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法話

光の世界 3 「金色の姿」

笑顔の光

良心や信じることが、光になって自らの心を照らし、物事の善悪を判断できる力になるとお話しいたしましたが、これらのことを実践し自分のものにしていくには努力と時間がかります。

もっと簡単に、光をそのまま前面に出す方法が、笑顔です。部屋に笑顔をたたえて入ってくる人がいると、その場がぱっと明るくなるときがあります。

これは笑顔によって光をその人が放っているからこそできることです。逆に笑おうともせず、文句やマイナスのことばかりいっている人と出会うと、寒気がしたり、疲れを感じることがあります。光が失われた状態です。

ですから光多い人になろうと思えば、笑顔をいつもたたえていることが大切になります。そして光多い笑顔は、まわりを幸せにしていきます。

こんな投書(中日新聞 平成20年6月6日)がありました。
山田さんという54才の男性が書かれたもので、題は「夜明け前」です。

自宅で学習塾を開業して十数年。
前半は順調でしたが、結婚直後から業績が傾き始め、
とうとう今年、最大の危機を迎えました。

生徒数は最少になり、経営は赤字。
生徒たちからは「つまらない」「早口で分かりにくい」「キレる」と相次ぐ批判。

家内からも「怒っちゃ駄目だって何年も言い続けているのに」と、
きつーい言葉です。

ある朝、家内が、結婚以来の日課としている大黒様の置物を布で磨いている時、
思わず「結婚してずっと右肩下がりだろう。そんなこと何の役にも立たん」
と怒鳴ってしまいました。

家内が仕事で出掛けた後、私は恥ずかしくなりました。
私の仕事をもり立てようと、毎朝黙々と磨き続けてくれたのに、
何とひどい言葉だったか。

帰宅して何事もなかったように明るく話す家内。
心で手を合わせながら、
どうしても素直に「悪かった」の一言が言えませんでした。

若い時、「夜明け前が一番暗い」と言われました。
まさしく今は「夜明け前」

 このごろ、やっと生徒たちから笑い声も上がるようになりました。
大黒様を磨き続けて諭してくれた家内のおかげです。

こんな投書です。

大黒様を磨いている奥さんに「そんなこと何の役にも立たん」と怒鳴ってしまった山田さん。
仕事から帰ってきた奥さんは、山田さんに何事もなかったように明るく振舞いました。

 この明るさが光です。それは笑顔であり、積極的な言葉でした。大黒様もそういえば笑っていますね。

そんな光に照らされて、「申し訳ない」と心の中で手を合わす山田さん。

光に照らされると、自分の過ちを素直に認めるようになれるのです。笑顔は自らが光り輝いて、まわりの人を幸せにしていくのです。

悟りと光

この光は違う言葉で表せば、悟りということになります。
光多い人は悟り深いとなります。

それを形に表したのが金色に光る仏像です。お釈迦様や阿弥陀様などの仏像を見ると、金色に塗られていて、後ろには光背(こうはい)があります。

その光背は全身から放たれて(これを身光〔しんこう〕といいます)、身体全体を後ろから覆っています。

これは仏像をよく見せる飾りではありません。その光背は光の量を表していて、身体全体から放たれている光背は、非常に光の量が多いことを意味しているのです。

悟り深い仏様は光を放っていて、それが何メートルにも及んでいるということです。昔の仏師は、霊的にその姿を見て、仏像に表したのでしょう。

お釈迦様や阿弥陀様は如来です。その如来に仕えているのが菩薩になります。

菩薩では、観音菩薩や地蔵菩薩が有名ですが、その菩薩の像をよく見ると、光背は頭のまわりに丸く放たれています(これを頭光〔ずこう〕といいます)。

如来より光の量が少ないことを意味しているのです。

光の量というのは、悟りの深さ、広さ、高さをいいます。如来のほうが菩薩よりも悟りが深いわけです。

悟りを深めると、自分のことも分かる、人のことも社会のことも、そして見えない世界のこともよく分かるのです。

ですから教えを説くことができ、また人を救って幸せの道を示すことができるわけです。

菩薩の生き方という光の面

前述した菩薩の悟りとはどのような心のあり方をいうのでしょう。その心のあり方を見ることで、もっと具体的に光の姿を見ることができます。

私のところは禅宗ですが、浄土宗で尊ばれている浄土三部経という仏典があります。『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』です。

