ホーム > 法愛 3月号 > 法話

法話

光の世界 4 「教えの光」

先月は「金色の姿」というテーマで、菩薩の心と悪なる心についてお話し致しました。続きのお話です。

光の意味

菩薩の心は、柔和で、自分の感情や欲望を抑(おさ)えることができる自制心をもち、怒りや恨みの思いがなく、清らかで精神統一ができている心の姿をいいます。

反対の悪の心は、怠けていて修養せず、進んで善をしません。自分だけの利益をむさぼり、人の幸せに嫉妬(しっと)し、仏の教えを信じない心の姿をしています。

菩薩のそんな心が、眼に見える形の世界から見ると、仏像の後ろに光の表現として広がっている光背(こうはい)に現されているわけです。
その光背は光の量を現していますから、光の量が多いというのは、菩薩のような生き方をしているか、菩薩のような心を持って生きていることになります。

いつも柔和である人は、光が多く、禅的には悟れる人であり、自らの感情や欲望を抑えコントロールできる人は、光ある人でもあり、悟り深い人でもあるといえます。

逆に怠けて努力しない人、自分だけの利益のみをむさぼって生きている人は、光のない生き方をしている人であるといえます。
難しくいえば無明(むみょう)といいます。明かりが無い状態なので、行く道はとても暗く、そのまま進んでいけば、やがて不幸の穴に堕ちるのです。

こう考えていくと、光とは心のあり方に関係してくることが分かります。

繰り返すと、「柔和は光であり、自制できることは光である。怒りや恨みの思いがないことは光であり、清らかさは光である」といえます。 この柔和、自制、怒りを抑えること、清らかさは、教えとして説かれてきたものです。

お釈迦様は光としての柔和さを、とても大事にされたかたでした。仏典にはこう記されています。

究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、
次のとおりである。

能力あり、直(なお)く、正しく、ことばやさしく、柔和で
思い上がることのない者であらねばならぬ。

 『ブッダのことば―スッタニパータ―中村元訳・岩波書店』(文中の下線、筆者)

こう述べています。

平安な境地に達してしなければならないことに、柔和さが挙げられています。さらには能力あり、素直で、正しく、ことばがやさしく、思い上がることがないなどが、教えとして説かれています。

非常に簡単明瞭な教えです。実際に、究極の理想に至った悟れる人の実感であると思われます。これを教えとしてお釈迦様は伝えたわけです。ですから、この内容を含む教えが、光であるともいえます。

光の意味の一つとして、光は正しく生きるための教えであるといえましょう。

柔和な心

ここに出てくる柔和は、心がかたくなでなく柔らかで、人と和することを大事にできる心です。ですから自らのことをよく知り、また他の人のことをも理解できる力を持っているのです。

ある新聞に掲載された、49才の女性の書かれた投書から柔和さを学んでみます。

二階の子どもの部屋から、夫の歌う声が聞こえてくる。
私は夕食の片付けをしている・・・。

それから二十数年、子供たちが巣立っていった。

むなしい。食事も欲しくない。
笑うことも忘れる日々が続いていた。

眠れない夜が続いていた。
更年期の変化が私にあらわれていた。

そのとき、夫があの懐かしい「夕焼小焼」(作詞・中村雨紅、作曲・草川信)
歌ってくれた。

食卓には一通の手紙が置いてあった。封筒の表には感謝状と書いてある。

「子供たちを立派に育ててくれてありがとう。
君が愛情込めて慈(いつく)しんで、育ててくれたから、
彼らは大きな夢に向かい、羽ばたいていけたんだよ。
子供たちの気持ちも込めて、母の日のわが妻へ。
追記、僕は君の元を巣立てないから、ずっとよろしくね」

と書いてあった。

とめどもなくあふれる涙で、空っぽだった心が柔らかく浸され、熱いものが満ちるのを感じた。

それからほどなくして、夫は私の元から歌声も届かない遠い空のかなたへと旅立っていった。

あの日の歌声は何処(いずこ)へ行ってしまったのでしょう。懐かしい歌・・・。

 産経新聞H14年11月10日

笑うことも忘れる辛い日々の中で、旦那さんから感謝状という手紙をもらいました。そこには、「ありがとう」という言葉と、奥さんが今までしてきたことをたたえてあげる言葉が綴られていました。
その手紙を読み、涙があふれてきて、空っぽであった心が柔らかくなっていったと書いています。

