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法話

遠い世界からのメッセージ 2 「平凡な生活のなかに」

昨年の12月号では「関心のあることないこと」という章で、「どう生きればよいのか」という問いに関心をもって生きることの大切さをお話し致しました。 今月も続きのお話を致します。

独りのときを美しく過ごす

「どう生きるか」ということに関心をもつことで、生きる正しい考え方、すなわち真理を日々求めるようになります。 その求めるところは「真理の書」などを読み、そのなかから何かを発見することもあるでしょう。
昔の聖賢の言葉のなかから得るものあり、先輩や道を求める人から教えていただいたもの、あるいは日頃の生活のなかで学びとったものもあるかもしれません。

最近読んだ本のなかに、『女性の品格』(PHP新書)があります。 坂東眞理子さんという方が書かれたものですが、本自体に品格があると思われます。
この本のなかで、品格のある人の生き方や礼儀、行動などが書かれていますが、
そのなかで「よいことは隠れてする」とか「人の見ていないところで努力する」
「独りのときを美しく過ごす」などは、なるほどと思います。
どう生きるかの指針になるものがきらめいている本です。

たとえばこの本のなかの「独りのときを美しく過ごす」という考え方は、女性だけでなく男性にとっても大切な生き方です。
本のなかでは、『伊勢物語』に描かれている、男が見ているのも知らずに、おひつから直接ご飯を食べて愛を失った女性のことが書かれています。
「誰も見ていないから何をしてもいい」というのは美しい生き方ではないというわけです。

外に出かけるときには人目があるので、服装を整えたり、お化粧をしたり、言葉や行動を慎み気をつけます。 でも独りでいるときはどうでしょう。

家でリラックスするのはいいのですが、一日中、髪がぼさぼさであったり、服装も乱れ、言葉も横柄で、 だらしなく寝そべってみたり、いい加減に一日という時を過ごしてしまうと、生きることの美しさが失われてしまいます。
誰も見ていないところでも、人目があるように美しく過ごす。これが品格のある人の生き方であるというのです。

本のなかの「品格のある生き方」の章では、「神様や仏様など人間を超越した存在(something great)から見て恥ずかしくないことをしていないと断言できる行動をするのが、人間の品格の基本です」と言い切っています。
神様も仏様も見えない存在で、誰もいなくても、その方々がいつも見ていらっしゃると思って日々の行動がきる。 こんな生き方が私も優れた生き方であると思います。

今では死語になりかけている「お天道様が見ている」とか、「ご先祖さまが見ている」と言ったのは、人間の品格を保つ基本の考え方だったのです。 万引きも詐欺もまた
携帯の「裏サイト」なども、みな見えないところでの悪事です。
誰も見ていないから「やる」という生き方は、品格を欠いた生き方なのです。

品格というひとつの考え方を本から学ぶことで、どう生きればよいかが見えてきます。日常の暮らしのなかで、たまたま手にとった本から、生きる指針が見えてきます。

平凡の生活のなかに真理を見る

時は流れてひと時も止(とど)まることがありません。

できれば時にも日曜日のような日があって、パタッと時間が止まるのもいいと思うときがあります。でもそんな日はきません。
そんな流れる日々のなかで、人は日々の生活に流され、いま自分が支えられて生かされていることに気づきもせず、感謝もせずに、生きてしまいがちです。

何か大切なものに気づこうと思う人は、生かされている尊い思いを自らに省みることもあるでしょう。でも何人の人が、日々そう思い暮らしていることでしょう。

朝の掃除をしているとき、石崖と垣根の狭い中に落ちた葉を拾ったり、本堂の裏側の歩きにくい場所などを掃除していると、いつも思うのです。
「車椅子の人は、こんなところにこれないだろうなあ。でも自分はこうして仕事ができる。これはありがたいことなんだ」と。

