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法話

遠い世界からのメッセージ 1 「関心のあることないこと」

今月から数回にわたり、「遠い世界からのメッセージ」というテーマでお話をしてみたいと思います。 遠い世界から真理(正しい考え方)がいつも投げかけられているのですが、それに気がつかないで生きていることが多いのではないでしょうか。
遠い世界からメッセージとして投げかけられているその真理を、どうつかみ自分のものにして、人生を充実させていくか。そんなお話をしてみたいと思います。

一転語(いってんご)の力

東京で行われた、渡部昇一先生の講演会に何度か行ったことがありました。先生の専門は英語学ですが、歴史、哲学、人生論と幅広くご活躍している方で、 その講演会は歴史に関するものでした。 先生のお話の後に質疑応答があり、そのときどなたかが、「先生の勉強の方法を教えてください」と尋ねられました。
私もこの質問に非常に興味をそそられたのですが、そのとき先生は、「とにかく関心をもつことですね」と、一言おっしゃっただけでした。

これを聞いて私は「ずいぶん簡単明瞭だなあ。もっと具体的な方法があれば・・・」とそのとき思ったのですが、後で考えてみると、「なるほど」と思えるようになったのです。
以前から、ものごとに関心をもつというのは知っていましたが、知っていただけで、この言葉の重みを深く考えもしなかったように思います。

これに似たエピソードがあります。

松下電器を創業された松下幸之助さんと、京都セラミックを設立した稲盛和夫さんです。 松下幸之助さんがある講演で、ダム経営の話をしたそうです。講演が終わって、 どなたかの質問の中で「ダム経営というお話がでましたが、実際どうすればいいのでしょう」という質問があったようです。 そのとき答えは「そうですなあ、まず思うことですね」だったようです。

その答えの漠然さに会場に集まった人たちからどよめきのようなものがあったと聞きます。 しかしそのとき一人「なるほど」と思った人がいたというのです。それが稲盛一夫さんでした。

禅に一転語という言葉があります。相手の気魂を見て、短い一つの言葉で真理を理解させる。 そんな言葉を一転語といいます。「関心をもつこと」「まず、思うこと」、この両者は一転語に似て、力があるように思えます。

関心をもつ

人それぞれに関心をもつことは違いますが、たとえば来年(平成20年)開かれる北京でのオリンピックは、多くの人が関心をもつものではないかと思います。

オリンピックの旗は1914年にクーベルタンという人が創案しました。旗に描かれた五輪の意味は、五つの大陸を結合したという意味で、 オリンピック憲章では「堂々と競い合い、友として交わるように」とうたわれています。

最初に行われたのが1896年で、ギリシャのアテネでした。 当時は13カ国の参加で、選手が294人。それに比べ、今ではずいぶん選手も多くなり、国も200カ国以上で、名前も知らないような国もたくさんあります。 それだけ、世界が互いを友としてやっていこうという時代に入ってきたと思われます。

このオリンピックで印象に残っているのが、平成12年にオーストラリアのシドニーで行われた女子バレーボールの決勝戦でした。
キューバとロシアが戦ったのですが、ロシアが初め2つ取って、後の3つをキューバが取って勝ったのです。 勝ったキューバは喜び歓喜し、負けたロシアはベンチで涙を流していました。

その情景を見て思ったのです。「黒人に白人が負けた!」と。 そして「オリンピック憲章のように、これからは肌の色に関係なく、互いが手を取り合って助け合っていく時代に入ったのだ」と。 これは黄色人種が白人に勝った日露戦争でもいえます。恐らくこの戦争でも白人は驚天動地の思いであったでしょう。

昔は白人が一番優秀で、次に黄色人種、黒人と続き、ずいぶん差別を受けたものです。今でもまったくなくなったわけではありませんが、このキューバ、ロシア戦でキューバが勝ちました。 キューバはみな肌の黒い人たちばかりです。その人たちが勝った。世界中の人がこの試合を見ていたのです。 関心のある人は、オリンピック憲章のように、これからは互いが手を取り合って生きていく時代にはいったと思われたでしょう。

