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法話

愛が輝くとき 1 「目に見えない愛」

今回から数回にわたって、『愛が輝くとき』というテーマでお話をしてみたいと思います。

愛と慈悲

愛とは仏教的には「渇愛(かつあい)」とか「愛着(あいちゃく)」と言って、強い欲望の意味にとらえます。

ですから愛というよりは慈悲で言い表しますが、 現代では慈悲よりも愛のほうが馴染みやすい言葉として使われていますので、慈悲を愛に置き換えてお話をしてみたいと思います。

厳密にいえば愛は与える思いであり奉仕の心です。仏教的には「布施」といえます。

慈悲は無償で与え続ける愛と表現してもいいでしょう。
分け隔てなく相手を思いやる心ともいえます。

慈悲の「慈」は相手に幸せを与える「与楽(よらく)」の意味があり、 「悲」は相手の苦しみを取り除いて幸せにしてあげる「抜苦(ばっく)」の意味があります。

そんな心あり方を「愛」と言い表し、お話を進めていきたいと思います。

愛はやさしさ

私は愛という言葉を聞くと嬉しくなってきます。

以前「愛が流れる道」というお話をどこかでしたことがあったのですが、そのときにも心が洗われる気持ちになりました。

今回のテーマの結論から申しますと「愛が輝くとき、みんな幸せになれる」ということです。

愛はやさしさであり、思いやりであり、相手を理解し、人を生かして幸せにしていく力です。

しかし愛は目に見えません。
心を問うもので大切なものは見えない存在ばかりです。

何故なのでしょう。

それは泥水をかき回したこの世にあって、何が正しいことであるかを見つけ出す修行を私たちがしているからです。

そんな泥水のなかで、何が最も大切なものかを発見し、 それを生きる糧にしていった人が、この世に美しい蓮の花を咲かせた人であるといえます。

その最も大切なものこそ、愛なのです。

このことを、もう少し詳しくお話ししていきたいと思います。

『聖書』の「コリント人の第一への手紙」第十三章のなかに、次のような愛の表現がなされています。

私は仏教徒でありますが、『聖書』も読み、いいところはみな自分の内に吸収していくという、自由な精神を大切にしています。

愛は寛容であり、愛は情け深い。
また、ねたむことをしない。

愛は高ぶらない。

誇らない、不作法をしない、
自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない、 不義を喜ばないで真理をよろこぶ。

そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。

こう愛について教えています。

この愛の教えの中には、仏教的な教えと重なるところが多々あります。

真理は一つである、という言葉が深く味わえるところではないかと思います。

愛は目に見えない

この愛の表現はみな目に見えないものです。
何故、愛は目に見えないのでしょう。

私たちはたまにではありましょうが、見えないものでも見る力をもっています。

たとえば、初めてお会いした人を見て、「この方はやさしい人である」とか「この人はきつい人である」とか、 ひと目でその人の人となりを判断できるときがあります。

これは見えないものを見る力ではないかと思われます。

人のお話を聞いていても、話し手の言葉にどれほどの力があるかが分かるときがあります。

いくら良い言葉や名言を並べても、心に響いてこないときもあります。それは話者の悟りが低いからだと思います。

言葉には力があって、その人の悟りの力によって、言葉にも重みや力強さがでてくるものです。

その言葉の思いを、見分ける力をみな持っています。
言葉の中に、相手の人格を見抜く力も、見えないものを見る力といえます。

そんな見えない世界を見る力を持っている私たちであっても、愛は見えないのです。

もし愛が見えて、あの人は愛を20%持っている。
この人は愛を70%持っている。

そんなことが分かれば、愛を70%持っている人のほうが優れていて、 そちらの方とお付き合いをすればいい、と分かるのですが、なかなかそうはいきません。

また愛の量が多ければ、この人は一生懸命生きているなあとか、その量が少なければ、なおざりな生き方をしているなあ、と分かります。

しかし愛は見えませんから、そんな判断もできません。

愛が見えた

愛は何故見えないのだろうと、このテーマでお話をまとめている間、ずっと考えてみたのです。
なかなかその答えは出ません。

ある日のこと本堂で朝のお経をおあげし、しばらく呼吸を調えて、坐禅瞑想をしていたときのことです。

そのとき愛がきらきら見えてきたのです。

数日前に久しぶりにお寺でご葬儀があり、そのとき本尊様に新鮮な花をお供えしていただきました。 喪主の方に、その花を布施してもらったのです。

その花を見ているととてもきれいで、喪主の思いが、その花の中に見えてくるのです。

喪主の方が理解しているかは定かではないのですが、日頃働いた貴重なお金を花という形にして布施し、 み仏様にその花を献じた。その思いのなかに愛を発見するのです。

静かに坐って、数日前に行われた葬儀を顧みると、 み仏様に捧げられた花の中に、花をお供えした人の愛が、きらきら見えてきたのです。

新しく修理さえていただいた、お釈迦様の像にも愛があるではないか。

本堂の右側の床の間に安置させていただいたお釈迦様。

身長80cmほどの小さな釈迦像ではあるけれど、 今は金箔が貼られてきらきら光っている、その輝きのなかに愛が見えてきました。

このお釈迦様は昔は、黒ずんでいて、しかも旧本堂の雨漏りで濡れてしまい、鼻も目もどこにあるか分からないようになっていました。 手も取れてしまって、それは悲しそうな姿をしていた。

新しく本堂ができたので、お釈迦様も新しく直してあげたいと思った私。

私一人の力で直せば簡単なことであるけれど、 たくさんの方々の思いやりの思いを集めて直してあげたほうが、 お釈迦様にとっては嬉しいのではないかと思い、檀徒のみなさまに、法話会のチラシとともに、寄付のお願いをしました。