残念ながら、ほどなくして旦那さんは亡くなってしまいますが、あたたかな夫婦の絆を感じます。

それは旦那さんの奥さんを思う柔らかで和する思いがあったからでしょう。柔和な心は、相手の心も柔らかにし、光ある幸せな思いにさせるのです。この柔和な心を得るための方法は、「柔和になりたい」と日々思って生きることです。

相手を思う祈りの光

旦那さんは、奥さんを大切に思い感謝の手紙を書き、しばらくして旅立っていきました。どこへ逝かれたのでしょう。相手を思う気持ちの深い人は、きっと光に守られ、光の世界へ逝くことでしょう。

ずいぶん前に、ある雑誌に臨死体験のことが載っていました。そこには相手を思う祈りが光であると書いてありました。

臨死体験といえば、『死の瞬間』という本を出しているキューブラー・ロスという医師が、その『「死の瞬間」と臨死体験』(読売新聞社)で、「死後のあなたの体は、物理的エネルギーではなくて、心的エネルギーでできています」といっています。心の働きが、死後の世界に大きくかかわっていることを指摘しています。

ある雑誌の臨死体験とは次のような話です。

33才の男性がある体験をしました。
今から14年ほど前(1994年)のことです。

会社の出張で倒れて病院に運ばれました。
原因はクモ膜下出血です。

発病から35時間たっていました。
お医者さんは「もう助からないかもしれません」といいながら、手術をしました。

彼は手術台の上で、臨死体験をします。

ふと気づくと金色のドームの中にいます。
その中は真空のような感じで爽やかな香りがします。

肉体の中に境界線のようなものがあることが分かり、
肉体から外に出ると、身体は自由になりました。
反対に肉体に入ると苦しくなります。

そこで、このままあちらの世界へ還(かえ)ろうと思うと
「使命を果たさずに還ることは許されない」
という姿の見えない光の存在に、威厳をもって告げられます。

 その言葉を聞いて畏敬の念が湧き起こり、
「申し訳ない」と反省した瞬間、トンネルを通って肉体に向かったのです。

肉体に近づくと、苦痛が始まり、全身麻酔しているのに苦しくなります。
すると、全身が大小の金色に光り輝く羽(はね)に、マユのように覆われました。
身体は楽になり、あたたかくて至福に満たされたのです。

しばらくその羽を見つめていると、
羽の一枚一枚が知人の祈っている姿に変わったのです。

手術は6時間。集中治療室に10日。一般病棟に15日。
4日後、職場へ復帰しました。

この臨死体験の様子を読んでみると分かるように、金色のドームとか、威厳ある光の存在とか、知人の祈りが金色の羽であったというように、肉体を離れた世界は光に満ちています。

この世の物質世界でなく、あちらの世界の心的世界は光のエネルギーであるというキューブラー・ロスの指摘もうなずけるものです。

ここで知人が彼のことを「助かってほしい。そして、早く良くなってほしい」と祈っている姿が金色の羽にたとえられています。相手を思う気持ちは、心の世界では光に変わるのです。

そして、菩薩の心としての、柔和さとか清らかさとか慈しみの思いは、光であるというのも分かるような気がします。あるいは光をこの世で分かるように翻訳すると、柔和、清らかさ、慈しみという姿になるかもしれません。

奥さんに感謝の手紙を出し、逝った旦那さんも、こんな感謝の思いを綴ることのできる心を持っていられるので、きっと光の世界へ還っていったことでしょう。

善なる思いは善なる世界(光の世界)へ、悪なる思いは悪なる世界(闇の世界)へ。これはこの世でもあの世にも通じていく、極めて明瞭で簡単な教えです。

神々の光

ある仏典に光を次のように分析しているところがあります。天から神が降りてきて、仏陀に光について質問するのです。ここの仏陀はお釈迦様です。

「世にはいくつの光明があって、世を照らすのですか」という質問です。
仏陀はこう答えています。

「世には四つの光明がある。
ここには第五の光明は存在しない。
昼には太陽が輝き、夜には月が照らし、
また、火は昼夜に、あちこちで照らす。
正覚者(ブッダ)は、熱し輝くもののうちで最上の者である。
これは無上の光である」と。

