。これからはそうありたい」と、そのときは思うものです。美味しいものをいただいたときに、「ああ、美味しかった」というのと同じです。

でも、三日過ぎ、一週間が過ぎていくと、「よいお話を聞いた。これからはそうありたい」と思っていたことが、しだいに薄れていって、一ヶ月もすれば、忘れてしまうのです。心の栄養素が枯渇(こかつ)してしまうのです。

ですから日に三度の食事をいただくように、常に教えを心に取り込んで、心の栄養を絶やさないような努力が必要になってくるわけです。

ここを見落とすと、お腹がすくといらいらしてくるように、不満や不平の思いに自分が翻弄されるはめになります。

(つづく)