こう考えられるようになったのも、あるテレビの番組で車椅子作りの大変さを見てからでした。 それは草原や砂浜を車椅子で移動できたらと、そんな車椅子作りを目指している人のドキュメントでした。

数年前、車椅子でお寺を訪れた女性の方がおられました。 お寺の山門前の石の階段は四段しかありませんが、その階段も車椅子では上れません。 二人で両側から車椅子を持ち上げて、山内に入っていただきました。

そんな様子を以前見て知っていたので、朝の掃除で自由に歩けることのありがたさを思いながら、掃除ができるようになりました。
おそらく、車椅子をテーマにしたテレビ番組も見ない、車椅子の女性とも会わなければ、今も当然のごとく階段を上り下りしていることでしょう。

自分をよく見つめるためには、相手の存在がいかに大事であるかを思います。
こうして歩けるから、好きな場所にいくことができる。脚の不自由な人は、一人で気楽に出かけることもできない。そんな人をみて、自分のありがたさを思うのです。

自分の身長も体重も相手がいるから、高いのか低いのか、重いのか軽いのかが分かる。 自分の性格がどんな性格なのかも、相手の性格を見て判断できるようになる。相手が悪いことをすれば、反面教師として、あんなことをしてはいけないと思える。
これも日々の暮らしのなかで、気がつかせていただくことです。

自分の家族も外での人間関係も、みな自分に何かを気づかせてくれるために
「ある」と思えば、平凡な暮らしの日々に、何か大切なものがきっと見えてくるはずです。

いえ、平凡な日常生活のなかに、真理がきらめいているのですが、それに気がつかないでいるのが私たちといえるのかもしれません。

浄土宗をお開きになった法然上人(ほうねんしょうにん)が作られた次のような歌があります。

月影(つきかげ)のいたらぬ里はなけれども
眺むる人の心にぞすむ

「月の光がさしていかないところはないけれど、その月の光に気づき、静かに眺めることのできる人にだけに、その月は映って見えるのだ」という意味の歌です。

この月影の影は月の光という意味ですが、この月は仏様を意味しています。 仏様はいつも私たちを守り見つめてくださっているのですが、信心篤く「そうだ、いつも仏様が見てくださっている」と信じている人の心に、仏様は住んでいるとなります。

さらにはこの月の光は仏様の「教え」、あるいは「真理(正しい考え方)」に置き換えることもできます。「仏様の教えはみな平等に私たちに与えられている。 だから人がどう生きればよいかという正しい考え方に関心を持ち学ぼうと思っている人には、どこにでもその教えを発見することができる」となります。

月の光は特別な人や場所、あるいは特別な時に見られるものではありません。
夜の晴れた日には誰にでも見ることのできるものです。「見たくない」という人には見ることはできませんが、「見たい」と思う人には誰でも見ることのできるものです。

同じように「どのように生きればよいのか」と関心を抱き生きている人には、平凡な日々の暮らしのなかに、真理を見ることができるのです。

お釈迦様は満月のごとし

以前『大法輪』という雑誌に「お釈迦さまの生涯」という題で六回にわたり書いたことがありました。 その六回目の最後に「お釈迦さまは満月のごとし」という詩を書いて終わりにしました。

これは『大涅槃経』に出てくるところを私が詩としてまとめたものです。 お釈迦さまは満月のごとく、今現在も私たちの頭上で光っている。それを見るのは、見ようとする人の心構えにある。そんな詩です。

ある人が 月が出ていないのを見て
月は没してなくなってしまったと思う
しかし 月そのものはなくなることはない
生滅はないのだ

それと同じように仏陀も
人びとに法を説くために
この世に姿を現し父母を示した
さすれば人びとは
仏陀はこの世に生まれたと思う
いま寿命が尽きて涅槃を示すが
仏陀そのものには生滅がない