『神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ』―中村元訳・岩波書店

光明、すなわち光は太陽、月、火であり、もう一つは仏陀であると説いています。太陽の光、月の光、火の光、よく理解できます。

そしてもう一つの光が仏陀であるというのです。仏陀がなぜ光かというと、教えを説いて、世の人びとの心を照らし、幸せの道へと誘う力を持っているからです。

心を照らして幸せにするものは、仏陀の説く、正しく生きるための教えです。その教えは光そのものであるわけです。太陽が仏陀であるとすると、その光は教えといえましょう。

光の世界 5 「光を生きる」

死を受け取ることの重大さ

誰しもが、死ななくてはなりません。そのために、葬儀にかかるお金や身の回りを整理して、いつでも死を迎えられるようにする人もいらっしゃるでしょう。

死んで終わりという人は、そんなこともしないかもしれませんが、死を受け取るというのは大変なことなのです。

そのための準備をしっかりしておかなくてはなりません。それはお金もそうでしょうし、身の回りを整理しておくことも大切でしょう。でもそれ以上に必要なのが心の準備なのです。

心の準備とは、心の姿を見られても恥ずかしくない生き方にしておくことです。私たちは外見はよく見えますが、心の中は見えません。その心の姿を見ることのできる神仏がいるとしたらどうでしょう。

亡くなって必ず、浄玻璃(じょうはり)という鏡で生前の心の姿が映し出され、その生き方を問われるという、そんな世界があるとしたらどうでしょう。

これは絵空ごとではなく、死んで後、実際に起こってくる事実なのです。

そうであるならば、生きているうちに、心を正し、できることならば、自分の心を菩薩のような心に変えていく努力をしなくてはなりません。

死と生は一つのもので別のものではありません。生きているうちに死後の世界の真実を悟り、光の世界を生きることが必要です。

光の世界とは、正しく生きる教えを指針として生きる日々の中にあります。その生き方が、この世の幸せにも通じていきますし、また死んで後の世界まで通じていくのです。

死をもっと切実なものととらえ、生きなくてはならないと、私は思っています。

善を生きる

光を生きるとは、言葉を換えていえば、善を生きるということになります。善を積むということです。

人の生涯はそれぞれで、同じ生き方をする人はいません。環境もおかれた立場、役割も違います。

晩年には耳が聞こえなくなったり、眼が不自由なる人もいるでしょう。寝たきりになったり、独りで死んでいかなくてはならない人もいるかもしれません。

でもどんな状況に陥っても、善を積む精神を忘れてはならないと思います。
善を積む日々は厳しいでしょうが、それが必ず幸せへの道を切り拓いてくれるのなら、怠ってはいけないと思うのです。

晩年耳が聞こえなくなっても、笑顔を絶やさなかったおじいさんがおられました。92才で亡くなったとき、家族のみなさんが感謝の思いを書いたものがあります。

いつもお穏やかな人柄で、ニコニコしていて、
涙のでる時もおじいさんの一言で頑張れました。
根気強く働き、いつも笑い顔で、怒った顔を見たことがありませんでした。
まわりの人のことをよく気にかけ、優しいおじいさんでした。

「穏やかであるとか、ニコニコしている、根気強い、優しい、まわりの人のことを気にかける、怒ったことがない」、みな菩薩の生き方です。
このような人を善に生きる人、光の世界を生きる人であるといえます。

簡単なところに、善はあります。ただ、それをどれだけ持続し生きていけるかにあります。

死を受け取るとき、善に生きた人、光の生き方をした人は、心の姿を見られても恥ずかしくなく、生前に生きた心と同じ善なる世界、光の世界へ還(かえ)っていくのです。