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法話

みんな何かを教えている 1 「人が生まれてきた目的」

これから数回にわたり、「みんな何かを教えている」というテーマでお話をいたします。

互いに学びあう

眼の不自由な方々に、さまざまな情報をテープに吹き込み、声を通してお知らせしているボランティアの方々がおられます。 その方々が視覚障害の方々をお連れして、
私のお寺に来られたことがありました。仏様にお参りし、私のお話を聞き帰っていかれました。 一時間ほどの時間でありましたが、私も学ぶことがたくさんありました。

ボランティアの方々が、眼の不自由な人たちの手を取り、「ここが本堂で階段がありますよ」といいながら、本堂へお連れする。「ここがお堂の真ん中ですから、ここから順序よく座ってください」という。お世話をされる方々も「すみませんね」「ここに座ればいいんですか」という。

そんなお世話をしたり、お世話をされるところをずっと見ていて感じたことがあったのです。それは「お互いに学び合っているのだなあ」ということでした。 お世話をする人は、眼の不自由な人たちをどうやってお世話をすればいいのかを学んでいらっしゃる。 お世話をされる人たちは、お世話をされるというのはどういうことなのかを学んでいらっしゃる。

たとえば感謝の心を持たなくてはいけないとか、素直さが必要であるとか、 お世話をされる立場として、どうあらねばならないかを学んでいるんだなあ、とそんなことを感じたのです。

学びによって心を磨く

「お世話をされることを学ぶ」というのは、理解しがたいものがあるでしょう。
人生は学びであるという考えが原点にあれば、気がつかないこともないのですが、
そこまで気がついて行動することのほうが幸せになれるのです。

たとえば、この一週間の間にあなたは何を学びましたかと問われたとします。
「これこれのことを学びました」と、すぐその学びがでてくればたいしたものですが、
なかなかそうはいかないでしょう。 それほど、時は無常に流れていくものです。
そこで静かに自分の行動なりを振り返り、思い出してみると、意外と学びはあるものなのです。 ですから、心を平らかにし、自らを振り返るということを昔の人は大切にしてきたのです。

私としての学びを考えれば、今この原稿を書いているのが、8月19日ですから、
ここ1週間というと、8月13日ころからの一週間になります。お盆で忙しく本も読めないでいましたが、 16日に久しぶりに本を手に取り読んだのです。

すると、水が砂のなかに吸い込まれるように、本からの学びが、心の中に染み渡っていくのです。「ああ、私はこのような学びがなければ生きていけない」と、そのとき深く思いまいした。

「心にも栄養が必要である」ということは私がよくいう教えですが、心の飢えを癒してくれ、心を健康に保つのが学びという食事であるのです。

これは本からの学びですが、相手があって多くを学べるという、簡単ではあるのですが、この真理を知っておくことが大切に思います。 相手というのは人間ばかりでなく、本もそうでしょうし、動物や花など自然からも多くを学べます。

私もこうしてお話を文章にし、多くの方に「法愛」という形で、読んでいただいていますが、 読者の皆さんの読みたいという思いがなければ、「法愛」を作っても無駄になってしまいます。 お話を作りそれを皆さんの前でお話しする。これは私の学びですし、「法愛」を読んで勉強するのも読者のみなさんの学びになります。 持ちつ持たれつのいい関係で、互いが学びながら心を磨きあっているのだと思います。

仏の心を学ぶ

先日私のお寺でお盆の前の施餓鬼法要(せがきほうよう)があって、たくさんの方々がお参りにこられ、ご先祖様のご供養を致しました。

その席で毎年私の拙い話を皆さんが聞いてくださいます。今年は「ご加護を頂く心」というテーマでお話を致しました。 御堂に集い、お話を聞くというのはありがたいことで、お話する私も、聞く方々も多くの学びをしたと思います。 加護とは神仏の力をいただいて、自らや家族の幸せを護ってもらうことですが、 その条件として、仏を信じ、仏の心と一つになる必要があるというお話をしたのです。