浄土宗を開いた法然は、この三部経をみな尊いものとして扱ったのですが、浄土真宗を開いた親鸞は三部経の一つ、『無量寿経』が一番尊いとし、大を付けて『大無量寿経』(だいむりょうじゅきょう)としたと言われています。

この『大無量寿経』の中に、「菩薩の心」について書かれたところがあります。それを少し載せてみましょう。

菩薩の心は、柔和であり、自制されており、怒りや怨みの思いをもっていない。
そして、かれの心は、さわりを離れ、清らかであって、うみ疲れることがない。

つまり菩薩は、平等の心、すぐれた志願の心、深い慈しみの心、
精神統一ができた心、そして真理を愛する心、真理を楽しむ心、
真理を喜ぶ心だけがあって、もろもろの本能的欲望を滅しており、
悪の生存におもむく迷いの心から離れている。

(P288『大乗仏典』中村元編 筑摩書房)

これが菩薩の心ですが、私たちの心のなかにも、すべてこれと同じ心があります。その量が多いか少ないかだけでしょう。
菩薩の心の量が多ければ悟り深い人であるし、光の量が多い人でもありましょう。

ここで教えている菩薩の心は、まず柔和であるということです。生まれて今までに、怒ってばかりいる人はいないでしょう。時には柔和に生きたこともあったと思います。

赤ちゃんの笑顔を見て、自分もほほえみがこぼれ落ちます。これも柔和な心を持ったときです。可憐な花を見て、その場に立ち止まる。この時も、きっと心は柔和であったでしょう。

心の清らかさと、まわりの人を等しく大切に思えることや、すべてに慈しみの思いを抱く。こんな心も、きっと持ったことがあるでしょう。

先日近くの保育園の子ども達が30人ほどお寺にやってきて、七夕に使う竹を持っていきました。

私が応対すると、子ども達が「ああ、和尚さんだ」と合唱するのです。そんなときは、みんな可愛く思えてきます。慈しみの思いが、心の中に広がるのです。

でも、「ああ、はげ坊主だあ!」と叫ばれれば、「このやろう」と心がいらだってくるでしょう。

苛立ちの心もあるし、また慈しみの心も持っているわけです。要はどれだけ、慈しみの心をコントロールして出していけるかで、菩薩の心に近づいていけるのです。

真理を愛するというのも菩薩の心です。拙いこの「法愛」を、楽しみに待っている方は、真理を愛する心の持ち主です。その思いは、菩薩の心に似て、光多い生き方をしていることになります。

さらに「法愛」を読んで喜びに満ちれば、そこに菩薩の心が開眼し、光が放たれる自分であるといえましょう。

一瞬のことでしょうが、それが菩薩の心であり、また悟り深く、光多い人でもあるわけです。

悪の生き方という闇の面

それでは菩薩ではなく、逆の悪なる生き方はどうでしょうか。悪について『大無量寿経』では次のように教えています。まとめて箇条書きにしてみましょう。

  1. うろつき怠け、進んで善をしない。修養につとめず、仕事に精励しない。
    口答えをし、父母の言葉に同調しない。
  2. 自分の利益だけをむさぼり、人の物をとり、ほしいままに散財する。
    不正をくりかえし、それが習性となり、贅沢にふける。
  3. 人の善を見て嫉妬し、義理も礼儀もない。
    我が身を反省せず、人に遠慮するところがない。うぬぼれて自己主張する。
  4. 聖者や仏の教えを信じないし、死んでから、霊魂が他の世界に生まれることを信じない。
    善い事をすれば善い報いを得、悪い事をすれば、悪い報いを得るというのを信じない。

このような人は、寿命が尽き、死ぬ間際になって、後悔と恐怖がかわるがわるやってくる。そのときになって後悔しても、もはや取り返しがつかないのだ。

 (P296 『大乗仏典』)

1から4までの中に、悪の姿を説いています。これが光とは対象に、闇の世界といえます。でもこれらの思いも少なからず、みな私たちは心の中に持っているものです。

この悪の心が多い人は、悪人と言われ、悪の心が少なく、さらに自分を律しられる人は、善人と呼ばれるわけです。

2の自分の利益だけをむさぼるというところは、最近の偽装事件を思い起こします。4の死んでから、霊魂が他の世界に生まれることを信じないのも悪といいます。

「信じるも、信じないのも、それは本人の自由だ」といいたいところでしょうが、どうも違うようです。これを信じないのが悪というのは、私も驚くところです。

(つづく)

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