私がインドに生まれる姿は
初月のごとく
出家を示すは八日の月のごとし
大いなる知恵を得て人びとに法を説き
さらに悪魔を導いたのは
ちょうど十五日の満月のようだ

実際 月そのものに変化がないように
私も常住不変であるのだ
涅槃をいま示すが
私は満月のごとくあなたがたの頭上で
法の光を投げかけていることを忘れてはならない

このような意味のことを語り、涅槃すなわち亡くなっていったと仏典では記されています。 その仏陀の教え(法)を見るのは、この詩で語る仏の思いを信じ、生きることに関心をもつ人が、満月なる仏の教えを手に取ることができるわけです。

努力によって見えてくるもの

このような教え、真理を見るためには、「どう生きるか」ということに関心を持っていることが大事なのですが、 もう一つなくてはならないのが、努め励むこと、努力ということです。 真理を見つけそれを行って努力する。その努力のなかに幸せが見えてくるというのです。

先ほど法然上人の歌を勉強させていただきましたが、今度は空也上人(くうやしょうにん)の歌を学んでみます。 空也上人は平安時代の中ごろに活躍したお坊さんで、
道路を開き橋をかけ、貴賎を問わず念仏を広めて、人びとの心に平安をもたらしました。市聖(いちのひじり)といわれるほど、庶民に親しまれた方です。

極楽ははるけきほどと聞きしかど
つとめていたるところなりけり

ここに「つとめて」とありますが、これは努力するということと、翌朝とか朝早くという二つの意味があります。このことを踏まえて訳してみると、
「極楽という幸せの世界はずいぶん遠いところにあると聞いているが、念仏を唱え仏道修行に励み努力すれば、 翌朝早くに行くことのできるほど近くにあるのだ」という意味になりましょう。

いつだったか大分県にお話にいったとき、その日は一日に二つのお寺さんでお話がありました。 午前のお話を終えて、午後は二時からのお話であったのですが、バスの移動で、着いたのは三時になってしまいました。
「遅れてしまいます」という電話を入れたのですが、「みんな気楽に待っているから安心してきてください」とのこと。 一時間遅れでのお話でしたが、みんな文句も言わずに聞いてくださったことを懐かしく思い出します。

夜はそこのお寺の和尚さんと一緒に夕食をとったのですが、こんなお話をしてくれました。以前、拙著『自助努力の精神』にも書いたことがあります。

昔のことですが、私の中学になる次男が不治の病にかかったんです。
「お医者さんから一ヶ月ぐらいの命でしょう」といわれて、
家で療養することになりました。

一ヶ月の間ともに暮らしたのですが、
朝の食事のとき、「この息子が、あと一ヶ月しか生きられない」
そう思うと、このように家族みんなでいただく食事が本当に尊く思われてならなかったのです。

今このときがいかに大切かということを、
息子から教えていただいたような気がするのです。

こんな意味のことを、心を込めて和尚さんがお話ししてくれました。

このような体験をなされると、家族とともに一緒に食事ができるというのは、あたりまえでなく、ありがたいことなのだということを教えていただきます。

禅では「今このときを大切に生きる」という考え方を大事にしますが、これも一つの月の光、すなわち仏の教えになります。 そして心を込めて、この一瞬いっしゅんを精いっぱい生き切ったとき、そこに生きることの満足感と幸せが得られるのです。

一ヶ月もすると、息子さんと食事ができなくなってしまう。だからこのときを大切にかみしめて生きる。 そんな努力のなかに、亡くなっていこうとする息子さんとの悔いのない触れ合いができるのだと思います。

このひと時を悔いのないようにつとめて生きる。この精神を実践するだけで、幸せな時が刻まれていきます。

極楽は信心深くつとめて善に生きた方が死んで後、逝く世界ではありますが、
そればかりではなく、正しい生き方をつとめて行い日々を生きる、そんな生き方のなかにも極楽がある。 それはすぐ得れる心の世界のことである。
これは空也上人の歌から伺われるもう一つの考え方です。

(つづく)

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