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法話

四つの大切な気づき 4 「教えと仏」

教えの力

宗教的四つの気づきで三番目のものは、「正しい教えを聞くことは難しい」ということです。

教えというと難しくて面倒だという観念があるかもしれません。善く生きるためにはなくてはならないものなのですが、教えがなくても生きてはいけます。

でもこの身体が栄養を欲するように、心も栄養を欲しています。身体の栄養は食事で取ります。心の栄養は教えなのです。

毎日のなかでなんとなく「こんな考え方がいいし、生きていくのには大切なことだ」と悟ることもあるでしょうが、効率の悪い生き方です。

教えは、さまざまな生き方が記されていますから、普段から学ぶことで、その教えに照らして、自分の生き方を修正することができます。

数学や英語を学ぶにも学校や塾にいって教えてもらうほうが、一人でやるよりもずっと効率よく学ぶことができます。

車の運転でも法規を知らなくては乗れませんし、ある程度乗れるまで自動車教習所で運転を練習します。最後のテストで受かれば、一般道路で運転することができます。

人も同じことで、人間としての法規を学び、日々の生活のなかでそれを実践し、上手に自分を乗りこなしていく学びが必要なのです。

現在出している『法愛』でも、講演先や法事の席に持っていってお配りするのですが、今まで一人も「読みたいから送ってほしい」という人はいません。 未熟な文章なのが理由かもしれませんが、強制するわけにもいかず、教えを聞いて、それを人生の指針として生きていくのは難しいことなのだと考えさせられることです。

たとえば「幸せって何ですか。幸福なときはどのようなときをいうのですか」という問いに「健康で、お金があって、家族が仲良くて・・・」と答える方もおられます。

でもお釈迦様はそうはいっていません。

「施与―せよ―と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ること、非難を受けない行為、これがこよなき幸せである」というのです。

幸せとは人にやさしさを与えて喜んでもらったときにある。正しい考え方のもとに行動できたときに幸せはある。 家族を愛し、非難を受けない生き方ができているときに、本当の幸せを手に入れることができる。そう教えています。これも教えを学んでいるから分かることです。

私の幸せは、お釈迦様の教えにそって生きられるときです。それが私の幸せであると思っています。

仏にまみえる

最後の気づかなければならないことは、「仏がこの世に出現することは難しい」ということです。

仏典に「盲亀浮木―もうきふぼく―」というたとえがあります。

眼の見えない亀が百年に一度海面に顔を出します。大海に穴の開いた木が浮いていて、そこにたまたま亀が頭を入れる。 それが実現するのは、めったにないことです。それほど仏に逢うことは難しいという意味です。

また実際に仏である仏陀が現れたとしてもそれを信じない人は、2500年前のインドの時代にもたくさんいました。

仏陀が出現しても、それを信じない。仏陀がこの世に現れることなどめったにないのに、です。それほど、仏にまみえることは難しいことなのです。

でも、仏陀にまみえることのできた人は、その教えを涙を流しながら聞き、幸せの極致を手に入れたほどの感動と喜びを得ることでしょう。理解できるような気がします。

仏陀にまみえる方法は、転生輪廻の世界にあって、いつの世でも仏陀に逢いたいと強く念じ、生まれてくることです。その思いは、必ず果されるときがくるでしょう。

四つの宗教的な気づきとして、まず人間として生まれてくることの有り難さ、次にいのちあることの有り難さ、教えをいただくこと、仏にまみえることの有り難さ。

この四つが成し難いことであって、もし成就できたならば、素直に有り難いと感じ、感謝しながら精いっぱい教えにしたがって生きることです。必ず、あなたは幸せになれます。