拙著「自助努力の精神」にも書きましたが、ローマの時代に活躍したセネカ(4〜65年)という哲学者がこう言っています。

 神が人間を多数に分かちたるは、相互に援助せしめんがためなり。

すでに2000年も前の賢者が諭した言葉ですが、真理をよく言い当てた優れた言葉であると思います。

開催国のオーストラリアでも先住民のアボリジニが差別を受けていて、1967年に初めて市民権を得たといいますから、つい最近のことです。 そのアボリジニ出身のキャッシー・フリーマンが最終聖火ランナーをつとめたのは印象的でした。
これからの時代、互いが援助し学びあわなくてはならない時代であると、そんな方向に関心を抱いていくことが大切に思うのです。

関心をもつことで知の世界は広がる

私にとって関心事は何かと考えてみると、本ではないかと思います。本は置き場所が必要ですし、お金もかかります。 森繁久弥さんは本を3万冊ほど持っているといいますが、私もできればそれくらいは持ちたいと願っています。しかしなかなかそこまで集めるのは大変なことです。

以前読んだ『親の出番』という本の中に、戦前と戦後の若者の親孝行についての統計が載っていました。 まず戦前の日本では親が年をとったり病気をしたときどうするかという質問に、親に孝行をしたいと答えた若者が99%でした。 現在は親に孝行したいという若者は25.4%であるというのです。

この統計から、こんなことがいえます。100人の若者のうち、約75人の若者は、親が年を取ろうが病気をしようがあまり関心がないというのが分かります。 これは地域によってずいぶん違ってくるとは思いますが、本から得られるデータとしては、現在の家族の様子がよく理解できるのではないかと思います。

子どもは親のめんどうをみないというので、今は老人が国からさまざまな補助金をむしり取ろうとするようで、そういう人たちをシロアリ老人というのだそうです。

親は子どもにめんどうをみてもらえないのに、その親は子どもを過保護に育て、学校まで乗り込んで、先生にいちゃもんを付ける人もいるようです。 そんな怪物のような親をモンスターペアレントというのだそうで、親学の必要性が問われているのも、もっともなことかもしれません。

たとえば、たんなる子どもの喧嘩に親が激怒し、わざわざ学校へ乗り込んでいって、しまいには警察を呼ばなくてはならなくなったり、「うちの子をリレー選手に選べ」と脅迫的な電話を一週間もかけ続けたり、校庭の遊具で子どもが怪我をしたから、遊具をすべて撤去しろとか。 あるいは携帯電話のメールで、親が先生のあらぬ悪口を複数の親に流し、その学校にいられなくなってしまった先生もいます。 ですから先生も大変で、病気で休職する先生方が急増しています。一つのデータによって、関心事が広がり、さらに知識が増えていくのです。

本によって聖人と出会う

本を読むことで、このように知識が豊富に得られるのですが、本はさらに大切な出会いを提供してくれるのです。 中国の人で葉賀孫(しょうがそん)という人が、こんなことをいっています。

 進んでよく聖人の書を読み、その人の意思(いし)をそこに見るならば、
それはその聖人と対面して話をしているようなものだ。

今まで実際に出会った人で、一番偉い人は誰かと考えてみます。

日本でいえば総理大臣とか天皇陛下でしょうが、そんな人と実際に対話したことはありません。 対話できる人はずいぶん限られた人になるでしょう。
私のお寺の本山は京都にある妙心寺ですが、ここで一番偉いのは管長様です。
しかしそんな偉い方と対話できるものではありません。
先に書きました渡部昇一先生とお会いしたことがあるのですが、お話しができる状態であっても、対面したときには緊張して何を話していいか分かりませんでした。
ましてやすでにこの世を去った聖人と対話することなど、できるはずがありません。

しかし、葉賀孫(しょうがそん)のいうように、聖人の本を読むことで、その本の意味するところを充分理解し、 その聖人の考えを本の中に見ることができれば、その聖人と話しをしていることになるというならば、本を介して多くの聖人と出会い話をすることができるわけです。

お釈迦様はすでに2600年ほど前に亡くなられました。 すでにこの世にはいない方ですが、仏典を紐解き、その教えを自分のものとして理解したとき、お釈迦様と出会い、対話していることになるのです。

今まで多くの聖人がこの世に現れ、多くの聖なる言葉を残していきました。それが現在本となって残っています。 その本に関心をもち、手にとって読み、その本に書かれた考え方を理解すれば、多くの聖人と交わり、対話したことになります。本からこのような世界が開けてくるのです。