仏と一つになるエピソード(逸話)として、一遍上人のお話を致しました。

簡単に一遍上人のことを説明すれば、鎌倉中期ごろに活躍したお坊さんで、伊予(愛媛)の人です。 時宗という宗派を開き、踊り念仏を民衆に広げた方で、阿弥陀名号の算(ふだ)を配って諸国を巡ったとされています。 別名ですが捨聖(すてひじり)という名は有名です。

その一遍上人が法灯国師(ほうとうこくし)という方に教えを請うたことがありました。 国師というのは朝廷から国の師たるべき高僧であると認められいただく称号ですが、それほど徳の高いお坊さんであったのです。

法灯国師は禅の大家で、公案(こうあん)という禅の問題を、一遍上人に出しました。 この話は『一遍上人語録』(岩波文庫)のなかに詳しく載っています。 その問題は「念起即覚」(ねんきそっかく)というもので、念仏をお唱えする一遍上人にとっては「正しく仏を念ずるためにはどうあらねばならないのか」という問題であったと推測します。 坐禅をしながら考えに考え抜いた答えを、一つの歌にしました。

となうれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏の声ばかりして

この歌を法灯国師に持っていったところ「未徹在」(みてつざい)といわれました。
これは「まだまだ徹底した悟りではない」という意味を表した言葉です。

そこで一遍上人はさらに修行に励み、一心に坐禅をするなかで悟ったものがありました。それを再び歌にして持っていったのが次のものです。

となうれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏なむあみだ仏

これを聞いた法灯国師は、「よく悟った」といって印可(いんか・悟りの証明)したといいます。 最初の歌と悟りえて作った歌の違いは、最後の「声ばかりして」と「なむあみだ仏」だけですが、 最初の歌では、まだ南無阿弥陀仏と聞いている自分があって、
仏と一つになっていないと法灯国師はみたのでしょう。

それを「南無阿弥陀仏なむあみだ仏」とすることで、私と仏が一体になった境地をこの歌に表すことができたのでしょう。 聞けば簡単なことですが、これを歌にして、ここまで自分の心の姿を示すことは並大抵のことではありません。一遍上人の宗教的境地の高さに憧れます。

仏の加護を頂くにも、このように仏と私が一つになる必要があるわけです。 しかし、凡人の私達には、こんな修行もできないし、またそれほどの優れた宗教的才覚もありません。 そんなときに、凡人の私たちでも仏と一つになる方法があるのです。

まず一つ目が、儀式に参加するということです。 宗教的儀式に参加することで、その場の荘厳な雰囲気にふれ、その場の色に染まることができるのです。 仏を礼拝する儀式であればなおさらで、素直な気持ちで参加すれば、知らず仏の思いと一つになり、その結果「ありがたい」と思えるようになります。 それは儀式に参加することで、私と仏が一つになった証拠ともいえましょう。

映画など見ていても、その映画のなかに入り込んでしまうこともありますし、 小説を読んでいても、主人公と一つになる場合もあって、手に汗を握ることもあります。 それは映画や小説のなかに自分が入り込んで一つになるからです。 儀式に参加することで、これと同じようなことが起きるのです。

感謝の思いと仏の心

もう一つは感謝の念に染まるということです。

仏の思いの一つの現れに感謝があります。感謝が深ければ深いほど、仏と私が一つに染まっていくのです。 実際に感謝の思いを深くすると、ありがたさが心に満ちてきて、すがすがしいいい気持ちになるものです。 この気持ちこそ、仏と私が一つになっている証拠です。

「ご加護を頂く心」でのお話のなかで、実際に感謝の言葉をささげている方々の文章をお読みいたしました。 これは今年新盆を迎えた家で、その家の方が亡くなったとき、「故人を偲ぶ言葉」という題で家族の方々に書いてもらった文です。 短いのを二つほどあげてみます。