小さな枠の中に書かれた寄付のお願いを、どれほどの人が見てくださるかと思いながら、寄付を募った。

そうしたら、子供会の卒業生で今、21才くらいになった典孝君(仮名)が、 「僕にも寄付をさせてください」と言って、1万円を持ってきてくださった。

私が21才のときに、そんな尊い思いを持ちえただろうか、と自問自答してみると、なかなかそんな尊い思いをもてなかった。正直な思いです。

そう反省してみると、その典孝君のお釈迦様をなんとかしたいという思いが尊く思えてきた。

子供会を始めて二十数年になるけれども、そんな子が出てきた。

布施をさせていただく心、お釈迦様を直してあげたいという思い、そういう心が育っていった。

それを非常に嬉しく感じ、それが心のうちに見えてくると、「愛があのお釈迦様の中に輝いているではないか」と思ったのです。

ああ、ここにも愛が見えてきた。畳のへりの丸い紋のなかに・・・。

本堂を建てたときのこと。

以前ある畳屋さんと「本堂の畳のヘリにある白い丸い紋を合わせるのは非常に難しいんですよ」という話をしたことがあった。

そんな話をした畳屋さんが本堂の畳を入れてくれた。
しかし、紋が隅のほうで揃っていなかった。

その人は一言も言わないで、申し訳ないような表情をして、私を見た。
その瞳の中に愛を見ることができた。

後日その畳屋さんが、拝式(はいしき)といって、儀式に使うヘリに丸い紋をつけた一畳ほどの薄い畳を寄付として持ってきてくださった。

その人の布施ができたという笑顔の中に、愛を見つけることができた。

そして10年ほどたって、別の畳屋さんがこられて、 「この紋は合っていませんね。私に直させてください」と言って、その畳を持っていかれた。

どのように直したかは知りませんが、直った。無償であった。

そして今、紋がきれいにそろって本堂の畳として、多くの人の足に踏まれながら、畳としてのお役に立っている。

この白い丸い紋の歴史のなかに、多くの人の愛が見える。

「なんだ、静かに己を顧み、まわりを静かに、そして大切に見つめてみると、愛がこんなにたくさん見えるではないか」

短い時間ではありましたが、坐禅瞑想する中で、心を落ち着け静かに己を観じていたとき、本堂にある愛が見えてきたのです。

しかし普段気をつけていないと、愛は見えません。

お金を数えるように愛が見えたらいいなあ、と思う。
お金を蓄えて、いくら貯金通帳の中にお金が入っているかとすぐ分かるように、愛も分かればいいなあ、とも思う。

しかし、そう簡単には愛は見えてこない。

何故だろうか。

一つに、 静かに自分を見つめる時間がなければ愛は見えないということ。

忙しいなかで我を忘れ、仕事や日々の事ごとに振り回されていると、決して愛は見えないということです。

そしてもう一つ。そう、愛が自分の心の中になければ、まわりの愛は見えてこないのです。

自分の内に愛がなければ、まわりの人たちの言葉や振る舞い、また見えない心の内に、愛は見えてこないのです。

自分の内にある「愛」が、他の人にある「愛」を鏡のように映し出して、その存在を確認できる。そう思います。

お金はいくら忙しくても見える。いくらお金がなくても、見える。
しかし愛は、忙しくて自らを顧みなければ見えない。

自分の内に愛がなければ、他の人の愛も見えない。
それが愛の一面にあると思われます。

愛は自らの心の内に愛を育てていかなければ、愛を見ることができないのです。

泥水のような世にあって

ダイヤモンドや砂金を探すには非常に苦労がいります。
山野の中に眠っているそれらの宝を探し出すのは極めて難しいものがあります。
ですから貴重価値も高いといえます。

この世は泥水の世であり、善も悪もごちゃまぜで、何が善で何が悪か、よく分からないときが多々あります。

少し気を許すと悪に染まって、善なる自分を取り戻すことができなくなります。

たとえば、こんなことがありました。

今から三十年数年前、1976年のこと。

カンボジアという国で、
民主カンプチという党が政権をとったことがありました。

その党首はポル・ポトといいます。
この人は裕福な地主の子として生まれ、パリに留学をしたことがありました。
そのパリである思想に影響を受けたのです。

それはコミンフォルムといって、
旧ソ連などの東欧6カ国の共産主義が結成した組織の考えで、
それに影響を受けたのです。

その根本的思想は「人よりも国家を重んじる」というものでした。

そこから出てくる考え方は、
「理想的共産社会の実現のためには、
人口が8分の1になってもいい」というものでした。

ですからその考えのもとに何をしたかというと、
百万人以上の知識人や富裕層の人たちを殺したのです。

人々は移動の自由も私的生活の自由も奪われてしまいました。
24時間、監視され、一切の自由な教育活動、宗教活動も禁止されしまったわけです。

ポル・ポトがカンボジアの政権をとったのですから、
それが正義であるとしたわけです。
正しいことである、善であるとしたのです。

人を百万人以上も殺すような思想は間違っているのではないかと、私は思います。

悪と善がひっくり返り、
そのため人びとは苦しみを背負わなくてはならなくなった。

このようなことが、この世には起きうるのです。
泥水の世とはよく言い表した言葉です。

私たちの身近な事件では、こんなこともありました。
東京女子医大で、平成13年の3月に起こったことです。

12才の小学校6年生の明香ちゃんが、医療ミスで亡くなりました。

心臓手術の際、人工心肺装置の操作ミスであったようです。

明香ちゃんは心臓に穴があいていて、
激しい運動を避け、普通に生活をしていました。

ですから手術をしなければ、まだ生きていられたわけです。

心臓手術のときには、手術中、心臓を止めなければなりまんせでした。
そのために、血液を体外のポンプや人工肺を通して循環させるということをしました。

そのとき血液を吸引するポンプの回転数をあげすぎたため
血液が上手に循環しなくなってしまったのです。

それを知らないまま、担当医が手術を続行しました。
それが分かった時には手遅れで、脳障害を起こし、脳死状態になって、
3日後に亡くなってしまったわけです。

しかし、そのミスを隠し、担当医は「心不全」と偽った。

普通の人であったならだまされてしまったでしょうが、
明香ちゃんのお父さんがたまたま歯科医で医療に詳しかったので、
手術に不信を感じ、内部調査を依頼したのです。
そしてこの事件は明るみにでたわけです。

お父さんは、
「手術は安全だから大丈夫と、娘を説得したのが悔やまれる」
と言っていましたが、悲しい出来事でした。

このとき担当医が、何が正しく、何が悪いことなのか。
どうすれば愛深い行動が取れたのか、分からなかった。

泥水の中でもがき悪に染まってしまったわけです。

お釈迦様は蓮の花を愛しました。

泥水の中から、その泥に染まることなく、きれいな花を咲かせる。
このように人も善悪の判断が難しい世にあって、善を摘み取り、愛の花を咲かせなさい、と説いたのです。

見えない愛というダイヤモンドを見つけたとき、心が富み、幸せの花を咲かせることができます。

泥水の世を生きる私たちは、このダイヤモンドのような愛を、 しかも見えない愛を探し出し、その愛によって蓮の花のような、自分という花をこの世に咲かせる修行をしているのです。

(つづく)

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