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法話

みんな何かを教えている 3 「出会いの発見」

先月は「出会いの素晴らしさ」という章で、その出会いを大いなる神仏がくださっているというお話を致しました。その続きのお話を致します。

学ぼうとする心がよい出会いを作る

「嫌な奴が私を育てる」という言葉があります。嫌な人なら会わなければいいのですが、その人が家族であったり、仕事仲間であったりすれば、わがままも言っていられません。 そんなときどうすればいいのでしょう。そんなとき役立つのが「嫌な奴が私を育てる」という言葉です。 この「私を育てる」というのは、私を人間的に大きくしてくれるということです。それも自分が会いたくない嫌な相手からです。

嫌な奴から逃げるのも一つの選択ですし、会うことを拒否するのもいいでしょう。 また違った方法として、その嫌な奴を反面教師として自分の学びにしてしまうのも一つの選択です。

その場合、心を苛立(いらだ)たせて接するのでなく、相手と一定の距離をとりながら冷静に接するという態度が必要になります。 この世の社会では、自分と同じ考えの人ばかりと暮らすのは難しいことです。それはなぜかというと、自分と違った考えを持った人から、「多くを学べ」と大いなる存在からお諭(さと)しがあると思われるのです。

人は背の高さや顔かたちが違っているから、自分がどのような体格であるかを知ります。 それと同じように、相手の違った考え方から、自分の考え方の正否を判断できるわけです。 また自分の考えと相手の考えをうまく合わせていくために、この世のルール、法律があったり、心の教えがあって、 それを基準にして自分や相手のことを考え、ともに幸せを作り上げていく。これがこの世の修行でもあるわけです。

私自身、知らずに相手を傷つけてしまったこともあるでしょう。また逆にいじめられて、もう二度と会いたくないと思った人もいます。 しかし、そんな人でも、どうしても会わなくてはならない。 その場合、冷静にその人から学ぼうと思ったとき、会うのが嫌だという私のかたくなな考えを柔軟にしてくれていることもあります。

みんな学びの友

学びが友を引き寄せることもあります。

五年ほど前、石楠花(しゃくなげ)という会でお話をしてくれというのでいってきたことがありました。 勉強好きな方々で二時間ほどしてほしいというのです。確か「人生が輝くとき」というテーマでお話をさせていただきました。 そのときこの「法愛」を読まれる方を聞きましたところ、十数名の方が読んでくださるというので、それ以来五年ほど送っていました。

お話を頼まれたときや法事の席に、この「法愛」も持っていってお配りするのですが、「読んでみたいから送ってほしい」といわれたことはほとんどありません。 一回の法話で十数名の人が送ってほしいというのですから、この石楠花の会のみなさんは、ほんとうに学びに対して熱心な方々なのです。

五年ほど送っている間に、その十数名の方々も、八名になりました。 そして今年の六月二十二日、八名のなかの西山(仮名)さんが八十八才で亡くなったのです。 亡くなるまで「法愛」を読み続けたということに頭が下がる思いが致しました。

それから少し時が過ぎ、八月の上旬、見知らぬ方から一枚のハガキが届いたのです。亡くなった西山さんの友人で後輩にもあたる方からのハガキです。そこには、

 西山さんは、最後まで一日一日を頑張り通されての、見事な一生でした。 亡くなられてお家に帰られたお顔は、本当にやすらいだよいお顔でした。 西山さんのご冥福を祈っています

と書かれていました。

この方からハガキが来た訳は、生前、西山さんから「護国寺の和尚さんのお話を聞くといいよ。勉強になるよ」といわれていたからでした。 そして西山さんが亡くなってからしばらくして机の上の整理をしていると、護国寺さんのテレホン法話の番号が出てきて、夜中であったのですが、

 ああそうだ、寂しがっていてばかりではいけない。西山さんがいうように、法話を聞いてみよう

と思い、テレホン法話を聞いたそうです。そして最後にこう書かれていました。

 これからも西山さんが言ったように、和尚さまのお話を楽しみに聞いて、一日一日を大切に過ごしていきたいと思っています

一度も会ったことのない人からのお手紙でしたが、学びがさまざまな縁を作り、学びの友が広がっていくのが分かります。学ぶことで出会いが広がっていくのです。

病との出会い

人との出会いばかりでなく、私たちはさまざまな出来事との出会いもあります。 苦しみとの出会い、幸せとの出会い。悲しみや喜びとの出会い。そんな出会いの中で何を学び自分の心の養いにしていくかが、人生を充実させて生きていく秘訣になっていきます。

たとえば、誰しも病に出会います。そのとき苦しみ傷つき、辛い思いをすることでしょう。 しかしそんな苦しみの中からでも、大いなるものからの気づきを得ることも大切なことでしょう。「大いなるものからの贈り物であった」と思えるまでにはずいぶん時間がかかると思いますが、 苦しみを乗り越えていく考えの根底に、「何を気づきとするのか」というものがあれば、この苦しみもずいぶん違ったものになっていくはずです。

以前右の手に怪我をしたとき、あたりまえにしていた朝の庭掃きができなくなりました。 小さな怪我なのに、右手が上手に使えないのです。いつもそんなことを考えたことはないのに、その日は右手の健康を強く感謝しました。

あるいは病になって、一番辛い思いをするのが本人ですが、介護する家族の人たちのありがたさが分かったり、家族もその人の大切さが分かったり、 病気ゆえに、家族が一つにまとまるということもあります。何ひとつ無駄なものはないといいますが、何かをその病から学びとったとき、秋の実りのように心に多くの収穫を得るのです。