誰しもがもたなくてはならい関心事

関心をもつということは知識が広がり、多くの学びができるのですが、すべてに関心をもつというのも大変なことです。ですから、関心のないことも多数でてきます。

旅行はどなたでも関心のあることでしょう。しかし、行きたいところはそれぞれで違ってきます。この秋に伊勢神宮へお参りにいってきました。 伊勢神宮は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祭ってある神社です。是非お参りしたいと思っていたものですから、できた旅行でした。

この伊勢神宮をかつてお参りした西行法師が、そのときの感動を歌にして残しています。

 何事のおわしますかは知らねども  かたじけなさに涙こぼるる

―この伊勢神宮をお参りすると、何かは分からないけれど、
とても尊いものを感じる。それを思うと涙がこぼれてくるほどありがたい―

そんな歌も心にあって、お参りしてきたのです。涙がこぼれるほど神秘の力を感じることはできませんでしたが、有り難いお参りができたと思います。

話はそれますが、赤福の問題(賞味期限の偽装など)がでる10日ほど前のお参りだったので、内宮(ないぐう)の鳥居の前にある赤福本店でそれをおいしくいただいてきました。
それにしても神様の御前(みまえ)で、偽りの商売をしていてはいけませんね。 神様はいつも見ていらっしゃいますから・・・。これで神様もほっとされているかもしれません。嘘はいずれ分かるものだと自戒したいものです。

あるいは私は賭け事はあまり関心がないので、そういう所へは行きませんし、しません。 しかしお話をする手前、一度は経験をしておかないといけないと思い、パチンコには2〜3回ほどいったことがあります。また野菜作りにもまったく関心がありません。

お読みの皆さんのなかでも、この「法愛」に関心のある人ない人がいることでしょう。「とても楽しみにしていた」と受け取ってくださる人、「へえ、もう一ヶ月たったのか」くらいにしか思わない人、何も思わず読みもしない人、それぞれでしょう。
お話に関心のある人は、私の法話会にも出席するでしょうが、関心のない人は一度も法話会に出たこともないでしょう。

お話を聞くことがないという人は、自分の生き方や人生にあまり関心がないからでしょう。それは「どのように生くべきか」という問いに、関心がないのです。 ですから生き方を学ばない。学ばないから、苦難や困難にあったとき、どうしていいか分からず、苦しみをなめ、不平不満を思い日々を過ごすことになるのです。

関心をもつというのは、その人の自由なのですが、人として関心をもたなくてはいけない事柄があるのです。 これはできるならばすべての人が関心をもって生きていかなくてはならない事柄です。

それは「正しく生きるための考え方」です。「真理の教え」といってもいいでしょう。
このことに関心がなければ、すぐそこに花が咲いていても、その美しさに気がつかないように、 一生、何が正しい人としての考え方なのかを知らずに暮らすことになります。その結果、幸せからも遠ざかってしまうのです。

私はお坊さんをしていますが、お経が読めなかったらお坊さんはできないでしょう。 お経を覚え、お釈迦様やお祖師様の教えに関心をもち学んでいく。そんなお坊さんが立派なお坊さんです。
大工さんがいて、その仕事に関心をもって日々学んでいく。そんな人が造った家は立派でしょうし、それゆえに給料がいただけ家族を養っていくことができます。

同じように、真理に関心をもち日々学び、自らを省みながら生きていく。そんな人が立派な人であるし、自らの幸せを培い、また他の人にもその真理を伝え、 幸せになってもらえるような生き方ができるようになるのです。

永遠の世界で生まれて

すべての人が、真理(正しい考え方)に関心を抱かなくてはならないという理由は、私たちはみな真理の世界で生まれたからです。

現在53才の人は、53年前にこの世に肉体をもって生まれてきたのですが、魂あるいは心は永遠の昔、あたたかな幸せの世界のなかで一つの光として生まれたのです。 そこは幸せに満ちた世界、真理に満ちた世界です。神仏の世界といってもいいでしょう。ですから私たちは本来、きらきら光った存在なのです。

その光った存在がこの世に生まれてきて、その光をもっと大きくするのがこの世の修行でもあり、その修行を助けるのが、もといた真理の世界に関心をもって学ぶということなのです。

(つづく)