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法話

四つの大切な気づき 2 「宗教的気づき」

人間の身を受けることは難しい

この有り難いことを宗教的観点から、考えてみます。

お釈迦様は私たちが日頃忘れがちで気づかない「四つの有り難いこと」を示されました。この有り難いことに気づきなさいと教えています。

一番目の有り難いことは「人間の身を受けることは有り難いことで、難しいことだ」ということです。

以前どこかで、私の修行僧堂でのあだ名が「鬼瓦(おにがわら)」でした、というお話をしたことがありました。
それを聞いていたある和尚さんが、「あなたのあだ名も鬼瓦ですか」というのです。

そこで、「何か思い当たることでもあるのですか」と聞くと、「実は、私はあなたのお父さんと同じ僧堂で修行したのです。そのときあなたのお父さんのあだ名が、やはり鬼瓦だったのですよ」といわれたのです。

それを聞いて「親父も鬼瓦だったのか」と感慨深い思いがしたことを覚えています。そんな父がいなければ、私は生まれてはこれなかったわけです。

しかも父と母が出会わなければ、「寛仁」という名の私はいないことになってしまいます。深い縁があって、この世に生まれてきたことを思います。有り難いことなのです。

人間として生まれてきたことを、とても有り難いことであると思い、「この時代に、人間として生まれさせていただいてありがとう」と、私自身、深い感謝の思いを抱いたことがあるだろうかと考えてみると、なかなかそんな自分はなかったように思います。

「お母さん、私を生んでくれてありがとう」という話は聞いたことがありますが、「何か尊い深い縁でこの世に、人間として生まれさせていただきありがとう」という言葉をみなさんは今まで誰かに語ったことがあったでしょうか。

日頃から「人間と生まれてきた。これはとても有り難いことなのだ」と思いながら生きていくことが大事であるわけです。

この「有り難さ」を、もう少しお話ししていきしょう。

もし私が犬であったら

仏教には転生輪廻(てんしょうりんね)という考え方があります。「生まれかわり死に変わりをして、人はこの世に現れ、修行を積み重ねて、人格を磨いていく」という思想です。

最近テレビなどでも、「あなたの前世はこんな人生を歩んできた。だから今、このような結果が現れている」といったことを実際に、 タレントと呼ばれる知名度の高い方々が体験し、視聴率をあげている番組があります。これも一理当たっているところがあるかもしれません。

『法華経』というお経のなかには、お釈迦様が弟子に、「あなたは未来世で必ず悟りを開くであろう。仏となるであろう」という予言をされています。
仏教ではこれを授記(じゅき)という言葉で言い表していますが、ここから、人が人として生まれ変り、人格を高め、悟りをあげていくということが推測できます。

この転生輪廻の話はここでは深入りはしませんが、人は犬や猫に生まれ変わってくることはないにしても、たとえとして、 もし犬に生まれたならどうであろうか、という視点で人として生まれることの有り難さを考えてみます。きっと人間に生まれてくることの素晴らしさを思うでしょう。

輪廻転生については拙著『精いっぱい生きよう そして あの世も信じよう』(グラフ社)の「旅たちの悟り」のところで少し書きましたので参照してみてください。

犬といえば、昨年まで我が家にテンという犬がいました。雨の降る日の朝4時頃、
亡くなりました。亡くなったときに私の夢に現れたので、逝った時間が分かったのです。 家族で「般若心経」をあげて、小さなお葬式をしました。17年も飼っていたので、別れは悲しいものがありました。

そのテンも、生きているときには1日中鎖につながれ、自由はありませんでした。 何度か首輪がはずれて逃げましたが、そのときは自分の行きたいところを自由に走り回ったので、嬉しかったかもしれません。

テンはご飯も自分が食べたい量も決められず、そのメニューも決められず、与えられたものを食べなくてはなりません。 お腹がすいたから、冷蔵庫から自由に美味しいものを取り出して食べるということはできません。
毎日散歩をするのですが、自分の行きたいところにはいけません。息子が散歩をする役目であったのですが、3分で帰ってきてしまったこともありました。

また近くに猫がきても、猫は賢くて、鎖に繋がれている犬を、馬鹿にしたように素通りしていきます。そのたびにテンは吠えるのですが、どうしようもできません。
ずいぶん歯がゆい思いをしたことでしょう。

その犬に比べて、私たちはどれほど自由に行動ができるかを考えてみれば、人間に生まれてきたことの有り難さが分かります。

自由に冷蔵庫からアイスクリームを取り出して食べたり、牛乳を飲むことができる。
自由に散歩に出かけたり、自由にテレビを見たり、旅行にいったり、本を読んだり、友達とお話をしたり・・・。 自由にできるということがいかに有り難いことであるかを思うのです。

犬と人間の同じところはどこでしょう。人も犬も空気を吸って生きています。食事をし排泄をし眠ります。 気に入らないと怒ったり、犬でも餌をあげたり頭をさすってあげると喜びます。走ることも歩くこともできます。
野生の犬であったら、自分の食べ物は自分で確保しなくてはなりませんから野に出て、餌を探す仕事をします。 人間も働いて経済をやり繰りします。

このような観点から見れば、人間に生まれてきても犬に生まれてきてもさほど違いはありません。

考える力と信じる力

では人間との差はどこにあるのでしょう。それは人間には「考える力」があるということです。 その考える力が、創造する力になっていき、さまざまな文化を長い歴史のなかで創ってきました。

考える力が音楽のほうに向かえば、さまざまなジャンルの曲ができてきます。
その曲を演奏するためのピアノやバイオリン、フルート、太鼓など、たくさんの楽器も創造され、それを使いこなす人びとも多数でてきました。 演奏するためのホールができ、録音のための機械やテープなども考えられ、多くの人がその音楽を楽しみ、またその音楽が映画やラジオ、テレビなどで使われ 、精神的な豊かさをつくってきました。

絵画もそうですし、陶器の世界もそうです。お花や習字お茶の世界も、高度な文化として大切な精神的安らぎを与えてくれています。スポーツも数え切れないほどの種類があります。

そのため、オリンピックという催し物ができ、世界が一つになって競い合う場ができました。これもみな人間が考え創造してきたものです。 小説を書いたり、詩を作ったり、科学や数学に向かえば、医療の進歩や飛行機やロケット、ロボットなどの未来世界が開けてきます。

この考えが「人としての生き方」に向かえば、道徳とか人格の向上、あるいは悟りや宗教的なものへと深まっていきます。 この「考える力」と、さらに人として素晴らしいのは、「信じる力」があるということです。

お釈迦様は「信仰は最上の富である」と説かれましたが、見えないものを信じることほど、人として美しく尊いものはありません。 自らを信じ、互いを信じ合えるからこそ、幸せを築いていけます。見えないものを信じられるからこそ、悪いことができず、善を積むことの尊さを思うのです。

神仏がいつも見ていると信じられるから、人としての尊い心を養っていけるのです。人間に生まれることは有り難いことなのです。

(つづく) 

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