おじいちゃんは病気をしても働いて、
家のことや周りのことを大事にしてくれた優しいおじいちゃんでした。
無縁仏を建てる慈悲深い人でもありました。

寝たきりになってからでも、
こんなにおじいちゃんは我慢できて、
家族のために言いたい事も言わず、
よく頑張ったと感心しました。

ほんとうに家族のためにありがとう。
小さいころから優しいおばあちゃんと過ごす時間が大好きでした。

話し方、お料理の仕方、
すべてが女性らしく、心から尊敬しています。
今までも、これからも大好きです。ありがとう。

このようにお世話になった方に、感謝の言葉を書いているとき、 きっと相手を大切に思うがゆえに、満ち足りた幸せな思いが心の中を流れていると思われます。
そんなとき、仏の心を心としているのです。

儀式に参加することと、感謝の思いに染まる、これらの二つが仏と一つになる方法です。 そんな心で神仏に加護を願ったとき、神仏の力がいただけるわけです。 感謝の思いで加護を願うのですから、その加護も相手の幸せを願ってのものであることは言うまでもありません。

仏の心と一つになるという学びを「ご加護を頂く心」というお話のなかで致しました。 この世の学びで唯一のものは、仏教的には仏の心を学ぶために日々の生活があるといってもいいでしょう。 しかし世の中には、字の書き方や計算の仕方、花の生け方やそれぞれの仕事の仕方方法など、たくさんの学びがあります。

そのとき多くが講師をたててお話を聞き、学ぶことが一般的なスタイルでしょう。
学校でも先生が生徒に教えますし、どんな資格を得るのにも講師がいて学びます。
これは学びの基本的スタイルで、さらに学びの王道ともいえましょう。

しかし学びはそれだけでなく、普段の日常生活にあふれているのです。
そんな観点からお話を進めていこうと思いますが、その前になぜ学びが必要なのかを考えてみましょう。

学びの必要性

人は誰しも自分の赤ちゃんの時から比較すれば、ずいぶん多くの学びをしてきたであろうと思います。

言葉を話せて、字が書け、計算ができる。日本の現代社会ではあたりまえのように思えますが、世界を見ると、まだ字も書けない人が多くいます。

さらには料理の仕方、掃除の仕方、挨拶や礼節のあり方、野菜の作りから花や動物の育て方、お金の儲け方、子育てや夫婦のあり方などさまざまな学びを積んできたでしょう。

さらにはどう生きることが大切なのか、心をどう働かせたらみんなが幸せになれるのかなど、心に関する学びは特に大切であると思います。 この心の学びが、多くの学びの中心的位置をしめていると思うのです。

あたかも灯台の役目をはたしているのが、心の学びといえましょう。

どう生きれば自分もまわりの人も幸せになれるのか、ということを知っていることは、闇夜を照らす一条の光に似ています。 その光に導かれ、人は迷いなく、また人生に座礁することなく、幸せな航路を進むことができるのです。 あるいは身体の健康ということがよく言われます。

身体の健康のために、運動をしたり、食事に気を配ったり、ストレスをためないようにしたり、 サプリメントなどを飲んだり、さまざまな工夫をして、健康を維持します。

これと同じように心の健康も大切で、心の健康を保つために、正しい考え方を学ぶわけです。 それによって、健康な心を維持でき、幸せを培うことができます。

学ぶことによって、人格を磨き、自分の幸せとまわりの人たちの幸せを考えながら生きていくことができるようになります。 学びがあるゆえに、人は幸せの道を歩むことができるのです。

生まれてきた目的

そしてさらに重要なことが、学び多き人生を歩まんがために、私たちは生まれてきたということです。 すべてのものに存在する理由があり、また目的があるものです。

鉛筆は書くため生まれてきました。
紙は書かれるため、消しゴムは消すために生まれてきました。

もし必要がなければ、生まれてはきません。

私たちは人として生まれてきました。
必要とされ、生まれてきたのです。
 生まれた目的はさまざまでしょうが、そのなかでも大きな位置をしめているのが、
学ぶために生まれてきたと私は信じています。

何を学ぶのか。それは心のあり方を学ぶ。心の法則を学ぶ。仏の心を学ぶ。
そうして人格を高め、自らの幸せとまわりの人の幸せのために生きる。 それが秘められた私たちの存在理由なのです。

(つづく)